だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 1‐10

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 一、
幼時の記憶(上巻3頁)

 幼いころの最初の記憶は、人により、また経験したことにより早かったり遅かったりするだろうが、だいたい数え年で四歳ころのもののようだ。私はあるとき山県有朋公とそんな話をしたことがあったが、公爵は四歳のとき、母に抱っこされて水車小屋のあるところに行き、水車の輪がくるくる回るのを見て、なんとおもしろいのだろうと思ったことを覚えていると話しておられた。私も公爵と同じく、四歳のときに水戸で起こった戦争のことを記憶している。

 この戦争は、元治元(1864)年に、水戸藩主の中納言慶篤【よしあつ】の目付であった松平大炊頭頼徳【おおいのかみよりのり】が、当時水戸の政権を実質握っていた朝比奈彌太郎、市川三左衛門など、いわゆる諸生党【佐幕派】を、水戸城から追い出そうとしたところ、朝比奈たちは、たとえ藩主の命令であっても、その背後に武田耕雲斎、田丸稲之衛門、藤田小四郎など天狗党【尊王攘夷派】が控えている以上は、ぜったいに応じるわけにはいかないとして両軍が軍事対決するにいたり、頼徳軍は八月下旬に那珂湊方面から城下にせまり、水戸下市のいくつかの地点で諸生党の城兵と交戦することになってしまった。

 その戦場が、私の生家のあった下市三ノ町のそばだったので、銃の弾が、うちの屋敷内の竹やぶに飛んできて、かちりかちりと音を立て、居ても立ってもいられない。そのとき父は水戸城にでも出かけていたか、とにかく留守だったので、私は母に背負われ、ほかの兄弟と一緒に上市の親戚の家に避難した。
 その途中、昔の軍記物の絵巻から抜け出したような甲冑を着た武士が、槍をたずさえ走っていくのを見かけたが、これが日本で実戦において甲冑を着た最後ではなかろうか。そのとき、そのうちの一人が、右手に持った槍を杖のようについて、大息をはきながら道端で仁王立ちしていた姿が、いまでもありありと目の中に残っている。


腕白小僧(上巻4頁)

 元治元年に水戸城下で起こった戦争中に私が母に連れられて避難したのは、上市の長尾家だった。本来なら母の実家である野々山家に行くところであろうが、野々山家主人である母の兄と、私の父の党派が違ったのだ。
 事件が決着を見るまでの二か月ほどを、縁故の薄い長尾家に頼らなければならなかった母の心労は、どんなに大きかったことだろう。夫妻や家族の機嫌をそこなわないように小さくなっているときに、こんなことがあった。
 長尾家の主人は背中におできが出来ていて戦争にも行けず、秘蔵の盆栽の、きんかんの実が色づくのを眺めていた。まだ四歳の腕白ざかりだった私は、おじさんを驚かそうとしたのか、背後からおできの上をぴしゃりとたたいたので、そうでなくても痛いのをこらえていたご主人は、アッと飛び上がって悲鳴を上げた。その声をききつけて母は平謝りしなければならず、どんなに肩身の狭かったことだろう。そのうえ私が、ご主人秘蔵のきんかんの実を、いつのまにか取って逃げてしまったものだから、母の忍耐もこれまでで、私は罰のためにお灸をすえられてようやくお詫びがすんだことを、子どもごころにもありありと記憶している。
 このときの戦争のことを水戸では「子年のお騒ぎ」と称し、多くのおそろしいエピソードが残っている。

                   
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  二
戊辰の戦争(上巻5頁)

 明治元(1868)年、明治維新で江戸城が官軍の手にわたってから、それまで水戸城にこもっていた諸生党、つまり佐幕派の朝比奈彌太郎、市川三左衛門らは、もはや幕府からの支持がなくなったので水戸城から脱出し会津軍に身を投じた。しかしその会津もまもなく落城したので、窮鼠の一軍となって再び水戸城を奪還しようとして突然水戸に押し寄せてきた。
 まず大手門の弘道館を乗っ取ったものだから城兵はたいそう驚き、藩士を集めて応戦することになったが、清水六一というつわものが夜陰に乗じて城に攻め入って暴れまわり一時はほとんど落城しそうになった。そのときには私の父なども召集を受け、同じく登城しようとしていた私の姉婿の中西重蔵が中西の父とともに父を迎えにきたが、そのとき身につけていたものはといえば、たっつけ脚絆に草履履き、腰には大小二本の刀を差していた。重蔵の父が腕試しだと言って、さっと太刀を抜いて庭のしだれ梅の枝を五、六本切り払ったその勇ましさは、今なお私の幼時の記憶として鮮明に残っている。


さいみの羽織(上巻6頁)

