だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 61‐70

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六十一

君臣共栄(上巻204頁)

 私がイギリスに滞在していたときヴィクトリア女王はまだご在位中で、のちのエドワード七世陛下はプリンス・オブ・ウェールズ(注・皇太子)だった。この皇太子の人気も高かったが、その妃殿下がまた絶世の美女で、私が住んでいた下宿屋のおかみさんなどが、いつも「なんというきれいな天女でしょう」などという称賛の言葉を自分のことのように自慢する言葉をきき、イギリスの君臣がうちとけあっていることをうらやましく感じたものだった。
 そのころ、皇太子と妃殿下が毎週日曜に市内のある小さな教会に行かれていると聞き、一度拝観にでかけたことがある。その日妃殿下のご礼拝はなかったが、皇太子がみえていた。皇太子はやや肥満気味で、背はそれほど高くなく、血色がよく、女王によく似たご容貌であった。教会の入り口をとり囲んで見ている群衆に軽く会釈をしながら、にこにこして教会の中に進まれた。
 その人懐っこい殿下の姿を拝観し、なるほどイギリスだけでなくヨーロッパのいたるところで非常に人気があるのも、たまたまというわけではないのだと思った。
 イギリスは日本のような万世一系の皇室ではないから、君主と人民の関係を同列に論じることはできないが、世界の趨勢を考えると君主と人民のあいだは、理屈を超えて感情的な親しみを持ってうちとけることが必要なのではないかと思い、帰国後には会う人ごとにこうあるべきだと話していたものだ。
 そんなとき、英照皇太后陛下が前々より能楽を好まれ、明治天皇がご孝行のために造られた青山御所内の能楽堂で毎年一、二回能楽の催しを行うたびに、各流派の能楽師だけでなく身分のある素人の能楽家たちも舞台にあがらせているということを知った。
 そのために、玄人はもちろん素人も大きな光栄を感じて芸道に励んでいるとのことだ。この能の催しが、君主と人民とがともに楽しむ契機になったことを知り、私は、太平の世の美談でまことにありがたいことであると心からうれしく思ったのである。

 

御前素人能(上巻205頁)

 英照皇太后陛下は以前から能楽を好まれその道に精通されていらしたそうで、その一例としては、青山御所で催される能のおりに皇太后亮の林直庸を呼び、ご自身でその番組をご指名なさったことをあげることができる。あるとき、今度の狂言は「サクカ(原文「サククワ」)」にしようと仰せられたが、林氏はそのような狂言を前に見たことがなかったので、「サクカ」とはどのように書くのでしょうかと伺ったところ、陛下はホホとお笑いになり、サクカは咲く花と書くのであるとご教示してくださったので林氏はたいへん恐縮したのだということを古市公威男爵に話されたそうだ。
 このように、皇太后殿下は能の鑑賞の眼識がきわめて高かった。素人能で、シテなり、ワキなりが揚幕から一歩踏み出す姿勢を見るだけで、陛下はその技量をすぐに見てとることができたそうだ。
 古市男爵の懐旧談によると、男爵は青山御所の能舞台での御前能に二回参加したことがあるそうだ。最初は明治二十三(1890)年四月十二日で、望月をつとめた。二回目は同年の十一月十八日で歌占の囃子を舞った。
 さらに二十六(1893)年六月六日には、芝の能楽堂で行われた御前能で、天鼓、弄鼓之楽を演奏されたそうだ。そのときの番組はのとおりであったということだ。
 この番組を拝見すると、当時の素人能の権威が誰であったこということがわかるばかりでなく、玄人能楽師や囃子連中がいかに名人ぞろいであったかということをうかがい知ることができ、現今の能楽界と比較して、今昔の感にたえないものがある。

  

 御能組 明治二十六年六月六日

 松本忠恕
須磨源氏 福王繁十郎 津村又喜  黒田長知

           大倉六蔵  平田亀次郎
 間 茂山忠三郎
東北   中川久成  津村又太郎 一噌米次郎

           三須錦吾  
 穂波経           度
満仲   春藤六右衛門 小杉本祐  森田登喜
            大倉和三郎
 間 野村捨五郎
松虫   津軽承昭   津村又喜  森田登喜
            三須錦吾
 前田利鬯
三山   竹中俊太郎  南部利剛  一噌要三郎
            松平容保
 間 野村捨五郎
弦上   梅若実    植田源蔵  森田登喜
            三須初太郎
 子方 観世織雄
 林直庸
隅田川  宝生金五郎  石井一斎  一噌要三郎
            三須錦吾
  彩色之伝
  鉦之拍子
野守   宝生九郎   小杉本祐  一噌要三郎
            大倉利三郎
 飯田巽
重盛   福王繁十郎  津村又喜  一噌要三郎
            大倉六蔵
融    前田利聲   植田源蔵  森田登喜
            三須初太郎
 古市公威
天鼓   鈴木誠    津村又太郎 増見仙太郎
            三須錦吾  一噌要三郎
  弄鼓之楽
  間 山本東次郎 
    付祝言



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六十二  後の相馬事件(上巻208頁)

 以前、別項(注・29参照のこと)で相馬事件について取り上げたので、今回はその後の相馬事件について述べる。この事件は私の身にはなんら関係がないが、後藤(注・後藤新平)伯爵から私はじかに話をきいている。自その困難に対応した本人から話をきいておきながらそれを聞き流すだけでは、宝物を泥の中に投げ捨てるような気がするので、後藤伯爵の語った内容をここにそのまま叙述することにしてみたい。(注・内容についても現代文に意訳している)
  

 相馬事件については不思議な事実があった。最初は相馬誠胤に同情した陸奥宗光が、相馬事件の後半では反対に後藤に圧力をかけ法廷に立たせるに回ったことである。これは相馬家が古河銅山に出資していることと関係があった。
 のちの相馬事件、つまり事件の後半がどういうものであったかというと、明治二十五(1992)年に錦織剛清が相馬誠胤の死因が毒殺であると告訴したので、死体を発掘して大学で検証したところ毒殺の事実についてははっきりしなかった。そのために、錦織は誣告罪(ぶこくざい。注・虚偽告訴罪)、後藤はそれを仕向けたという罪で投獄されることになった事件である。
 その当時後藤は衛生局長であったから、監獄にはいっているあいだは休職扱いとなった。その六か月と二十日のあいだ、検事と激論をかわしその後の公判で無罪になったのを検事がさらに控訴した。控訴院でふたたび論争が続き、ここでもついには無罪になり明治二十七(1994)年に終わりを告げた。
 後藤は拘引される四日前に、医師の長谷川泰の訪問を受けた。長谷川は、たった自由党の本部で陸奥の働きかけでとうとう後藤を入獄させることになったと、星亨がある人に話しているのをきいたから、君は十分に用心しなければならないと忠告したそうだ。 

