だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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 十一
共同の学塾(上巻33頁)

 水戸には、上市と下市のどちらにも個人で学塾を開いていた先生がいて、士族の子弟はそれぞれその塾に通っていたが、明治七年ころから上市に自強舎という共同学塾ができ高名な先生が数人みえることになった。それからというもの、上下両市の士族の子弟ほとんどが、ここに通学することになった。その当時、小原俊光、佐々木籌【ちゅう】、渡辺正順などという先生方がいらした。
 通学者は塾が所有する書物を借り出すことができるほか、時々先生の講義を聴き、また詩文の添削をお願いすることができるというような、非常に自由で不規則な教授法だった。そのうえ弘道館記にあったような文武不岐(注学問と武道は分かれずの意)の主義で剣の稽古をする塾生もいたり、ときには他藩の人が来塾するというようなこともあった。
 そのようなひとりの薩摩出身の学生がおり、彼が持っていた大西郷(注西郷隆盛)の書幅に

     吾心如秤 不為人軽重

というものがあった。並外れた傑作であったが、これが私が大西郷の筆跡を見た最初のものだった。
 そのころ西郷はいわゆる征韓論の衝突で鹿児島に引っ込み、その後板垣退助が民選議院設立の建白を出していたころで、政治的な便りが水戸にも次々に伝わってくるので、私たちはこうしたことに非常に興味を持ち他の場所から水戸にやってくる学生に中央政界の事情をきいたりすることを楽しみとしていた。水戸は維新の前、尊王攘夷論の中心になっていたころから、諸藩から志士がやってくることが多く、あの高山彦九郎が水戸に来た時、藤田東湖の父である幽谷はまだ十三歳の少年でありながら、

       聞君高節一心雄 奔走求賢西復東
       遊学元懐奇偉策 正知蹈海魯連風

という七言絶句を彼に贈ったという美談も伝わっている。こうしたことに、私もあこがれていたし、他藩の学問修行者を歓迎するということに、水戸学生伝統的興味を持っていた。


水戸の学者(上巻35頁)

 私の少年時代に水戸の学者として知られていたのは漢学では寺門【てらかど】謹(原文では「勤」になっているが間違いだろう。会沢正志斎の甥か)、小原俊光、佐々木籌などで国学では栗田寛だった。栗田は大日本史」を完成に尽力した実力ある歴史学者だったそのほか横山喜右衛門、齋藤某は漢学で、潤野某は書家として高名だった。以上の漢学者の中では寺門が一番の大家で、のちに私ときわめて親しくなる渡邊は、彼の門下生のひとりだった。

 私ははじめ横山喜右衛門の塾に出入りしていたが時々栗田寛先生を訪ねて講話を聴講したこともある。ただ私はまだ子供だったので、先生の学識を引き出すような質問をすることができなかったことが残念だ。先生は小柄であったが声は凛々として朗らかで、いかにも流暢な弁舌で歴史についての所見を手に取るように語られた。また潤野先生は私の長兄の純の師匠で、当時水戸一番の能書家でその書は欧陽詢(注唐の書家)風だった。水戸では文公(注・水戸藩6代藩主徳川治保はるもり)の時代、すなわち寛政(注・17891801年)のころ、大日本史の版下に欧陽詢の書体を採用したのでその版下づくりのために士族がわざわざ欧陽詢の書体を習ったのであろう。
 このころ私と一緒に勉強していた新家毅【にいのみき】という人がいて、非常蔵書家だったので私たちはいつも彼から漢書を借りていたが、彼は私よりひとつ年上で、当時漢学の秀才だった。また樫村という私たちより三、四歳年上の人は読書するときの声が非常に美しく、横山塾に水戸藩庁の試験官が出張してきたときに、「日本政記(注頼山陽著の史書)の中大兄皇子と藤原鎌足の遭遇の一章を読み上げたその美声には、一同感嘆したものだ。それが、われわれの憧れと目標の的になり、今でいったら謡曲の練習をするように自宅で読み方を練習したものだ。これが私の少年時代の水戸の学者と学塾の様子である。



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 十二
自強舎の学友(上巻36頁)

 水戸の共同学塾である自強舎は、上市の田見小路にあった。塾長は誰とは決まっていなかったが幹部制で、その部長だと見られていたのは
剣道の達人で士族の有力者でもあった大関俊徳だった。
 
学課は読書作文が主で名の知られた漢学の先生がえて指導にあたり、また有志者の希望に応じて剣の練習が行われる道場もあった。
 生徒はおよそ五、六十人で、水戸人として後年に名をなした人は
たいていこの自強舎の出身である。井坂直幹、石河幹明、渡邊治、村田彬、越智直、亀井善述、小池友徳、真木謙、石河幹徳、戸田忠正らは、みな当時の通学者である。

 私は自強舎に明治十年から十一年の三月まで通学したが、この間に西南戦争があった。水戸はおおむね西郷びいきであったので、なんとなく当時の政府をこころよく思わず思想は儒教にこりかたまっていた。

 こういうなかで私は井坂直幹、渡邊治というふたりの親友と相談し渋井にある井坂の家で毎月三、四回の講義会を開いたのであるが、あの浅見絅斎(注あさみけいさい。17世紀末の儒学者)の編述した「靖献遺言(注せいけんいげん。中国の儒学者八名の評伝)」を最初の読書会の指定図書に選んだことをみるだけでも当時の水戸学生の思想がどのようなものだったかがわかるというものだろう。
 前述のように自強舎の教授法は漢書の輪読(注・複数の人が順番に読む)が一番重要で、それに作詩作文が続く。ときどき先生から出る課題は、楠木正成、その息子の正儀、新田義貞を論じた南北朝関係の人物のものが多かった。また紀行文には下那珂川記、袋田観瀑記といったものが題目になり、それに次いで、「送某之於東京序などというのが一番の人気課題だった。添削は小原、佐々木の両先生が当たられ、井坂直幹氏の楠木正儀論が、小原先生にとてもほめられたことがあった。
 またそのころ水戸の梅巷ばいこうに住み、「戸田藤田」と呼ばれ、有名な水戸藩の家老戸田氏の孫であった忠正氏に、石河幹明氏は次のような七言絶句を贈った。