 水戸は藩始まって以来、党派騒ぎで有名な土地柄であるが、明治維新の直前の、いわゆる天狗党と諸生党の摩擦はひどかった。諸生党が藩政を握れば天狗党を追いやり、天狗党が勢力を占めれば諸生党を虐待するという復讐的な行動が続き、いわば恐怖時代がやってきていた。
 
 であるから、明治元年に天狗党が諸生党の朝比奈、市川らを追い払ってからの、諸生党に対する残虐行為には目も当てられないものがあった。虐殺隊は、さいみの羽織というキツネ色の麻布で作ったユニホームを着て連れだって城下を歩き回り、今日はこの家を襲っただの、あいつに天誅を加えただのという話が伝わってくる。それは、諸生党の全権時代から城下に住んでいた藩士を戦慄におとしいれる悪魔の声であった。
 私も八歳から九歳にかけてこの恐怖時代を経験し、子供ごごろにも大きな恐怖を感じたものだ。私が住んでいた水戸下市三の町は、お城から見て一の町、二の町、三の町と士族屋敷が並ぶ地域であったので、天誅執行官のやり玉に挙げられる家が多かった。昨日は何々家の門前に生首がひとつ落ちていただの、今、何々家にさいみの羽織が踏み込んで家族を惨殺中であるだのという、まがまがしいニュースが次々に飛び込んでくるものだから、士族の家庭では生きた心地もしなかった。
 このころ、うちの筋向かいに、佐野甚次郎という五十歳くらいの藩士が住んでいた。この人物は、有名な「桜田義士」のひとり佐野竹之助の一族の者で、本人も自分を曲げない硬骨なところがあったものだから、きっと天狗党ににらまれたのだろう、ある朝病気で寝ていたところに天誅組数人に押し入られてしまった。彼らは甚次郎をふとんにくるんだまま、二、三町(注・一町は約109メートル)はなれた石垣というところに連れ去り、橋の上から吊るし斬りにしたという噂が伝わってきた。
 そんなことがあるので、私の家にも、あのさいみの羽織が舞い込んで来やしまいかとびくびくして大声で話すこともできず、泣く子も黙るとはこのことかと思われた。今思い返してみても、このようなことが日本で起きたとは信じられないという隔世の感がある。


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 三
閉門の家庭(上巻8頁)

 明治二年から三年にかけての水戸は恐怖の時代だった。藩政に秩序はなく、壮年の血気あふれる天狗党は、諸生党に対しすさまじい復讐行為におよんだ。

 私の父はもともとが竹を割ったような正直でさっぱりした性格だったので党派色はすくなかったが、諸生党の全盛期に矢倉奉行という水戸藩武器倉庫の主任を勤めたことがあるので、このころにはすでに閉門を申し渡された身の上で、いつ天狗党の襲撃を受けてもおかしくない状況に置かれていた。

 同僚の中には復讐を恐れて脱藩する者も次々にあらわれた。だが、脱藩すればその日から家名断絶となり家族は路頭に迷うほかはないよほど危険でない限りは運を天に任せて踏みとどまり家名を存続させようとしたのはもっともなことだった。

 とくにうちには六人の子供があったので、脱藩は死活問題だった。

 私の長兄はすでに十七歳になっていたから、さいみの羽織(注・2を参照のこと)の襲撃を受けたら父ともども惨殺されることは確実だったので、なにもせずにやりすごすよりはやはり脱藩して危険を避けるほうがよいのではないかと一時は途方に暮れた。母が柴山の不動尊と笠間の紋三郎稲荷に寒中水垢離の祈願をして一家の無難を祈るなか、父と兄は脱藩の準備を整え何晩かは草履をはいたまま寝たこともあった。


斬首の実見 (上巻9頁)

 しかしそうするうちに天誅事件も下火になり、おそろしい襲撃もなくなってきたので、ようやく我が家でも悪夢から目覚めることができた。でもあのころの針のむしろのような不安な日々のことは今でもはっきりと記憶している。

 明治二年、私が九歳のときのことだ。このころの藩政はまだ藩主が行っていたので、刑罰の執行は旧幕時代と同様で、泥棒の場合、盗んだ金が高額であれば斬首の刑となり、殺人の場合は当然のごとく死刑となっていた。

 当時の水戸藩の牢獄は下市赤沼というところにありときどき斬首刑が行われていた刑場になっている場所は空堀の上に板塀がめぐらされているだけの非常に無造作なものだったので、空堀をわたって板塀の節穴から覗けば中の様子を見ることができた。

 塀から刑場まではわずかに二、三間(注:いっけんは約180センチ)で、こわいもの見たさのためにこっそりやってきて、すぐ眼前で刑を執行を見たものだ。

 ある日、私の漢学の師で藩の裁判官を勤めていた横山高堅先生が門人に、明日は秦彌一という者の斬首があると告げた。この人物は友人と言い争いをしてその友人を殺してしまったもので、先生が死刑を宣告したのだという。そこで私はその当日に例により刑場に出かけて見物をした。