 そのころ相馬家には多量の金塊があったが、それを当時の家職(注・執事)が売り払い、その金を古河銅山の資金に投じたので、古河と相馬のあいだには密接な関係が生まれた。陸奥の子(注・次男)は古河の養子になった古河潤吉であり、古河市兵衛の相続者であったから、陸奥が後藤を入獄させるようにいろいろ図ったというわけだった。
 ところで、後藤が錦織に虚偽の告訴をさせた証拠とされたのは、後藤が引っ越しをしたときに錦織が手伝いに来て、懐にしていた相馬誠胤毒殺事件の控訴状の原稿を違い棚の上に置き忘れたのを家宅捜索のときに発見されたということと、錦織が入獄したときに生活費として三千五百円を置いていってほしいと希望したのに対して、後藤が錦織の借用証文に印を押したことのふたつである。
 しかし後藤にはなにもやましいところがなかったから、最初から検事を抑えてかかったが、その検事は西村伝西川漸だともいうという福島出身の非常に意志の強い男だったから、熱心に後藤を取り調べ、五十銭、一円の金を憐れんで与えたというのであれば関係はなかったと思えるが、三千五百円という大金の証文に印を押すとは、その意味するところは明白ではないかと迫った。
 後藤はそこで一首の古歌を口ずさみ、花は散り方を見るのが情けであるという意味をほのめかしたそうだが、彼はこのことがよほど印象深かったとみえ、その後、後藤が福島に行ったとき、彼は福島で弁護士をやっていたが、いちばん先に出迎えて、名刺の裏にその歌を書きつけて見せたとのことだ。彼もなかなかの人物だったのであろう。
 さて後藤はそれから監禁十七日に及んだが、そのとき牢番が後藤に同情し、世間のことを語ってきかせながら、あまり検事と争うのは身のためではないと忠告すると、後藤は一首の歌を詠んだ。

    なかなかにけふは見られて面白し 人の心の裏と表を

そのころ後藤は思いつくままにたくさんの歌を作ったが、多くは忘れてしまったそうだ。
 後藤は検事に対し、僕が錦織をそそのかすはずがないことを示す理由がある、と言ったという。今日では毒殺の方法が非常に進み、一か月を経過するとその痕跡がわからないようになる。そのことは、僕が医学の上でもよく知っていることだ。それなのに、一年を過ぎた遺体を解剖して毒殺の検証をするなど、到底無理な話である。それを熟知している僕が、益のないことをそそのかすはずがないではないか、これが学問の真理というものだ、と説明し、検事がいろいろと追及しても平然として、入獄の日数が長引くのを不満として、世間のひとびとに知ってもらいたいと思ったのである。

 しかし不思議なことに、このほど磯部四郎が、あの相馬誠胤の妾の口述筆記をしたのであるが、そのなかに、誠胤は確かに毒殺されたとあったそうで、これはさらに調べてみなければならない事実ではないかと思っている、とのことだった。
 以上が後藤伯爵から直接きいた話である。この当否について私は何事も語らない。ただきいたままを伝えるのみである。


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 六十三
三井整理の進捗(上巻212頁)

 三井革新の大会議のあと、私はその会議で決まった整理係をさっそく銀行内に設置しようとしたが、前述のとおり西邑、今井などの現重役陣はしぶしぶ同意していたので、とにかくぐずぐずして実行するまでには約一か月かかり、七月四日になってついに滞貨整理係が成立した。三井三郎助(注・高喜は当時総長なのでおそらく高景)が係長、私が次長になった。
 この整理係の仕事は、東京三井銀行本店の貸付係の帳簿のなかから不健全とみなされるものを選び、これを整理係の帳簿に移し、回収がもっとも困難だと思われる貸金から、債務者に事情を告げて催促しあるいは協議する。抵当を差し出す場合は引き取り、ほかに借り換えをする場合はそのようにしてもらい、かたっぱしから順番に回収作業を行うというものであった。
 この実務にあたるために専属の貸金催促係を二名置いた。ひとりはのちに原田電気商会主になる原田金次郎氏の実父だった。
 このときの不良貸金の相手に堀田瑞松という人がいた。軍艦の底に漆を塗り、貝殻の付着を防ぐという発明を実施するための資金を貸し付けたもので、現在の大崎の三井控え邸の三万坪はこのときの抵当流れである。

  また官吏の邸宅を抵当として貸し出してあったものも多数あった。例の官金出納に影響を及ぼさないように西邑氏らの意向を考慮したので、回収に時間のかかるものをあったが、抵当の時価が貸金と大差ない場合には利息を払わなくてもよくしたりしたので、案外多額の不良貸金を整理することができた。これが、私が銀行実務にあたって最初にやった腕試しというものであった。


三井資力の消長(上巻213頁)

 明治二十四(1891)年四月、三井銀行が恐慌に遭って当惑していたとき、いったい三井全体の資産がどれほどあるのか、貸借対照はどのようになっているのかが明確にはわからなかったので、ある日井上侯爵が私を自邸に呼び、西邑にきいても三井の財産がどのような状態なのかは、ただ大丈夫だと言うだけで要領を得ないので、まずこれを調べ、その結果が他人に見せられるような状態なら、大蔵省や日本銀行やその他財政関係の要職にある人達に打ち明けておくほうが三井のために安全だと思うので、君が主任になってさっそく調査してほしいと言われた。
 そこで私はさっそく調査にとりかかった。これにはおよそ一か月半もかかったが、なかなか複雑な作業だった。たとえばある貸金があったとして、それを全部回収できる場合、七割あるいは五割回収できる場合、またはまったくの貸し倒れになる場合などと見込みを立て、回収見積高を資産に編入するのであるが、東本願寺に貸した百万円、第三十三銀行に貸した七十五万円、角堅吉氏から未返済の三十六万円、神戸支店で嘉納某氏から引き取った小名浜の土地、または三井元方に支出した三池炭鉱入札の即金払いの百万円などを、どのように見積もったらいいのかほとんど見込みがたたない。まず元金だけ取り戻せれば上出来だろうくらいに考えて、その財産と政府預金、民間預金、その他の借方勘定と差引計算した結果が、クレジットのほうが少しデットを上回ったくらいで、だいたい貸借がどっちもどっちくらいの勘定になった。
 今日から見るとじつに馬鹿馬鹿しいお笑い草のような計算だが、その調査ができ上ったときには三井の主人がこれを見ても驚かず、井上侯爵なども、これならそれほどまでに悲観することもなかろうとむしろ満足したような次第で、隔世の感があると言わざるをえない。
 さてこの調査表を十数部作り、井上、渋沢、その他に提出しておき、ほどなく山陽鉄道の引継ぎを終えて上京した中上川彦次郎氏を新橋の停車場に出迎えたのであるが、三井銀行のほうでは中上川氏に知り合いはおらず、また氏の入行を歓迎していたわけでもないので、私以外に出迎える人もなかった。とりあえず調査のできあがった例の調査表を氏に示すと、これなら思ったよりも結構ですね、と言われたような次第だった。
 中上川氏がいよいよ三井銀行にはいり、各方面にあいさつ回りをしたときには、井上侯爵とも相談のうえ日本銀行の川田小一郎氏にもこの表を見せ、このような状態なので以後よろしくご援助を願いたいと述べたそうだが、中上川が日本銀行から帰ってきたとき私に向かって、今後三井の改革を行うにあたり、再び川田などの前に頭を下げたくないから、たとえ利益は少なくても、まずは堅実を心がけて進まなくてはならない、と述べられた。例の傲慢な川田の態度に憤慨したのであろうか、あの感慨深い顔つきを今でも印象深く覚えている。


