十一
共同の学塾(上巻33頁)
水戸には、上市と下市のどちらにも個人で学塾を開いていた先生がいて、士族の子弟はそれぞれその塾に通っていたが、明治七年ころから上市に自強舎という共同学塾ができ、高名な先生が数人みえることになった。それからというもの、上下両市の士族の子弟のほとんどが、ここに通学することになった。その当時、小原俊光、佐々木籌【ちゅう】、渡辺正順などという先生方がいらした。
通学者は、塾が所有する書物を借り出すことができるほか、時々先生の講義を聴き、また詩文の添削をお願いすることができるというような、非常に自由で不規則な教授法だった。そのうえ弘道館記にあったような文武不岐(注・学問と武道は分かれずの意)の主義で、剣の稽古をする塾生もいたり、ときには他藩の人が来塾するというようなこともあった。
そのようなひとりの薩摩出身の学生がおり、彼が持っていた大西郷(注・西郷隆盛)の書幅に
吾心如秤 不為人軽重
というものがあった。並外れた傑作であったが、これが私が大西郷の筆跡を見た最初のものだった。
そのころ西郷は、いわゆる征韓論の衝突で鹿児島に引っ込み、その後、板垣退助が民選議院設立の建白を出していたころで、政治的な便りが水戸にも次々に伝わってくるので、私たちはこうしたことに非常に興味を持ち、他の場所から水戸にやってくる学生に、中央政界の事情をきいたりすることを楽しみとしていた。水戸は維新の前、尊王攘夷論の中心になっていたころから、諸藩から志士がやってくることが多く、あの高山彦九郎が水戸に来た時、藤田東湖の父である幽谷は、まだ十三歳の少年でありながら、
聞君高節一心雄 奔走求賢西復東
遊学元懐奇偉策 正知蹈海魯連風
という七言絶句を彼に贈ったという美談も伝わっている。こうしたことに、私もあこがれていたし、他藩の学問修行者を歓迎するということに、水戸の学生は伝統的に興味を持っていた。
水戸の学者(上巻35頁)
私の少年時代に、水戸の学者として知られていたのは、漢学では寺門【てらかど】謹(原文では「勤」になっているが間違いだろう。会沢正志斎の甥か)、小原俊光、佐々木籌などで、国学では栗田寛だった。栗田は「大日本史」のを完成に尽力した実力ある歴史学者だった。そのほか、横山喜右衛門、齋藤某は漢学で、潤野某は書家として高名だった。以上の漢学者の中では、寺門謹が一番の大家で、のちに私ときわめて親しくなる渡邊治は、彼の門下生のひとりだった。
私ははじめ、横山喜右衛門の塾に出入りしていたが、時々栗田寛先生を訪ねて講話を聴講したこともある。ただ、私はまだ子供だったので、先生の学識を引き出すような質問をすることができなかったことが残念だ。先生は小柄であったが声は凛々として朗らかで、いかにも流暢な弁舌で歴史についての所見を手に取るように語られた。また潤野先生は私の長兄の純の師匠で、当時水戸一番の能書家で、その書は欧陽詢(注・唐の書家)風だった。水戸では文公(注・水戸藩6代藩主徳川治保はるもり)の時代、すなわち寛政(注・1789~1801年)のころ、「大日本史」の版下に、欧陽詢の書体を採用したので、その版下づくりのために、士族がわざわざ欧陽詢の書体を習ったのであろう。
このころ私と一緒に勉強していた新家毅【にいのみき】という人がいて、非常な蔵書家だったので、私たちはいつも彼から漢書を借りていたが、彼は私よりひとつ年上で、当時、漢学の秀才だった。また樫村という私たちより三、四歳年上の人は、読書するときの声が非常に美しく、横山塾に水戸藩庁の試験官が出張してきたときに、「日本政記」(注・頼山陽著の史書)の、中大兄皇子と藤原鎌足の遭遇の一章を読み上げたその美声には、一同感嘆したものだ。それが、われわれの憧れと目標の的になり、今でいったら謡曲の練習をするように、自宅で読み方を練習したものだ。これが私の少年時代の水戸の学者と学塾の様子である。
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