       東風吹雨々斜々 思到城西處士家
       梅巷梅花柳堤柳 晴餘春色定如何

これは面白いと思い、今でも記憶している。
 私は詩も好きで時々字句(原文「詩語碎金」)をひねって詩作を試みてもいたが、むしろ作文のほうが得意であるのでよく昔の人の文章を愛読していた

 そのようなものを真似することも多かったとみえ、あるとき井坂氏が、朱竹その友人に送ったという作文時の心得を書きぬいて「これをよく読んでごらんなさい」と親切にも渡してくれた。その主眼は、自分の真の気持ちから出たものでなくては真の文章ではない、ということで、ややもすると古文の真似に陥っていた私に忠告してくれたわけだ。これ私は非常に心を動かされ、その後の文章作りの痛切な教訓となった。これが、私の一年間の自強舎在学中の思い出である。

 

思想の変遷(上巻38頁)

 西南戦争の結果は日本の思想界に大きな変化を起こしたようだが、水戸は旧来の思想がもっとも濃厚な地域でもあったので、よけいにその動揺は大きかった。
 水戸は尊王攘夷論をもって明治維新を先導したわけだが、漢学が盛んで旧思想が深くしみ込んでいたのでそれを払いのけるのは簡単なことではなく、明治維新後の文明思潮にはもっとも遅れがちであった。新政府関係の打ち出すことがらにはことごとく不快感をもち、当時反政府だった西郷に対してはむやみやたらに同情心を示していた。しかし西南戦争でその大黒柱が破壊されたのであるから、あっという夢のまどろみから起こされたようなものだった。
 そのような中明治十一年五月に大久保内務卿の暗殺のニュースが自強舎に届いたとき、その辺にたむろしていた学生たちが一斉に立ち上がり激しく拍手した。そのときちょうど茨城県学務課長の志賀という人が来ており、今の拍手はなんのためだったのかと質問され、その事情を知ると、けしからん学生たちと厳しく叱責されたので、学生一同はすこしばかり時勢の移りかわりというものを理解したのである。

 一般的な風潮もだが、教育に関してはなおのこと、漢学が主流であり続けた水戸地方にも、この暗殺事件のころからようやく変化が見えてきた。翌年の明治十二年から水戸にも中学校を開設するため、師範学校の構内に、その予備校を設立することになった。私たちも今までのような不規則な漢学教授で満足していては、将来、世の中に出て成功することはできないと思いいたり、ならばこれからは学(注・西洋の学問)の勉強もし、日進月歩の学問の道を歩みだそうと決心し、渡邊治、石河幹徳、村田彬、越智直らとこの予備校に入学することにした。

  しかし、そのことが自強舎の人たちに知られてしまうと、きっとなんらかの脅しに合うだろうからというので秘密中の秘密にしてその時が来るのを待っていた。ところがその間、井坂直幹氏なども少し時勢の変わっていくのに目覚めたのだろう、自強舎に、なぜか一部だけ伝来していた福澤先生の「文明論之概略」を読み始め、これはなかなか馬鹿にできないものだから君も一度読んでみたまえと、私にこっそり言ってきたものだった。

 やがて、慶應義塾出身の松木直巳が、師範学校の校長として水戸に来て、福澤先生の文明論を大いに喧伝したため、自強舎の学生諸君もようやく師範学校や中学校の教授たちに親しみを覚える(原文「欵(かん)を通じる」)ようになった。そして、福澤先生の著作である「西洋事情」「学問のすすめ」や、小幡篤次郎訳述の「ウェーランド経済(原文「エイランド経済」)、西周訳「心理学」などという英書の訳文を読みその疑問点を質問するなど、純粋な漢学塾の学生だった者もようやく英学の先生の教えを乞うようになったのである。

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 十三 
少年の願望(上巻40ページ)

 
むかしから身分の低い者が世の中に出ようとするとき、どんな豪傑とて最初からとてつもなく大きな望みを持っているわけではないことは、豊臣秀吉が丹羽、柴田の出世をうらやみ姓を羽柴と名乗ったということからもよくわかる

 私が亡くなった安田善兵衛翁にその出世物語をうかがったところ、翁の望みは、郷里の越中富山では千両の金持ち千両分限と呼ばれて尊敬を受けていたので、自分の代で千両分限になってみたいということだったそうだ。安田翁は一代で一億円前後の大分限者になった人であるから、この点においてはわが国で随一であるのに、幼いころの望みはただの千両だったのである
 ならばわたしのよう貧乏士族に生まれて金に縁の薄い者の望みなどいたって小さくて当然だった。地道な働きぶりで丁稚奉公から引き戻してくれたその恩に報いたく、十八歳ではじめて中学校に入学したときは、この学校を卒業し少しでもはやく就職し老父母の生計上の心配をなくしてやりたいというのが精一杯の望みだった。

 私は生家の裏手に祀ってあった笠間の紋三郎稲荷の小さな祠に毎朝おまいりして、この願望成就を祈念したものだ。当時の師範学校の校長の月給は五十円ほどだったので、せめてはその半分くらいの収入のある教師にでもなりたい、というのが望みのすべてだった。
 今日振り返ってみると、その小心ぶりに驚くほどだが、少年時代にあのような苦境に立ち、勉強にも真剣さが増したことはとても貴重な経験で、ぬくぬくと育ち(原文「温飽(おんぽう)に狎(な)れて」)人生の窮苦を体験する機会がなかった人たちに比べると、いってみれば「苦は楽の種」でむしろ幸福だったのではないかと思う。