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 六十四
道具入札の嚆矢(上巻215頁)

 東京において道具入札売買が始まったのは明治二十五(1892)年のことで、それには私も実は密接なかかわりを持っているのである。それはほかでもない、前記のように私が明治二十四(1891)年から三井銀行内に整理係を設けて、貸金を整理したり担保の品を処分することになったりしたことと関係する。こうしたなかに、堀田瑞松という塗物師が、その地所と家屋、道具類を抵当として六万円を借りているケースがあった。
 その抵当物のなかには、今日三井家の所有になっている三万坪の大崎別邸なども含まれていたが、彼の自作による黒塗の書棚が十数個、また中国の黒檀紫檀枠の織物張交ぜ屏風などの数々の道具類も含まれ、それらを処分することになったのである。
 また第三十三銀行頭取の河村伝衛氏の抵当だった道具の処分にあたり、その一部は、当時、山城河岸にあった堀田瑞松の住宅に陳列して三井内部の人間に売却し、その他多数の茶器は星ヶ岡茶寮において売却することになった。
  そのころ三井に出入りしていた加賀金沢出身の徳田太助という人がいて、兜町の角で鬼の念仏を看板にして薬種の店をやっていたが、この人が道具の売買にも心得があるということでその売却を任せたところ、彼は東京での従来の道具売却の方法だった競売法を使わず、加賀の入札売却法を採用したので、それからこれが東京での道具売却は入札法になったのである。そのときの荷主(注・売却主)には、三井を代表して私がなり、徳田を札元にして入札に当たった。
 このときの道具相場は驚きにたえないほど安かった。田村文琳という有名な名物唐物茶入に対して、岩崎弥之助男爵の注文を受けた小川元蔵が三百円、馬越恭平氏から依頼された山澄力蔵が三百円五銭の入札で、わずか五銭の差で馬越氏に落札した。これは維新後のわが国の道具移動史において、特筆すべき一事件だと言えよう。
 このとき出た道具の数が何百点だったのか記憶しないが、売上高が約四万円前後だったから私はとてももったいないと思い、のちに大阪三井銀行の支店長になったとき、同行の抵当になっていた長田作兵衛家の道具を処分するときには、この時の経験から思いついてそのとき売却することはせず、全部を三井各家に分配することにしたのである。

  こうした経験から私の道具鑑賞眼はおおいに培われ、茶事に対する興味も増して、とうとう病みつきになることになったのである。


東京地面の価格(上巻217頁)

 維新後明治中期にいたるまで、東京市内の地価は驚くほど安かった。維新直後には、高輪の毛利邸が二万坪以上でたったの八百円、明治四年に慶應義塾が買い取った芝三田台の島原藩邸が一万三千坪で五百円あまりであった。
 小石川の水戸藩邸は、維持困難というのでみずからすすんで政府に献納したなどというあきれるような話や、明治十年前後に馬越恭平氏が本郷弥生町の宅地八万坪を坪一円で政府から払い下げられたが、ほどなくして銘を龍田という柿のヘタ茶碗の購入資金に困り、土地をほとんど原価でほかの人に譲り、のちにその地所が坪五十円に値上がりしたときに、この茶碗は四百万円の身代わりだと言って披露したなどという奇談もある。
 番町あたりの宅地はだいたい千坪で二百五十円くらいだったので、政府の高官たちは月給の余りで買い入れ、後年の財産になった場合が少なくない。
 私が三井銀行内に貸金整理係を設け、抵当流れの地所を処分しつつあった明治二十五、六(18923)年ごろは、地価も非常に高騰して昔のような安さではなかったとはいえ、まだまだ高の知れたものだった。現在都新聞などがある五千坪のひとまとまりの土地は、小野金六氏が経営していた東京割引銀行が持て余していたのを、私が三井銀行に持ち込み一坪八円で買い取らせたものだ。
 またそのころ政府が、丸の内の土地十万坪を、一坪十六円で払い下げることになった。私は三井がこれを引き受けるかどうか三井銀行の幹部会にはかったことがあったが、同行は当時官金返却に専念している際中で中上川氏はまったく賛成しなかった。
 これを買収したのは三菱だったが、ここで思い出されることがある。明治二十二(1889)年に私がロンドンに滞在中のこと、長崎造船所建設の下調べのためにイギリスに来ていた荘田平五郎氏をサヴォイ・ホテルに訪問したことがある。そのときに、イギリスの貴族が年利2パーセントの利回りにもならないロンドンの土地をひとりで多数所有しているのは経済上の利害から見てどのように説明されるのだろうか、という話をしたとき、荘田氏は、富豪の財産はなるべく種類を多くして、ひとつのものに集中させないほうが安全だ、土地は利回りは小さいが財産品目として非常に大切なものである、と言っておられた。三菱が丸の内の土地を得たことは、堅実さで知られる弥之助男爵の考えではあったろうが、当時洋行帰りの荘田氏の提案の力も大きかったのではないかと思う。


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 六十五
両川の智恵競べ(上巻219頁)