 地面の平らなところに深さ二尺(注:一尺は約30センチ)、直径三尺ほどの穴を掘り、そのへりに敷かれた荒菰の上に白布で目隠しをされて牢屋から連れてこられた囚人たちを座らせる。番太郎と呼ばれるひとりの××(注・原文伏字)が、囚人の首を穴のほうに突き出すと、執刀者が狙いをさだめて掛け声もろとも首を斬り落とす。首を斬ってわずかに喉の皮だけを残すのが熟練の技なのだそうだ。 
  ところでその秦彌一は、その日三番目に引き出されたが、落ち着いて名を名乗り声高らかに、

   啼かざれば とらはれまじを鶯の なく音あだなる春の初聲

と、辞世の詩を二度までくりかえし、すこしも悪びれた様子を見せなかったのはなかなか度胸のすわった男であったのだろう。

 それから次の囚人も、名前は知らないが荒菰に座るなり、

   春風に 高くあがりしあの鳶凧 どこの加減で切れたやら

と声高に都都逸を唄ったそのほかの者たちはただ黙々として斬られてしまった。

 このように私は何回も斬首刑を見たことがあるその様子はというと、首は斬られると前の穴に落ち、血が徳利を横にしたようにしばらく勢いよくこんこんと流れる。やがて出血が止まると首の切り口がむくむくと動いて、ものを包むかのように内側に収れんする。このとき番太郎が首と胴を運び去り、以後同様に次の人へと刑が執行されるのである。

 さてこの死者たちの衣服はもちろん番太郎が役の報酬として処分するので、やがて古着屋の店頭に売り出されることになる。だから当時古着を買っていた人々は、よくよくその出どころには注意をはらっていたらしい。

 以上が私が幼いころに実際に見たできごとである。今日の人には想像さえできないことだと思うので、猟奇的な一資料としてここに書き残しておくことにする。
     
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 四
水戸の士族(上巻11頁)

 
明治維新直後の水戸の士族はどのような状況に置かれていたのであろうか。

 幕府の壊滅とともに水戸では天狗党が全権をにぎったので、その前に逃げ出していた佐幕派の諸生党の士族は家名断絶の処分を受けたが、党に属しているかどうか曖昧なままに藩の領地に残った者たちも、閉門を命じられたリ禄高を減らされたりしてまったくみじめなありさまだった。

 私の家は四代前から水戸徳川家に仕え、祖父の彦左衛門は拙翁という号を持った、なかなかの人物だったらしい。父は常彦と言い正直な武士気質な人間だったために、とくべつ出世もしない代わりに党派対立の影響もさほど受けずに、維新の前に水戸藩主が京都守護を命じられた時には随行して京都にしばらく滞在したことがあり、その時の話は私もよくきかされたものだった

 父はさっぱりした性格で、背が高く見た目も悪くなかった。刀剣好きで、矢倉奉行という水戸藩の武器倉庫係を勤めたこもあったので、維新後に家計が窮乏したときには刀研ぎをしていたこともある。子供が六人で長女と末娘のあいだに男の子が四人おり、私はその四男である。

 母は水戸藩士、野々山正健の妹で、がっしりとした体格の持ち主だった。骨身を惜しまず貧乏家計をきりもりし、家事を気にかけない父への内助の功も大きかった。子供の教育などは母が一手にひきうけていたようなものだ。もっとも父も、私たち子供を刀磨場に呼んで、刀を研ぎながら「大学」「三字教」などを教えてくれたこともある。

 とにかく家族の人数が多かったので非常に倹約をしなければたちまち食べるにも困ることになる。三度の食事もたいていは味噌汁と漬物で、一番安いいわしの魚にありつけるのも月に二、三度くらいであったから、私はそういう意味で貧乏体験を百パーセントして卒業した者であるといえよう。


儒教の余弊(上巻12頁)

 水戸では昔から儒教を重んじ、仏教を脇に追いやる傾向があった。とはいえ義公(注:水戸藩二代藩主徳川光圀。16281701))は度量が大きく、「佛老を排して佛老を崇ぶ(注:仏教の僧侶を排除しながらも重んじる)」と言われたほどで、当時、戒めを破ったかどで大勢の僧侶を懲罰した一方、生母の谷夫人のために久昌寺を建てたり、明から禅僧の心越禅師を招いて祇園寺を開設されたりしたこともあったにはあった。