新人の感化(上巻41頁)

 明治十一年、水戸上市の師範学校構内に中学予備校が設立された。その翌年度からの中学校を開設するための準備であり、そのときの師範学校校長は慶應義塾の塾員である松木直巳で予備校の英学教授も兼任していた。松木氏は中津の出身で浜野定四郎氏に一番ちかいところにいて、慶應義塾には入学しなかったようだが、福澤、小幡の両先生とも同郷という関係があったために、東京にいるころはもちろん水戸に赴任してからもつねに音信が続いていた。浜野氏の薫陶によって英学もそうとうにできていたが、人となりも機敏で話すのがうまく、福澤先生直伝という漢学排斥論や、民権論、国権論などをさかんにふりかざして私たちを煙に巻こうとするので、私たちもいつも難問を出して議論を戦わせようとしたが、まったく子ども扱いされて切り込むすきがなかった。
 この間に、ミルの代議政体、ギゾーの文明論、アダム・スミスの経済論などというきいたこともないような新論を、私たちは断片的ながらも吹き込まれおおいに啓発された。このように、当時の水戸において、松木氏はただひとりの新知識の持ち主で、そのひとことひとことに私たちは耳をそばだてたものだった。
 こうして私たちは明治十一年から十四年までの足かけ四年のあいだ中学校に在学し、校長の町田則史、教授の大矢透そして松木氏の指導を受けたわけだが、明治十四年、あと三、四か月で中学卒業という間際の時期に、私たちは松木氏から、天使の知らせかと思われるようなことをきかされた。その朗報を耳にするや、私たちは中学の卒業証書などは無駄な反故紙以下だといってすぐに退学してしまったのであるが、それはほかでもない、次のような知らせだったからだ。松木氏からきかされたのは、私たちが、福澤先生の庇護のもとで慶應義塾に入学しないかという誘いを受けているということだったのである。
 こうして私と渡邊治は、明治十四年の六月に、そのころ水戸と東京の間を往復していたガタクリ馬車に乗り、松木氏に伴われて上京することになった。松木氏は当時水戸における新しい知識人として水戸人を啓発しただけでなく、私たちにとってはまさに上京という出世の道を開いてくれた大恩人なのである。


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十四  地方中学の三年間(上巻43頁)


  私が明治十一年から十四年まで茨城中学に在学したときの体験を話せば当時の地方の学校の一般的なようすを想像してもらえると思うので、ここにその概略を記してることにしよう。
  のときの中学校では、のちの盲唖学校長として名高い町田則文氏が校長で英学と化学を担当していた。また、かなの研究で学士院賞を受けいで文学博士となった大矢透史が図画科を受け持ち、漢学は佐々木籌氏、理科は越後出身の上遠野富之助氏が担当していた。
 学生としては私のほかに、渡邊治、石河幹徳、村田彬、越智直など、
一クラス、二十四、五人だった。私は下市三ノ町の実家から学校までの二十五、六町(注・約2.8キロ)の距離を毎日徒歩で通学した。

  渡邊治は私よりも三つ年下ながら才気あふれていつも首席を占めていたので、私もいつか一度は首席を奪ってみたいと、渡邊を競争の目標にして火の出るような猛勉強を続けた。

  あるときなど、風土病の瘧(注・ぎゃく。おこりのこと)にかかり発熱する時間になると四十度の高い熱が出るのに、試験の直前に学校を休むのがいやで高熱をおして出席したところ、悪寒がひどくついに講堂で倒れて先生をひどく驚かせたこともあった。しかし私は小さいころからいたって体が丈夫だったので、このようないいかげんな不摂生をしてもなんとかなり、渡邊との競争が勉学を進めるのに非常に大きな助けとなった。
 私と渡邊の交際についてはいろいろな思い出話がある。たとえばこんなことがあった。
 明治十三年、文部卿の河野敏鎌氏は、世間の一般感情が国会開設請願だとか藩閥政治打倒だとかとかく反政府の方向で燃え上がっているので、これを鎮めるために学校の教育内容を監督するという方針を打ち出した(注・明治十三年の教育干渉令発令)。文部省の権大書記官であった島田三郎氏を諸県に派遣しこの干渉教育についての大々的な説明をはじめた。
 さて島田氏は水戸の県会議事堂で二時間にわたって干渉教育論を論じた。そのとき私と渡邊は学校から書記役を命じられ、ここぞとばかりに必死に筆記をしたのであるが、のちに「シャベ郎」とあだ名された島田氏の弁舌であるから、筆記するのがこの上なく困難で、渡邊と私の筆記したものをあとからつきあわせて、ようやく長い演説の筆記録を作ったのだった。
 この筆記録がその後どうなったのか、そのときは全く知らなかったが、大正十四年十月十日に東京九段の偕行社で開催された町田則文氏の古稀の祝い、ならびに大矢透氏への博士号授与の祝いの席上で町田氏が話されたところによると、例の筆記録をその後島田氏に直接送ったところ島田氏自身がこれを読み、自分で書いてもこれほどうまくは書けないだろうと非常に褒められ、いろいろな県に出張して演説をしたが、このような筆記録ができたのは水戸だけだと感心されていたそうである。
 当時の私たちは若く知識欲も旺盛で、どんなことでも新しいものには耳を傾けたものだった。あるときなんの用があったのか、水戸に福地源一郎氏が来られたことがあった。最初は誰も福地氏であることを知らず、風呂敷のはしに福地源一郎という紙の札がついていたのをある人が見つけてからが大騒ぎになった。学務課長で、この人も知識人とされていた志賀などという人たちが福地氏の泊まっている宿におしかけ、そのころ藩閥政治擁護論を大いに唱えていた福地氏に議論をいどもうとしたのであるが、志賀らは福地氏から子供扱いされて相手にもされなかったということであった。東京の大家と地方の知識人のあいだには大いなる差があるものだとひそかに笑ったものである。こんなふうにして過ぎた正味三年間の中学校生活は、私たちにとり希望に満ち非常に愉快な時代であった。