 明治二十五(1992)年ごろは、日本銀行の川田と三井銀行の中上川が対峙して、貫録という点ではすこしばかり不釣り合いではあったものの、なんとなく敵国同士の観があった。その一方である三井銀行の中上川は、官金中毒の治療のためにまずは滞貨金の回収などの整理に没頭していた。
 そのなかに、三井銀行の横浜支店長から正金銀行貸付係長の角堅吉に預け入れした三十六万円に関する係争問題があった。正金銀行にはこの預かりの事実がないということなので調査してみると、角が、私用で競馬などにつぎこんでしまったものらしい。角は金を預かったとき、細長い手形のような紙に預金高を書き入れそのつど三井銀行の支店に渡していたらしく、法律の上でなかなか複雑な問題になってしまった。
 しかし中上川はその紙手形の中に正金銀行の便箋があるのを発見してこれを重要視し、岡村輝彦を弁護士として訴訟を開始しようとした。
 そのとき川田総裁が、正金と三井の両銀行が法廷で争うのは非常によくないので、自分に仲裁を任せてもらえればなんらかの力になれると思うと言い出した。
 正金も三井も、これ幸いと異存はなかったが、川田がどのようにこれに裁きをつけるのか、その手並みにみなが注目することになった。
 川田が双方の代表者に提示した仲裁案は、正金銀行が海外為替用に日本銀行から年に二朱(注・未調査)で融通している資金のなかから百万円を割き、二年間、三井銀行での使用を許可せよ、というものだった。 
 正金銀行でも損にならず、三井も横浜支店長に多少の手落ちがあったわけだから、この仲裁案を双方が受け入れ円満に解決した。

 それにしても、中上川が手形の紙のなかから正金銀行の便箋を見つけた目のつけどころと、川田が双方が受け入れる可能性のある裁断を下したところには、さすがに当時の財界の両巨頭の知恵比べの観があった。いまではこのときのことを知る人も少ないので、両雄の面影をとどめるためにここに書き留めておく次第である。


渋沢の八方美人(上巻220頁)

 渋沢栄一は、明治、大正にまたがり、わが国の財界にもっとも偉大な足跡を残した大経世家であるばかりでなく、学識や経験にも富み、智徳円満な君子である。福禄寿(注・子孫、財産、長寿)のいずれにも恵まれ、維新後のわが国の商工業の草創期にその発展を助けた功績は、どんな讃辞をもってしても言い尽くせないほどである。
 ところで、明治中期以降の渋沢子爵だけを知る人は、子爵を円満で老熟した、いわゆる八方美人の見本のように思うかもしれない。しかしそれ以前の渋沢子爵は、必ずしも浜辺の貝殻のようにすべすべして尖ったところがないというわけではなかったのである。
 子爵が明治の初年に大蔵省に出仕したときはかなり気骨のある議論家だった。大久保利通卿らとも相当の議論を戦わせ、結局井上侯爵とともに連帯辞職するに至ったのである。

 民間にくだってからは第一銀行の頭取になり、その翼を財界に伸ばすことになった。三菱の岩崎弥太郎とその一派に対峙し、さながら敵対国同士のようになっていた。
 共同運輸会社と三菱汽船会社の競争では、渋沢子爵が正面に出ていたわけではないが、三菱一派と、渋沢、益田らとが対決の情勢を見せていたことは誰の目にも明らかだった。 
 そういう渋沢子爵の世渡りぶりが、明治中期以降に目だって変わってきたように見えたことについては、なにか理由があったにちがいない。
 私の見るところでは、前述した明治二十四(1891)年四月(注・じっさいは七月か?)に起きた三井銀行、第一銀行の恐慌に際し、渋沢子爵が第一銀行に対する責任上やむをえず川田総裁に頭を下げて援助を請わなくてはならなかったことがあったと思う。

 この事件は渋沢子爵にとり、一生でも一、二を争う不愉快な出来事であったと思うが、同時におおいに悟るところがあった事件でもあったのではなかろうか。
 実業家が、銀行や会社などの事業に当たり責任のある地位にある場合には、なによりもまずその仕事に対する責任を負わなくてはならない。自分の権力を増大させようとか、名声に注目してもらおうなどという自己本位の考えは一切投げ捨てなけれはならないものなのだ、というような、子爵の覚悟ができたのではないだろうか。
 渋沢子爵が関係した事業は非常に広範囲にわたっているので、子爵の利己的な意地だとか好き嫌いが原因で財界有力者と衝突を起こしたり事業になんらかの損害を受けるようなことは、事業の従事する人間として申し訳が立たないという考えが、このときに子爵の胸中に湧き起こってきたのではないかと思うのである。
 もちろんそのとき渋沢子爵は五十歳を過ぎ、いずれにせよ老熟円満の境地に達する年齢ではあったけれども、このことが一層、子爵の心境に変化を及ぼしたのではないかと、私は当時見ていて思ったものだった。むろんこれは、凡人の浅はかな観察に過ぎぬかもしれない。記して識者の教えを待ちたい。


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 六十六
吉原謳歌の名残(上巻222頁)

