六十一
君臣共栄(上巻204頁)
私がイギリスに滞在していたときヴィクトリア女王はまだご在位中で、のちのエドワード七世陛下はプリンス・オブ・ウェールズ(注・皇太子)だった。この皇太子の人気も高かったが、その妃殿下がまた絶世の美女で、私が住んでいた下宿屋のおかみさんなどが、いつも「なんというきれいな天女でしょう」などという称賛の言葉を自分のことのように自慢する言葉をきき、イギリスの君臣がうちとけあっていることをうらやましく感じたものだった。
そのころ、皇太子と妃殿下が毎週日曜に市内のある小さな教会に行かれていると聞き、一度拝観にでかけたことがある。その日妃殿下のご礼拝はなかったが、皇太子がみえていた。皇太子はやや肥満気味で、背はそれほど高くなく、血色がよく、女王によく似たご容貌であった。教会の入り口をとり囲んで見ている群衆に軽く会釈をしながら、にこにこして教会の中に進まれた。
その人懐っこい殿下の姿を拝観し、なるほどイギリスだけでなくヨーロッパのいたるところで非常に人気があるのも、たまたまというわけではないのだと思った。
イギリスは日本のような万世一系の皇室ではないから、君主と人民の関係を同列に論じることはできないが、世界の趨勢を考えると君主と人民のあいだは、理屈を超えて感情的な親しみを持ってうちとけることが必要なのではないかと思い、帰国後には会う人ごとにこうあるべきだと話していたものだ。
そんなとき、英照皇太后陛下が前々より能楽を好まれ、明治天皇がご孝行のために造られた青山御所内の能楽堂で毎年一、二回能楽の催しを行うたびに、各流派の能楽師だけでなく身分のある素人の能楽家たちも舞台にあがらせているということを知った。
そのために、玄人はもちろん素人も大きな光栄を感じて芸道に励んでいるとのことだ。この能の催しが、君主と人民とがともに楽しむ契機になったことを知り、私は、太平の世の美談でまことにありがたいことであると心からうれしく思ったのである。
御前素人能(上巻205頁)
英照皇太后陛下は以前から能楽を好まれその道に精通されていらしたそうで、その一例としては、青山御所で催される能のおりに皇太后亮の林直庸を呼び、ご自身でその番組をご指名なさったことをあげることができる。あるとき、今度の狂言は「サクカ(原文「サククワ」)」にしようと仰せられたが、林氏はそのような狂言を前に見たことがなかったので、「サクカ」とはどのように書くのでしょうかと伺ったところ、陛下はホホとお笑いになり、サクカは「咲く花」と書くのであるとご教示してくださったので林氏はたいへん恐縮したのだということを古市公威男爵に話されたそうだ。
このように、皇太后殿下は能の鑑賞の眼識がきわめて高かった。素人能で、シテなり、ワキなりが揚幕から一歩踏み出す姿勢を見るだけで、陛下はその技量をすぐに見てとることができたそうだ。
古市男爵の懐旧談によると、男爵は青山御所の能舞台での御前能に二回参加したことがあるそうだ。最初は明治二十三(1890)年四月十二日で、望月をつとめた。二回目は同年の十一月十八日で歌占の囃子を舞った。
さらに二十六(1893)年六月六日には、芝の能楽堂で行われた御前能で、天鼓、弄鼓之楽を演奏されたそうだ。そのときの番組は次のとおりであったということだ。
この番組を拝見すると、当時の素人能の権威が誰であったこということがわかるばかりでなく、玄人能楽師や囃子連中が、いかに名人ぞろいであったかということをうかがい知ることができ、現今の能楽界と比較して、今昔の感にたえないものがある。
御能組 明治二十六年六月六日
松本忠恕
須磨源氏 福王繁十郎 津村又喜 黒田長知
大倉六蔵 平田亀次郎
間 茂山忠三郎
東北 中川久成 津村又太郎 一噌米次郎
三須錦吾
穂波経 度
満仲 春藤六右衛門 小杉本祐 森田登喜
大倉和三郎
間 野村捨五郎
松虫 津軽承昭 津村又喜 森田登喜
三須錦吾
前田利鬯
三山 竹中俊太郎 南部利剛 一噌要三郎
松平容保
間 野村捨五郎
弦上 梅若実 植田源蔵 森田登喜
三須初太郎
子方 観世織雄
林直庸
隅田川 宝生金五郎 石井一斎 一噌要三郎
三須錦吾
彩色之伝
鉦之拍子
野守 宝生九郎 小杉本祐 一噌要三郎
大倉利三郎
飯田巽
重盛 福王繁十郎 津村又喜 一噌要三郎
大倉六蔵
融 前田利聲 植田源蔵 森田登喜
三須初太郎
古市公威
天鼓 鈴木誠 津村又太郎 増見仙太郎
三須錦吾 一噌要三郎
弄鼓之楽
間 山本東次郎
付祝言
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