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十五  未見の福澤先生(上巻45頁)


  前述したように私は、多賀郡相田村の福田屋の若主人が東京から持ち返る土産話によって初めて福澤諭吉の名前を知った。それは明治七年、私が十四歳のときのことだった。その後、明治十年、十七歳で漢学塾の自強舎に通学しているときに、塾にあった唯一の新刊出版物であった「文明論之概略」を読んだときは、好奇心と反抗心が半々で、福澤とはいったい何者だ、尻尾をつかんでやる、くらいの気持ちであったから、もちろん心服していたわけではなかった。
 だからその翌年に松木直巳氏が茨城師範学校長と中学予備校教授を兼任し私たちにさかんに福澤崇拝論を吹き込んだときにも、私たちは、ああまた例の大騒ぎが始まった、くらいに思って上の空できいていたものだが、それが度重なるに従い、ついに福澤びいきのひとりになっていったのである。
 当時の松木氏の福澤先生に関する話のなかにこんなものがあった。先生は慶應義塾の講義や演説や著書や、たえまない接客などなどで目の回りそうなくらいに忙しい方だ、たまたま先生にお目にかかることができてもゆっくり話している時間はない、だから質問することがあるときには前もって順序よく整理しておき廊下の立ち話のような機会でもすばやく話しかけて要領よく答えをききださなくてはならない。また先生は、自身でも新しい英語の本を読まれるが、英書を読むのは浜野定四郎氏が一番得意にしていることなので、まずは浜野氏に読ませてその要点をききとり、それを自身で消化して日本の国情にあてはめ、たちまち堂々たる議論に仕立てあげてしまう。また先生は、直情径行(注・感情のままに行動するタイプで、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び、怒るときには大声を上げて怒鳴るので、教師や弟子のなかにはとても怖がっている人もあるが、小幡先生は温厚な人柄で、非常に静かで親切なので、福澤先生と教授のあいだに意見の食い違いがあるときなどには小幡先生があいだに立ち双方の意見をとりもつのだそうだ。福澤先生を孔子とすれば小幡先生は顔淵にたとえることができ、福澤先生も小幡先生にはいつも遠慮し話に耳を傾けられるようだ、などと語られた。
 このように松木氏があまりにも福澤先生のことを持ち上げるので、同僚からも反感を買うようなこともあったものの、その熱心さはしまいには水戸人の心を動かして、まるで水戸に「福澤宗」の信仰グループができたかのようになった。
 このようなときに佐々木籌先生など数名の漢学者が上京のついでに福澤先生に面会したいというのでそれを松木氏が取り次ぎ、佐々木氏らは、あるとき福澤先生に会いに行くことになった。面会後、佐々木氏らは鬼の首でも取ったようにたいそう得意になっていたが、その後松木先生のところに届いた福澤先生の手紙にあった評を内々に見せてもらったところ、「釣り鐘も提灯でたたいたのでは大きな音が出るわけにはいか」というようなことが書いてあり、私はこれはいかにも名句だ、福澤先生はさすがにうまいことを言われるものだと、かえすがえすもおかしかった。このようなことが、私の上京以前に福澤先生に関して知ることのできたことの一端だ。

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  第三期 青年 明治十四年より二十年まで

 十六
上京の端緒(上巻51頁)

  明治十四(1881)年、私は数え年で二十一歳、満年齢で二十歳で成人した。加えてこの年は、実際の身の上にも大きな変化の起きた年だった。足かけ四年在学し、あと三、四か月で卒業するはずだった中学校を退学して上京し、慶應義塾に入学することになったからだ。 

 この上京のきっかけを作ってくれたのは松木直巳氏だった。当時福澤先生は、政府の大隈重信、伊藤博文、井上馨の各参議と協議し、立憲政党の樹立の前に民間における政治思想の高まりを開発するために、先生を主筆とする新聞を発行することを計画されていた。
  先生は、そのために新聞記者にふさわしい文章の書ける人材を養成する必要があると思っていたのだが、松木氏が水戸の中学に文章の書ける若者が四、五人いると申し出たのをきき、それもそうだろう、水戸は徳川光圀公の時代から大日本史の編纂のために文筆を奨励したから今でもそのなごりがあるだろう、遺伝というのはこわいもので、先祖代々伝えられた体質はその血族に伝わるもので、体の大きい両親からはおおがらな子が生まれて顔つきも似るものだし、目には見えない知能も遺伝し文学者の子孫には文学者がいるのは当然だ、もちろん例外もあろうが、だいたいにおいてそういうものだから、水戸の学生に文章がうまい者が多いのは当然だろう、と述べられたそうだ。

  そのころ先生は西洋から伝わったばかりだった英国人ガルトン(注・フランシス・ゴルトン、遺伝学者)の遺伝論を読んで大いに啓発され、執筆中の「時事小言」の中でもそのことに触れられたほどだったから、いっそうその思いを強くされたのであろう。
  先生は松木氏に対し、水戸の学生のなかにそれほどの文章家がいるなら慶應義塾に入学させ、卒業後に新聞の仕事に携わってもらうのはどうだろう、その間の学費は自分もちでもよいと言われたので、松木氏は大喜びで水戸に帰り、まず私と渡邊にこのことを伝えてくれたので、私と渡邊は二つ返事で承諾した。そのときには石川幹明、井坂直幹のふたりにも同様に話がいき、私たちからすこし遅れてこのふたりも上京し、福澤先生の庇護のもとに慶應義塾に入学することになったのである。 