 徳川時代に紀文(注・紀伊国屋文左衛門)や奈良茂(注・奈良屋茂左衛門)が全盛をきわめ、高尾だの玉菊だのという名妓が美談を残して軟派芸術の繁栄の中心となった吉原も、その全盛は維新の変動とともに下火になり、一年一年とその影が薄くなっていった。それでも明治二十年代まではさすがにその名残をとどめ、芸者や幇間の達人が残っていた。
 なかでも、おりゑ、お直、お〆、おちゃらなどは一騎当千の老妓とみなされ、それに山口巴の女将おしほを加えて、東京の高官紳商のお座敷にはおうおうにしてそのような人たちがはべっているのが見られていた。
 吉原というのは、昔、浅草の札差の旦那衆が、流連(注・いつづけ=連夜遊行にふけること)して伊達を競った不夜城であるから、一時期彼らのあいだで全盛を誇った河東節のなごりをなおとどめていた。老妓のなかにはまだこれを上手にやれるものも多く、おりゑ、お直はその道の達人であったし、おちゃらは新内節、お〆は吉原名物の木遣で有名だった。
 とくにお〆は、相撲取りのような大きな体をしていて、それが閻魔大王が顔をほころばせたようにして大声で木遣りを歌いだすと、いかにもはつらつとして吉原らしい元気さに満ちていたものだった。
 吉原の芸者や幇間というものは、もともと太夫のワキ、ツレとして座敷を取り持つのが仕事である。また夜桜祭りや灯篭祭りのときに、あの二輪加(注・にわか=即興芝居)を演じるためにいつもその技術を練習しているので、芸の面で当時東京では匹敵するものがなく、どのような座敷に臨んでも、彼女たちは姐さん格で仰がれ一目置かれていた。
 しかし明治二十年代になりその老巧者が凋落していくとそのあとを継ぐものもなく、一方で新橋や柳橋で芸道が奨励された結果、優者生存のならいで、明治中期を最後にして北の廓が挽回することはなかった。
 しかしその最後にあたり、たとえ線香花火のようであったとはいえ目をひく火花を加えたのが、ときの日本銀行総裁で旧式の大尽風を吹かせて豪勢な磊落ぶりを見せた川田小一郎男爵であった。
 川田男爵の全盛時代には、昔から芸者に美人なしと相場が決まっていた吉原に、いとめずらしいことに吉次という美しい芸者がおり、川田大尽の勢力をしても、かんたんにはなびかすことができないのであった。
 それを、例の老妓連中が画策して、北廓(注・吉原のこと)繁盛のためのいけにえとして、吉次を明治の仏御前(注・平家物語の白拍子)として差し出したので、大尽は布袋腹をかかえて有頂天になり、それから一層吉原のパトロンになっていったのである。
 川田大尽はもともと舞踏や音曲を好み、見巧者、聴巧者として芸術の奨励を標榜し、吉次をはじめとする東京芸者を京都に連れてゆき、関西風の舞を習わせたりもした。
 また将来に見込みのある女流芸人を庇護し、おりにふれてその芸道の進み具合を確かめるのを楽しみとするような人でもあった。
 後に清元延寿大夫の妻となった清元お若なども少女時代にその天性の歌声を愛され、養母のお葉とともに川田の愛顧にあずかったことはよく知られている。
 川田氏にこのような因縁や志向があったために、吉原謳歌の時代の最後にひと閃きの光が添えられたわけであるが、それがとうとう繁栄のなごりとなってしまったのは、明治中期以降に世相が一変してしまったその象徴だったと見てよいかもしれない。


応挙屏風の割愛(上巻225頁)

 全盛時代の川田総裁の性格がよくあらわれたエピソードがある。そのころ日本銀行の監事をつとめていた森村市左衛門のち男爵氏が円山応挙の「早苗時鳥屏風」一双を持っていたが、川田氏は茶碗や書画のコレクターというほどではなかったにしろ、書院の飾りには相当の書画骨董を陳列されていたから、すこしはそちら方面の趣味を持っておられたにちがいない。あるとき森村氏所蔵の応挙を見せてもらい、うらやましくてたまらなくなった。しかしさすがに譲ってくれとは言い出しかねたらしく、いろいろ考えた末に、得意の知恵を絞ってハタと一案を思いついた。
 それは、江戸川町の自邸に東京の名士を招待する席上、「目に青葉、山ほととぎす」の季節でもあったので、家の裏庭にある水田の早苗が青々と風にそよぐそよぐ五月の夕べの席に一興を添えたいので、どうかあの屏風を貸していただけないだろうかというものだった。森村氏としても、これを断る理由もなく、頼まれるままにさっそく屏風を貸し出した。
 森村氏も招待客のひとりだったので当夜川田邸に行くと、例の屏風が客間の一方に立てられ、郷里の土佐の国からは、ほととぎすを二、三羽取り寄せて、招待客が客間に集まったころに鳥を鳴かせるという趣向であった。

 ところがほととぎすがその注文のとおりに鳴きださないので、主人はじりじりと焦りはじめ、今にも癇癪玉が破裂しそうになったその時、屏風のかげから裂帛(注・れっぱく。声などが鋭いの意)の一声が客の耳をつんざいた。
 これには列席のひとびともすっかり感心して、主人の考えた珍趣向を口々にほめたが、森村氏もまた、主人がこれほどまでに凝りに凝ってこだわったことに感じ入り、即座にその屏風を寄贈し、川田氏の執着心を満足させてやったのだそうだ。 
 明治二十年代には、まだこのような好事家(注・趣味人)がいて、はなしのタネを蒔いている時代だった。今日の目から見るとなんとも昔懐かしい気持ちになるのである。


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 六十七
関西探題(上巻226頁)

 私は明治二十六(1893)年に、三井銀行支店長を命ぜられて大阪に赴任することになった。これはただ大阪の一支店長ということではなく、じっさいには名古屋以西の京都、大阪、神戸、広島、下関、福岡、長崎の諸支店の総監督であって、いってみれば三井の関西探題(注・探題とは鎌倉、室町幕府時代の地方長官)というべき任務を帯びた仕事だった。
 三井銀行には、明治二十四(1891)年八月に中上川彦次郎氏が入行した。彼は二十五年一月(注・じっさいには2月か?)からは三井銀行副長になり、三井高保男爵を補佐して着々とすぐれた手腕を発揮していた。私も本店での滞貨整理の事務がようやくほぼ片付いてきたので、中上川氏が、東京のほうは自分が引き受けるので君は大阪三井銀行支店長になって関西方面の采配を振るってほしいということであった。そこで五月の末だったと思うが、妻を連れて大阪高麗橋の三井銀行社宅に引っ越した。
 当時の三井銀行は、今の三越大阪支店がある場所にあった。木造二階建てで、正面の間口が三十間(注・約54メートル)、奥行も同じくらいの非常に大きな建物だった。
 当時の日本銀行支店長は鶴原定吉、三井物産会社支店長は岩原謙三、三菱銀行支店長は荘清次郎氏で、大阪の実業家たちとは、明治二十二年の暮れから翌年はじめにかけて吉川泰次郎氏と同地を訪問したときの顔なじみだったから、あのときは半人前の貧乏書生だったのが、たちまち三井銀行の支店長に早変わりしたのを見てみな非常に驚き、また同時に歓迎してくれたので、職務のうえで非常にありがたかったものだ。
 しかし日清の関係がそのころまでには非常に険悪になっており、戦争が時間の問題になったので金融の状況は極度に緊張していた。そろそろ始まったばかりの諸工業も青菜に塩の状態で、わたしの「関西探題」の仕事にも単純にはいかない重要性が加わったのである。私は京都をふりだしにして長崎のはてまでを巡回し、非常時における応急策を講じた。
 滑稽なことには、下関から尾道まで乗船した汽船のなかで、まんまと携行品を掏られてしまい、尾道で上陸したあとは自分自身が荷為替(注・荷物を担保にすること)になって、ほうほうの体で大阪に帰りついたのであった。当時は探題殿の威厳にかかわることなので知らん顔の半兵衛で澄ましていたが、おかしくも忌まわしい大失敗というものだった。

 

生仏の雨曝(上巻228頁)

 私が三井入りした明治二十四(1891)年のころには、京都の東本願寺に、ある政府の高官の口入れで三井銀行が貸した百万円の借金があった。当時の百万円といえば今日の一千万円よりもはるかに高額で、私が三井銀行に滞貨整理部を設けて貸金回収を図ったときにも、この半額でも回収できればまあ上出来だろうと思っていたものである。
 さて私は明治二十六(1893)年五月に大阪支店長になり、その百万円は本店の貸金ではあったが、関西探題であることの手前、私がその回収談判を引き受けなくてはならないことになった。そこで同年の十月ごろであったか、私は田宮貸付課長を連れて京都の東本願寺に乗り込んだ。
 当時の本願寺の執事長は渥美契縁、出納長は小早川銕僊だった。渥美のほうは小柄でやせぎす、機敏な顔つきをしている一方、小早川のほうは六尺(注・約180センチ)くらいもある大坊主で、いかにも動じない人を食ったような感じだった。
 百万円の金主の代理でやってきた私の身体からは、まばゆいばかりの光明が発していたのであろう、彼らは平身低頭で私を出迎えいちばん正式な大広間に案内し下へも置かぬ接待ぶりだった。
 私の談判の内容は、すでに中上川と打ち合わせ済みだった。それは、返金がいつになるかわからない以上は、枳殻御殿を抵当として公正証書に記入させよ、というのだった。
 これには渥美も小早川も驚いた。それは無理もない、枳殻御殿というのは、むかし源融の大臣(おとど)が、塩釜の浦の風景を模して造営した六条河原院の遺跡であり、その後、石川丈山が作庭を指揮したという伝説もある、東本願寺門主の隠居所である。これを手放すことになったらたいへんだ。今後返金が期限に間に合わず、枳殻御殿が抵当流れになったならば、それは生き仏が雨ざらしになるのと同様だ。それは宗門の一大事だ、ということで、彼らははじめて真剣に目を覚ますことになったであろう。
 「生き仏の雨ざらし」という標語が、非常に檀家衆を刺激することになった。そのあとただちに加賀、越前、越中、越後、能登方面や尾張地方に派遣された役僧たちの活躍で予想外の浄財が集まり、まだ半年にならないあいだにきれいさっぱり百万円の借金の返済があったので、今度驚いたのは私たちのほうだった。浄土真宗の信仰の力はまことに偉大なのであった。ある人が、本願寺にお金を納めようとしていた老婆に、お前がせっかく貯めたへそくりを差し上げても、なまぐさ坊主の酒宴の代金に消えてしまって、なんの甲斐もないだろうと忠告したところ、それでは御門主様がお気の毒なので、もっと納めなくてはなりません、と答えたという。
 こうして当時は私たちも驚いたものだが、この信仰がはたしていつまで続くだろうかということを今後も興味深く眺めていきたいものである。


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六十八 大阪の商傑(上巻230頁)

 維新の前まで諸国大名の蔵屋敷を相手に封建的な商取引を長く続けていた大阪町人の大店が、維新の変動で将棋倒しに崩壊すると、一般の大阪人の元気も衰えてしまった。
 明治の初めに大阪で起業、興産ののろしをあげたのは、五代才助、中野梧一、藤田伝三郎、磯野小右衛門などの薩長人だった。また短い間ではあったが、井上世外侯爵が明治六(1873)年に下野したあとに藤田伝三郎、益田孝、木村正幹、馬越恭平らを取り込んでできた先収社という商会が大阪にあったこともこの情勢を物語るものである。
 それから十数年後にあたる明治中期の、私の三年間の大阪滞在中に接触した商工業界の巨頭には、以前からずっと続いて活動していた先輩あり、あるいは近年に台頭してきた新顔もあったが、とにかく近世大阪の財政史に特筆されるべき人物たちなので、ここで、もっとも傑出している数名についての短評を試みたい。
 明治中期における浪華財界の花形は、なんといっても第百三十銀行頭取の松本重太郎である。丹波間人町の出身で、頑丈な作りの身体はさながら力士のよう。顔つきもまことに大づくりで、眉毛が太く目も大きいといった感じで、それが大声で話をする、そのさばさばとした中に機略を感じさせるものがあった。第百三十銀行をバックに、大阪紡績をはじめとする新規の工業のほとんどに手を出し、大阪は一時、松本氏の天下のように思われた。しかしあまりに手を広げ過ぎたため、日露戦争の反動でまず銀行が破たんし、最後はあまり振るわなかった。養子の松蔵氏が後継者になり、それほどまでには零落の憂き目を見なかったことは不幸中の幸いだったと思う。
 次に、この松本氏のワキ役というべき存在は田中市兵衛氏であった。白髪巨眼に一文字の大口という、人形浄瑠璃に出てくる鬼一法眼そっくりの容貌だった。大阪旧大家の旦那であったため、どことなく鷹揚なところがあり、義太夫は堂にいり、玄人はだしであったそうだ。有望な市太郎という子息が早死にしてしまい、遺った事業を継続する人がいないようだが、干鰯問屋が本業で大阪米穀取引所の頭取をつとめ、大阪築港地付近に所有する土地が十万坪あり、のちに値上がりしたので遺族は裕福であるという。娘は中橋徳五郎夫人になっており、父の血をひいたためか長唄やその他の音曲に堪能だそうだ。
 もうひとり、大阪の大家を背景にして当時の重鎮のひとりだったのが、住友の広瀬宰平氏である。そのころ六十過ぎくらいだったが、維新のときに住友家が別子銅山を失わずにすんだのはこの人の尽力であったというから、住友家の今日があるのは彼に負うところが大きいのだろう。この人もまた大柄で、老体の紳士風に見える人だった。
 鴻池家の顧問だった土居通夫氏は伊予伊達家の藩士で、鴻池家と伊達家の関係から、同家の顧問になり、外交上の代表となっている人だった。この人もまた大きな身体で、素人としてはかなりうまく義太夫を語った。しかし田中市兵衛氏のような老巧者ではなかったので、聞き苦しいことがままあったらしく友人たちはできる限りこれを避けようとしたそうだ。しかしながら本人だけは大天狗で、「義経千本桜の熊谷を語らせたら、先代の津太夫よりも俺のほうがうまい、なぜなら、津太夫は努力して熊谷になろうとするが、俺は自分がすでに熊谷だからだ」と主張したのを摂津大掾が持ち上げて、「素人義太夫には玄人の及ばない特色があって、熊谷のようなものはまったく仰せの通りでございます」と言ったものだから、土居老人は鼻高々で、毎度のようにこれを自慢していた。
 大阪の旧大家である平瀬亀之助氏は当時五十歳あまりの旦那衆だった。この人は能楽、茶事、書画、骨董、音曲などの幅広い趣味を持ち、妙な習慣で昼間は寝通し、午後四時ごろに起き出して南地の富田屋はじめ一流のお茶屋に赴き、自分は一滴の酒も飲まず、取り巻き連中に芸尽くしをさせて長夜の宴を張るのを常とした。茶器の鑑定にかけては一見識を持ち、維新後に二束三文になっていた名器を多数買い込んでおいたために、明治三十五、六(19023)年ごろに同家の番頭の失策で家政が困難におちいったとき、所蔵の道具を売却することでみごとその欠損を埋め、ひごろは道具旦那と軽蔑していた番頭どもの失敗を、その道具旦那が尻ぬぐいすることになったというのは、まったく驚くべき話だったといえよう。
 鴻池善右衛門男爵はそのころ三十前後で、ときどき銀行業者の宴会などに出席されたが、その後はほとんど社交を絶ち、業務は番頭まかせであった。しかしきわめて器用な人で、自分で押絵を作ったり、古扇面の収集でもその数は二千本に達したという。
 私は大正十(1921)年五月に「大正名器鑑」編纂のために、同家の茶器の一覧させていただくお願いをし、鴻池新田の別荘で久しぶりに男爵と会見したが、新聞などで世間の動向をよくご存じで、道具入札の話になるとその記憶が確かなことには実に驚かされたものだった。
 以上の何人かは、明治中期における大阪大家のなかの主だった人物である。