初謁の福澤先生(上)(上巻52頁)

  私渡邊治は思いがけない松木氏の紹介により福澤先生の慶應義塾に入学することになったので、明治十四年の六月ごろ、東京、水戸間を運行していた乗り合い馬車で上京した。松木氏はその二、三日前に東京に出ていたので、翌日の午前十時ごろに松木氏に連れられて三田台上の福澤先生のお宅にうかがった。先生のお宅は、現在は令息である一太郎君が住まわれているが、先生のご存命中にも模様替えをしたりその後も増改築が行われているので、当時のようすからはだいぶ変わっているようであるが、玄関はやはり今と同じところで、むかって左側に洋間の応接室があり、その奥に三間つづきの大広間があった。そこで先生にはじめてお目にかかったのである。 

  先生は左手に丁字型の手のついた煙草盆を持ち、上手のほうに無造作に座られた。当時私は二十一歳、渡邊は十九歳、福澤先生は四十八歳で、はじめて私の目に映った先生の印象は次のようなものだった。まず大きな顔の輪郭がはっきりしていて顔のすべてのパーツがよく整っており、ひたいが広く、眉毛は濃く太く、目が大きかった。眼光は人を射るというほど鋭くはないが、喜怒哀楽の変化に富んでいるように感じられた。形のよい鼻は高く、口は一文字に大きく決断力が強そうだった。左の頬にやや大きなほくろがあり、髪はまんなかよりすこし左に分け目があり、ひげは濃そうだが、すべてそり落としてあり痕跡をとどめなかった。 
 居合術を好み、また運動のために米つきをされたような先生であるから筋骨たくましく、写真で見たことがある西郷隆盛と似ている点があるように思った。そして、先生がうれしくて顔を崩して笑われるときと談話中にちょっとまじめになってつんとすまされたようにされるときの違いはとても大きく、顔がこれほど変化するとはいっても、先生ほど変化の多い人もめずらしいだろう。
 のちに大熊氏廣氏が福澤先生の銅像を作られたときのことである。私はヨーロッパから帰国したときに同船した縁で大熊氏と親しく、先生の銅像製作の世話係のはしくれとして大熊氏からしじゅう苦労話をきかされたのだが、非常に喜んでいるときの先生となにか深い考えに沈んでおられるときの先生の顔つきには非常に大きな違いがあるため、先生のまじめでごく落ち着いた顔を像にすると、しょっちゅうじかに先生に会っている人から、先生とは違うという不満が出るのだそうだ。木彫りの人形のように変化の少ないお顔でないだけに像を作るのは非常に難しく、誰から見てもこれは福澤先生に似ているという顔かたちを作りあげるのはとてもたいへんだとのことであった。 

  松木氏にきいていた話からは、先生はぐずぐずしているとすぐに叱るりつけるような方のように思っていたのに、だんだん話をしているあいだに脚をくずしてあぐらになるような具合で、初めて会ったのに、長年なじんだ伯父さんに対するような親しみを感じたのには、つくづく感心してしまった。


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十七  初謁の福澤先生(下)(上巻55頁)

 
 田舎から出てきた学生である私と渡邊治は、松木直巳氏に伴われ福澤先生に初にお目にかかったが、そのとき先生はさも楽しそうな様子であぐら座りをなさり、遠くからってきた子供を歓迎する老父のようにいろいろなことを話してくれた。その態度は無邪気そのもので私たちは深く感じ入った。談話はほとんど一時間半にも及んだが、そのなかで今もなお記憶に残っていることを記しておこう。
 先生は座につかれるなり、「ああ、これはこれはよく来られた、委細は松木さんからきいています。これからは、なかなか面白い世の中になってくるから、若い者は大いに勉強するがよい。きくところによるととても文章が上手だそうだが、水戸は光圀公以来、文学を奨励して学者が多く出たところだから、藩士のなかにその遺伝があって自然に文学に優れた者が出てくることは当然だ。慶應義塾を出た者にも、なかなか文章を上手に書く者がいる。いま報知新聞にいる藤田茂吉とか箕浦勝人などはなかなかよく筆が立つ。藤田は書くのは達者だが気が短いので、これは三日分の論説にするんだよといってひとつひとつ分けて話してやっても、それを一日分に書いてしまってせっかくのネタを無駄遣いするような癖がある。箕浦は私の言ったとおりに筋を立ててよく書くので、私の代筆をさせて箕浦に勝てるものはありません。どんな文章でも、第一にわかりやすく書かなくてはなりません。議論を文章にするのはそれほどでもないが、見たところを文字になおしてわかりやすく書くことはまことに難しい。例えば今、南洋諸島かどこかの人力車というものをまだ見たことがない人に、人力車がどんなものであるかということを細かく書いたとしよう。梶棒が前に二本出て、大きな車がふたつあり、幌がうしろについていて、車夫が梶棒を握ってひきまわすものである、というその様子がはっきりわかるように書くのはなかなか難しいことなので、それをよく練習しなくてはならない。私は最近「時事小言」という著書を書き、ようやく完成したところだが、貍蕎麦の別宅(注・現在の幼稚舎がある場所にあった福澤の別宅、近くに狸蕎麦という名前の蕎麦屋があった)にひきこもり、なるべく人に会わないようにして執筆したが、書き物をするには夜が一番いい。昼でも室内を閉め切ってろうそくの灯で書き物をすれば気が散らないので一番だ。精神を集中して十分に書き物をするには、心広く体ゆたかに、ということが肝心で、着物がごそごそ体に触れるようだとそれがなんとなく気になっ静思熟考を妨げるので、私はそういうときには絹かなにかのすべすべしたものを裏につけて、からだを動かしても肌触りのよい着物をじかに着て書き物をするようにしました。」
などなどと、私たちを未来の新聞記者とみなし、その心得になるようなことを多く語られた。私たちはお会いした初日に先生の作文指導を受け、非常にありがたい教訓を得た思いがしたものである。
 先生は、新著「時事小言」の一節で国権論の見地からの仏教擁護を説を唱えておられた。仏教は外国の宗教であるが、はるか昔に日本に伝わりそれが日本化し、仏教の言葉が民間の俗語にも多く使われるようになっている。いわば日本の宗教のようになっているのだから、キリスト教とはずいぶん違っていて、対外関係の事柄について人心を導くためにはおおいに仏教に力を発揮してもらわなければならないという説を滔々と述べられた。
 その後
私の見たところによると、先生は何かの新を考えついたときは、自分を訪問してきた人にその説をよどみなく述べたあと、反対意見を述べてもらうようにしむけるのが常で、反対意見があればできるかぎりは反論するものの、もしその反対意見に採用すべきよいところがある場合にはおおいにそれを参考にされるのだ。つまり、自分の説を世間に発表したときに各方面から起きる攻撃に備えて、自説を公表するときは事前に十分に反対意見をきき集めておき、このように攻撃されたらこのように応じるというふうに
十分研究をされていたのである。
 「時事小言」もこのときまだ刊行される前だったから、先生はいつものように
私たちに対して、さかんにその論説を述べられたに違いない。まだそのときは明治十四年の政変前だったから、先生はまるで政治家をあやつる傀儡師のように立ち回り、大隈、伊藤、井上らと相談して明治十六年に立憲政治を実現しようという勢いの時期だったのだ。松木氏に対しては特に当時の政治状況について話されたが、私たち田舎の学生は急に天下の大先生の前に出てきたので、ただ胸が躍るだけで思うように返事もできず、ひたすらに先生の話を傾聴するにとどまった。そして、とにかく、明日から慶應義塾の塾舎にはいって修学しなさい、ということになり、首尾よく先生との初めての会見を終えたのである。


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十八   福澤先生の演説(上巻58頁)

  福澤先生は日本で初めて西洋流のスピーチ、つまり演説というものを始めた開祖にあたる。明治六年ごろ、当時西洋の学問の大家だった西周、中村敬宇、箕作秋坪、神田孝平などの面々により明六社という学会が組織されたとき、日本語で西洋流の演説ができるのかどうか、という問題が起こった。そのとき福澤先生は、日本語で演説できないわけがないという理由をよどみなく述べまくったあと、一同を見まわして、これが演説のできるなによりの証拠ではないか、と言われたそうだ。
 その後明治八年に、三田台上に今も残るあの演説館が完成し、当時の慶應義塾の先輩たちが、先生を本命の演者として毎週一回、傍聴無料で演説会を開催した。これが三田の名物になり、東京中の学生はもちろん各地から聴きに来る人でいつも大入り満員の盛況となった。
 明治十四年、私たちも上京するやいなや、これを聴きに行くのがなによりもの関心事で、毎回ほとんど聴き逃さなかった。
   福澤先生の演説ぶりは、壇上のテーブルの前に立ち、顔見知りの仲間に話しかけるような親しげな態度で、言葉使いもふだんの会話とかわらなかった。談話中に
聴衆にも考えてもらうように、自分もまた考えているというふうにまずうつむいて腕組みをし、ワンポーズおいてからまたよどみなくその問題の説明を続ける。その間のとり方のうまさに聴衆はいやおうなく魅了され、親しみを感じたものだった。

  しかし先生が一番強調したい主張の部分にくると、表情も険しく真剣みを帯び、それがまた聴衆を感激させるのである。
  明治十五年の秋だったと思うが、ある日先生が演説館で宗教論を演説した。その当時の仏教の僧侶の堕落ぶりを激しく批判し、「僧は俗より出でて俗よりも俗なり(注・俗界をはなれて模範的であるべき僧の行いが、一般大衆よりも卑俗だ)」という警句を吐いておおいに熱弁された。そのとき聴衆のひとりに僧侶がおり、怒りが高ぶり卒倒してしまうというハプニングもあった。
   その後
この議論は「時事新報」にも掲載され、その文章や論旨がしびれるようにうまく、私たちに影響を与えた。先生の演説は、時々ウイットとユーモアで聴衆を笑わせ、きいていて飽きるということがなかった。

 三田演説館はもともと学校付属の施設なので、演説では政治論議は避け、社会問題や学説についての内容を取り上げた。福澤先生が登壇する前の前座として義塾出身の先輩が四、五人演説を行うことになっていたので、私などもたびたび壇に上がった。のちに山下亀三郎氏が語るところによると、氏は明治十七年に上京したその当日に三田演説館に駆けつけたが、そのときの福澤先生の演説は養子論というもので、学生が都会にあこがれて中央に集まることばかりを考えるのはよくない、故郷に戻り適当な養子先でも見つかれば、さっさと応じて養家の資力をもとにして養家を盛り立てるのが出世の早道であると論じられ、また私の演題「ハンス先生伝」というものだったが、その論旨がなんだったかは覚えていないとのことだった。
 そのころの学生は演説というものを重視し、学校でもこれが奨励された。それは今日でいうところの野球、ラグビーなどのスポーツと同じである。ともかくも、明治の初めから中期にかけて慶應義塾の演説館が社会教育においてしるした大きな功績は、いまさら力説するまでもないことであろう。