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 六十九
明治中期の大阪(上巻233頁)

 私は三井銀行大阪支店長として、明治二十六(1893)年五月から足かけ三年間大阪にいたが、そのころの大阪の財界はいたって小さく、工業といえば大阪紡績その他二、三の紡績会社があるだけで、金融界はわずかに百万円くらいのレベルで、コール(注・金融用語)の利息が二、三厘も上下するというありさまだったし、旧家の鴻池、平瀬、加島などが経営する銀行の預金はそれぞれ数百万円に過ぎず、そうした家の資産も、これに応じて手薄なものだった。
 そ
のころ住友の広瀬宰平が牛耳っていた修齊会【しゅうせいかい】という会合があった。これは大阪の富豪のあいだの親睦を深めるための組織で、それらのひとびとで方針を決めるために話し合いの場を持っていたが、会員資格は十万円以上の資産を持つ者だけに与えられており、その会員数がわずか数十人に過ぎず、当時の十万円長者が大正中期の千万円長者の数よりもはるかに少なかったことを見ても、そのころの大阪の財界がいかに小規模であったかということがわかるだろう。

 また中上川彦次郎氏が鐘ヶ淵紡績会社を経営する上で、大阪紡績会社と方針が食い違い、松本重太郎氏らとの確執が生まれたとき、両者が面目をかけて一歩も譲らない状況になり、中上川氏は大阪勢を圧迫するために大阪、神戸の三井銀行支店からの貸出金を回収するという手段に出たので、松本氏らは慌てに慌て、東西両軍の仲裁役として藤田伝三郎氏をにわかに立て、中上川が紡績の喧嘩に銀行を引き入れたのは非常に卑劣な手段であるとほうぼうに触れ回ったが、貸金を引き上げるという戦法を前にしてはひとたまりもなく大阪方面の降伏で終わったということをもってみても、大阪の財界の資力がいかに貧弱であったかを反証することができる。
 当時の大阪一番の活動家だった松本重太郎は第百三十銀行を、田中市兵衛氏は第四十二銀行をよりどころにして、さかんに新事業を計画していたのであるが、日清戦争が迫りくる時期であり、金融上の逼迫から事業にもいろいろな障害が出てきていた。当時の日本銀行総裁の川田小一郎氏にお百度参りをして、大阪支店での貸出の手加減を緩和してもらえるように三拝九拝するありさまだったので、川田氏が大阪に来るときは連日連夜下にも置かない歓待を繰り返していたものだ。これなどは、大阪商人のはらわたがいかにも薄っぺらであるかということが見え透いて、むしろ気の毒に思われるほどだったこのよう貧弱な大阪が日清戦争を過ぎ日露戦争を経て大正時代の大発展を見ることになろうとは、だれひとり思っても見なかったのではなかろうか。


藤田伝三郎男爵(上巻235頁)

 明治中期における大阪商人の傑物といえば、藤田伝三郎男爵を第一に数えなければならない。男爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小柄ながら、体全体がエネルギーに満ち溢れているという感じだった。体にくらべて大きな顔に赤茶けた頬ひげをたくわえ、人を冷笑しているかのような涼し気な目には一種の愛嬌をたたえ、如才ない人の対応で一目で人を魅了するようなようすをしていた。
 道具数寄で、金融逼迫のときにあっても名器を見れば見逃さないのが常だった。小坂銅山の経営のために井上馨侯爵を介して毛利家の金を借り受けていたので、侯爵に対しては表面的には道具買収を遠慮していたが、井上には内緒だと言って道具道楽をやめなかったので、いろいろやっているうちに大コレクターとなっていった。
 私の大阪時代には、男爵は高麗橋の天五(注天王寺屋五兵衛)の旧宅に住んでいたが、やがては網島に本宅を構え、伊藤、山県、井上の公爵侯爵らと同県人の縁故のためか、大阪人も彼には特別の地位を与えていた。
 はやくに小坂その他の鉱山を開発し、また、備前の児島湾の開墾事業にも従事し、後年には台湾での木材伐採や樟脳の製造にも関係して、長兄の鹿太郎、次兄の久原庄三郎と三人兄弟共同で藤田組を経営していた。日露戦争後には小坂銅山の繁盛のおかげで家運も大きくふるい、三家が分立して財産を分け合うことになった。
 そのとき男爵の事業がすべて大阪以外のところにあったので、私はあるとき男爵に向かって、あなたはもう大阪に住む必要がないと思うけれども、なぜ東京に移らないのですかときくと、いやもっともなお尋ねである、自分は大阪にいる必要はない、しかし大阪というところは商工一方の土地柄で、それよりほかに気が散らないということが自分が大阪を去らない理由である、またもうひとつの理由は、自分がもし東京に住んでいたら、政府にいる友人たちからいろいろな世話事を頼まれて、それに奔走して疲れてしまいそうだからだ、と高くとまって他人を見下ろしているようなところに一種の気骨が感じられた。
 彼は晩年、網島に長男、次男、三男のための三邸宅を建て、ほとんど太閤秀吉の桃山御殿に匹敵するような勢いを示していたが、大正末年に起きた財界の変動によって、各事業にガタがきて、後継者もまた静養中だということだ。しかし、維新後の大阪に現われた財界の傑物として記憶され、また男爵の道具のコレクションに関しては、まださまざまな珍談や逸話があるので、これについては別項で記述することにしよう。(注・156「藤田男爵と大亀香合」など)