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 十九
演説の稽古(上巻60頁)

  私が明治十四年に初めて上京したのは、あの西南戦争のあとに興ってきた国会開設請願という政治的な運動が頂点に達していたころで、福澤先生は、大隈、伊藤、井上らの政権中枢の指導者と協議して立憲政体の樹立のための準備にとりかかっているときだった。京橋区木挽町に明治会堂という政治演説場を作り、矢野文雄(注・矢野龍渓)、犬養毅、尾崎行雄、波多野承五郎、藤田茂吉、箕浦勝人、須田辰次郎、渡邊修、高島小金治などの弁士に政府攻撃の演説をさせた。
 彼らの言い分はだいたい福澤先生の受け売りで、当時世間で問題となっていて藩閥政府の違法行為とされた、北海道の官有施設を薩摩の息のかかった商人に払い下げるという事件を扱うことが多かった。
 このころの演説会は、三田の一派のほかでは、沼間守一、島田三郎らが率いていた嚶鳴社の一派があった。彼らが浅草の井生村楼や江東中華楼などで十銭くらいの入場料を取って演説会や討論会を開催していたので、私なども休日を利用して聴いてまわっては、その人のうまい、へたを評価したり、特徴のものまねをしては、一日もはやく演説がうまくなりたいと念願していた。
 そこで私は慶應義塾に在学中、さかんに演説の練習をして、まずは水戸訛りを矯正することに励み、演説の草稿を作って机を前にして低い声で演説してみることもあった。
 そのころの慶應義塾には
正科のほかに、最初から順を踏まずに講義に飛び入りして聴講することができる予科というものがあった。

 この予科の学生に黒岩周六(注・のちの黒岩涙香)という人がいて、この人はのちに万朝報を主宰して名声をあげたが、西洋小説の翻訳者としてもきわめて有名になった人である。この黒岩も、やはり演説の練習をしたいと思っていたひとりだったので、仲間同士、夜中にこっそり宿舎の台所の横から廊下伝いに演説館の中にはいりこみ、ろうそく一本をテーブルの上に立て、ひとりが弁士となって滔々と演説するあいだはもうひとりが聴き手となり、交代で演説をやっては互いの演説を批評し合うというようなことまでして、熱心に練習をしたのだった。
  今ふりかえると、かなり子供じみておかしい話である。でもあのころは世の中の人がみな政治論議に夢中になり、そのためには演説が貴重な武器だったのだから私たちはまじめに練習をしたのであって、黒岩氏がのちに雄弁家のひとりになったのも、この練習がおおいに役に立ったにちがいないと思う。
 今日の学校ではスポーツばかりに熱中し、演説の練習を奨励するという話をきかないが、私は、学生はどのような方面に進むにしても学生時代に演説の練習をしておくことはとても大切なことだと思っていて、そのような風習がなくなってしまったことを非常に残念に思っている。

  

先師の体訓(上巻62頁)

 福澤先生が学生にたいし、率先実行(原文「躬行実践」)の教訓を与えてくださったおかげで、それが生涯身についたことは貴重だった。このような実践で示す教育は、昨今ではあまり見られないことだ。
 明治十七年ごろのことだと思う。世の中は、非常にはげしい不景気に見舞われていた。これは、西南戦争のために増発された不換紙幣を整理する政策の影響のためだった。松方大蔵卿が明治天皇の御前会議で、どんな困難があっても最初の目的を達成するまでは方針を変えないように、という勅命を受けて断行したものだったから、銀座通りには軒並み貸家の札が下がるという状況で、これは昭和五、六年の不景気よりももっと深刻だったと思う。

  そのころ埼玉の熊谷に竹井澹如という福澤先生を崇拝する有志家がおり、ある時先生を熊谷に招き演説会を開催したことがあった。これに時事新報社から私と津田興二氏が随行することになり、その他誰だかは忘れたが二、三人の前座演説者とともにおもむいた。なんとかいう名前の寺を演説会場として、仏壇の前に演台を設け、津田氏がまず前座をつとめた。当時世間の関心事だった政府の言論弾圧について、これを攻撃し、社会の安全弁を閉じてしまうと、いつか必ず大きな破裂がやってくることは間違いないと、語気も荒く次第に熱気を帯びてきたので、先生は控室ではらはらしながら聴いていたが、とうとう制止してみずからが演台にあがり、そのころ唱え始めたばかりの実業論について演説された。その論旨は、地方の産業開発についてであった。
  そのようなことをへて全員の演説も終わり上野に戻ってきたときには午後七時ごろになっていた。空腹でもあったし、これから三田までどうやって帰るのだろうと、一同は先生のようすをうかがいながら黙ってあとからついていった。先生はそのころ着流しの和服に羽織を着ておられたが、尻はしょりをされたので、絹のパッチ(注・ステテコのこと)をはいておられるのが見えた。そして、ここから人力車に乗るのは金の無駄になるので、自分の脚で歩こうではないかと一同を見まわして言われるや、先頭に立ってさっさと歩きだされた。
 新橋あたりにさしかかったころ手招きしてすし屋ののれんをくぐり、「さあ、空腹しのぎにひとつお上がりなされ」と、率先して海苔巻やまぐろ寿司をぱくつかれたので、私たちは初めての経験だったのではじめは手を出せずにいたが、あまりにおなかがすいていたものだから、しばし立ち食いの宴となった。そして先生は懐から財布を取り出し勘定を払うと、また先頭に立って三田台まで帰られ、私たちも当時宿泊していた慶應義塾の塾舎に帰りついた。
 先生が人力車にも乗らずに塾生を引率し、時節をわきまえて倹約の模範を示されたその教訓に、われわれは感服するよりなかった。このとき先生は五十一歳だった。

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 二十
弁士の概評(上巻64頁)

  私が初めて上京した明治十四(1881)年の東京では、慶應義塾演説館、明治会堂、両国中村楼、井生村楼などで盛んに政談演説が行われていた。私塾に通っていた学生たちは、それらを聴きにいくことが日曜日の学課のようになっていた。
 さて明治十四年からの数年間に演説壇上に立った弁士たちの顔ぶれをざっと見てみよう。 
 三田演説館では
、福澤先生が大本尊で、その演説ぶりは前述したように座談風で演説調ではなかったが、これはまったくの例外といってもよかった。

  明治会堂の一群のなかでは矢野文雄(注・矢野龍渓)氏が代表者の立場にあった。色黒でやせていて、口ひげが立派で上品な風采であったが、弁舌もなかなかのもので、あるときなどは奉書の紙をくるくる巻いて、講釈師が荒木又右衛門の御前試合を語るときのようにそれを振り回して演説されたこともあった。
 犬養毅氏は周知のように精悍であり、ときにからかいぎみな口調でシンプルさの裏側に力強い威圧を感じさせていた。
 藤田茂吉氏は小柄で色白で、鼻の下に黒々としたひげをはやしていた。いかにもきびきびしたようすだったが、この人の弁舌もなかなかのものだった。
 波多野承五郎氏はわずかにかすれ声で、弁舌というほどではなかったが、ときおり警句を吐いて聴衆を喜ばせた。
 三田以外の弁士では、福地源一郎氏が群を抜いていた。氏は東京日々新聞の主筆で、当時政府に買収されたという噂があり、御用記者として新聞の記事を書き政府擁護の独演会を催していたので、あるときには会場でやじが飛ぶこともあったものの、ふだんは少しどもるくせがあるのに演説はすらすらと力強く、大物の貫録を示していたものだった。
 嚶鳴社の一群においては、沼間守一氏が旧幕府出身でてきぱきした江戸弁でもって聴衆を魅了していた。上背はあまりなく色白で目がぎょろりとしていた。嚶鳴社の演説聴講料は十銭だったが、あるとき沼間氏が入場料を徴収する受付に座っていたことがあり、なんとなく寄席の番人のように見えたこともあった。
 島田三郎氏は、よく知られているように達弁で、討論会などでは一番目立っていた。
 草間時復、波多野伝三郎などという人たちもいた。

 田口卯吉という博士で、自由貿易論を唱えた経済学者いたが、この人は色白でおおがらで、演説はうちとけた態度で聴衆に親しみやすいものだった。
 そして、末広重恭、大石正巳、馬場辰猪、小野梓といった一騎当千の弁士もいた。なかでも馬場辰猪氏は土佐弁で非常に歯切れがよく、聴衆の人気が非常に高かった。


金玉均庇護(上巻66頁)

  明治十八(1885)年ごろと記憶しているが、日本政府は朝鮮問題について、当時李鴻章が全盛だった中国と衝突することを恐れていた。中国が、金玉均(注・朝鮮独立をめざし、前年閔妃暗殺クーデタに失敗)が日本に亡命し、閔妃政府打倒を画策していることに不快感を持っているので、日本政府としては、これなんら日本政府の意図とは関係ないことを中国に示すため、金を小笠原の島に配流する決定をした。
 このとき福澤先生は、朝鮮問題についての政府の弱腰に激怒したばかりでなく、それまで何年も先生に信頼を寄せていた金玉均が島流しになることをあわれんだ。熟慮熟考の末、この配流をのがれることのできる唯一の手段は、フランス公使館に金みずからが保護を訴え出ることだという結論にいたったようで、金の真意を訴えるフランス公使宛ての長い英文の書簡をしたためた。そしてある晩ひそかに私を自宅に呼びよせ、この英文を鉛筆でなるべくきれいに写してほしい、秘密の書類なのでなるべく人目につかないほうがいいので、うちの玄関先の座敷がいいだろうといって、丸いテーブルと椅子を貸してくださったので、私はその英文をまずていねいに西洋紙に写しとった。
 つまり、この英文は先生が書かれたものではないにしても、万が一筆者の取り調べがあったときには面倒になるということで私に複写させたのだろう。しかも鉛筆書きだったことも、よくよく考えてのことだったに違いない。
 そこで私は夜おそくまでかかってこれを写したが、それが終わるとすぐに先生はこれを白い紙袋にしまい、宛名も書かずに、ご苦労だが明日横浜に行きグランドホテルに滞在中の金玉均に目立たないように渡してもらいたい、ということだったので、翌日私は先生に命じられた通り正午前にグランドホテルに赴き、金に面会した。
 金は喜んで私を迎え、その書簡を受け取って二度ばかりありがたそうに読んだあと、私と昼食をともにするために食堂に案内してくれた。
 さらに玉突場にも誘ってくれて、私と一ゲームをしたが、彼は器用な男で、碁もうまければ日本の花がるた(注・花札のこと)もとても強かったそうで、ビリヤードの腕も150くらいだったとみえ、当時の私ははじめから敵ではなかった。
 彼は中肉中背、朝鮮風のすこし平べったい青白い顔で、朴永孝ほど家柄がよくないから品格にはとぼしいけれど、小さな目と薄い唇から機敏な性格が読み取れ、いかにも頭の回転がよさそうな才子肌だった。
 福澤先生は、金玉均らが朝鮮問題で見せる画策はいつも過激で非常識のように思えるけれど、彼らははじめから命を投げ出しているので自然に極端に走るのだろう、と言われたことがあったが、彼らの、国のために死生を顧みないその勇気は、同情と同時に畏敬にあたいする。金玉均の死が日清戦争の一端となったことも偶然ではあるまい。


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