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七十 在阪知友の思い出(上巻237頁)

 私が三井銀行支店長として足かけ三年間大阪に仮寓していたとき、歳のころが三十前後で元気はつらつな知友が少なからずいた。今日から振り返ってみると、高青邱の詩に「十載悲歓故旧分、或帰黄土或青雲」とあるように、この栄枯盛衰の変転はきわまりなく実に感慨無量とならざるをえない。
 私らが発起人となって創立した大阪紳士社交団体の二水会というのが、昭和七(
1932)年に創立四十年を記念して会をやるというので私も参列するよう頼まれたが、当時の会員で東京に残っているのは私と岩原謙三君のふたりだけなので、私が東京を代表して出席したところ、同会員は四十年間に五十六人亡くなったのだそうだ。そういうなかでこの祭典が行われたことに私は驚き、霊前に腰折(注・自作の短歌を謙遜するときに使う)を一首捧げるとともに、昔の思い出のために次の七言絶句を口吟した。

なき友のみたま祭りて月花を 共にながめし春をしぞおもふ
 
  鴻爪留痕四十春 重遊今日感前塵
  鬢華怕照澱江水 曾是尋花訪柳人


 それらの知友のなかで非常に毛色が変わっていたのが、私の後任として三井銀行の大阪支店長になった岩下清周氏である。
 
 氏は信州人で、鼻っ柱が強く、とかく人を怒らせるような言動が少なくなかった。高等商業学校出身で、まず三井物産会社にはいってパリ支店に勤務、帰国後にも非常に突飛なハイカラぶりを見せて物産会社の重役が持てあましていたのを中上川彦次郎氏が引き受けて、この暴れ馬を御してみせようというつもりらしく、私の後任として三井銀行大阪支店長に採用したのである。
 氏は非常にシャープかと思うと、またオネストなところがあり、剛情かと思えば非常に親切なところがあるという矛盾した二面を持つ合金のような人柄だった。
 支店長になった披露に大阪の経営者たちを招待するときにも、それまでの慣例に従えば、堺卯楼などで饗応の宴をもつのが通例なのに、中之島ホテルに彼らを招待し、晩餐の席上で楽隊による演奏を行うなどのハイカラぶりを発揮し、最初から大阪人を驚かせた。
 暴れ馬には自分のほうから人を蹴る癖がある。ほどなくして三井銀行を飛び出し、藤田伝三郎男爵と握手して北浜銀行を設立した。そのころは一時的に大阪を制覇したように見え、また大阪、奈良間の電車鉄道敷設のような永久に残る事業も残したが、大胆で突飛な性格がとうとう失敗の原因となり最後まで事業の面倒を見られなかったのは気の毒であった。
 しかし彼はそれほど落胆するでもなく、引退後は富士の裾野で農園を経営し、死ぬまで鼻っ柱を曲げなかったというような一種の変人であった。
 武藤山治君。後年、鐘淵紡績会社社長として紡績王の栄冠を得るが、彼も当時交流のあった一人である。彼は当時、神戸の三井銀行から鐘淵紡績の神戸支配人になりたてのほやほやで、現在の令室である千勢子夫人と結婚されたのは明治二十七(1894)年ごろであったろう。夫人は、当時京都に閑居していた長州の詩人である福原周峰翁の孫娘で、私の前妻と友達だった。日清戦争のさなかに、日本軍がいまにも北京を占領しそうだという噂があったとき、千勢子令嬢はある会合の席で杉の箸をふたつに折って「これをペキン(北京)と折れば二本(日本)になりますよ」という洒落で喝采を博したことがあるという。いかにも朗らかな女性で、私たち夫婦が媒酌人になり大阪の堺卯楼で結婚披露宴を催したときには朝吹英二翁も東京から参会されたものだが、その武藤君が今日のような大物になられるまでのことを思い出すといろいろなことがあり非常に愉快でめでたいことである。

 また、当時の旧友の中でもっとも出世のめざましいのは、今の阪急社長、東電(注・のちの東京電力の前身のひとつである東京電燈)副社長として東西の実業界を股にかけるもうひとりの猛将、小林一三君である。
 彼は当時、三井銀行大阪支店に勤務していたが、明治三十一(1898)年に岩下清周君の北浜銀行に招かれ、まさに同行に移ろうとした直前にたまたま上京し私を訪ねてこられたので、私は彼に、今後もしも実業界に雄飛しようとするなら、あまり急がずに翼が十分に整うまではしばらく安全な場所にいるほうがいいのではないか、という意見を述べたのだが、そのひとことで彼は北浜銀行行きを思いとどまったということだった。 

 私はそのことを忘れていたが、古い付き合いを大切にする小林君は昭和六(1931)年の暮れに、私がそのときに彼に送った意見書の手紙を表具して麹町永田町の仮住まいの弦月庵の床の間に掛け、きわめて味わい深い記念茶会を開かれた。そのとき、拙者がもし、当時ご忠告によって三井銀行にとどまることをせずに、北浜銀行に転職していたら、岩下氏の部下と運命をともにしただろうことは当然の成り行きで、私が今日あるかどうかわからない、それを思うと、人生の岐路に立ったとき右に行くか、左に行くかの吉凶は、あとになってわかるもので、拙者などは幸いに魔の手を免れることができたような心持ちで、実に感慨無量である、と述懐された。これは、後進者にとっても非常に有益な体験談ではないかと思う。
 当時の大阪で私と親しくしていた友人のなかで、日本銀行支店長の鶴原定吉、三菱銀行支店長の荘清次郎のふたりはすでに亡くなり、三井物産支店長の岩原謙三だけが健在である。なお、今の東拓(注・東洋拓殖株式会社)総裁の高山長幸君も三井銀行支店に在勤していたと思うが、ともかくも、暁天の星のようにまばらに残っている友人たちが現在大物として存在していることはとても愉快なことである。


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