 けれども天保時代(注:183145)の烈公(注:九代藩主斉昭。18001860)の廃仏の勢いは非常に強かった。烈公は藩内にある寺院の釣り鐘を鋳つぶして大砲を作り、
   今よりは心のどかに花を見む夕暮つぐる鐘のなければ
と詠んだほどだ。
 そういうわけで、仏教の特色でもある柔和忍辱【にゅうわにんにく】(注:恨まずおだやかに)の精神が藩のひとびとに浸透する機会がなく、やがて仁でなければ不仁だというような、両極端で狭量な儒教主義で党派争いをするようになり、ついにはあの恐怖時代につながっていくのである。
 長く朝鮮に滞在し朝鮮事情を研究された目賀田種太郎氏は、朝鮮李朝では、その政策で僧侶を寺院に閉じ込めて人民教化の任に当たらせないようにする一方で儒教主義だけを奨励したため、人の心が残忍性を帯びるようになり、党派の優位のためには人命さえ犠牲にするような風習が生まれてしまったそうで、それは、社会の潤滑油となるべき仏教の教えの影響が見られなかったからであると、談話で話されていたことがある。

 水戸でもまったく同様で、儒教が偏重されたためその弊害として人の心に寛大さが欠けるようになり、藤田東湖でさえもが「常陸之俗、慷慨勇於義、然固陋寡聞(注:水戸の人間は義のためだといってよく考えずに突っ走る)」と告白したように、頑固で片意地で喧嘩っ早い、いわゆる水戸坊【みとっぽう】の気風がはぐくまれていったのだ。
 明治維新の精神的な原動力として貢献した土地であるにもかかわらず、維新後の政治的な舞台で活躍することがなかったのは、この儒教中毒が原因であったのだろう。


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    五
党争の余毒(上巻14頁)

 水戸の党争といえば有名だが、最初は学問上の党派争いだった。それがやがて政治問題に移り、さらには感情問題に発展して、長いこと歩み寄ることができないでいるあいだに、次第に残虐性を帯びるようになり、何度かの殺戮行為を繰り返すようになったという、深刻な負の副産物を生じてしまった。
 私が記憶している維新後の水戸の様子を述べてみよう。水戸は、佐竹時代(注・豊臣政権時代に水戸城は佐竹氏の居城だった)にあった古い城域を拡大して、四方に新しい城郭を築いたもので、士族屋敷と市街とが城郭をはさみ、南には仙波湖があり、北には那珂川が流れている。城の東側は一段さがった低地で下市といい、西側は高く水はけのよいテーブルランドで、上市といった。
 この上市と下市の士族のあいだには、例の党派的反目があった。それが子供ごころにも浸透して、上市では下市の者を「あひる」と呼び、下市では上市の者を「いなご」と呼んだ。一方は高いところで、つんつん威張り、一方は低いところで、泥水を飲んでいるという、嘲笑的な呼び名である。
 両市の士族のこどもたちは、いつもグループを作って石合戦をしたり、道で会えば殴り合いをしたりと、とにかく喧嘩は土地の名物くらいに思われるありさまだったので、私などはひとりで上市のほうに行くこともできず、上市のこどもたちもまた、気軽に下市に来ることができなかった。
 もともと水戸の士族の家庭は儒教主義で固まっていたので、夫婦のあいだで笑ったりすることもなく、こどもも、ひっそりと籠り、喪中のように陰鬱な空気の中にいつも閉ざされたようになっていたが、明治初年の恐怖時代には、それがさらにひどくなり、天狗だの、諸生だの、という噂は、ぜったいに口にしてはならず、そんな名前を耳にするのは、身の毛がよだつようで、大声で快活に話す者さえもいない状態だった。
 このような情勢であったので、いつも人を疑うようなことになり、ほんの偶然に起こってしまったあやまちでも、なにかの下心があったに違いないと思われるようになってしまった。
 あるとき、うちの町内であったことだが、士族の子供が弓で遊んでいるときに、誤って隣りの家の台所に矢が飛び込んでしまった。そのとき隣家の主人は、うちになんの恨みがあるのだと言って非常に怒り、その矢を取りに来たこどもを、大人気もなく追い返したという。これひとつをとっても、その当時の士族の気分が、いかにぴりぴりしておかしくなり、内心疑いに満ちていたかということがわかるだろう。 

 水戸には歴史学者が多かったが、その他のことを趣味にする人は、非常に少なかった。とくに、音楽を趣味とする人はほとんどおらず、水戸藩主の屋敷を除いては、市中どこをさがしても、一台の琴さえもなかっただろう。
 明治三年ころにわたしが住んでいた三ノ町に、飯島という士族がいて、病気の娘の気晴らしのために、町人の師匠を呼んで常磐津の稽古をさせていた。それが私などにはとても興味深く、毎日稽古の始まる時間になると、その家の門のところに立ってきいていたので「継信殿の胸板へ、ハッシと立って真逆さま」などという歌詞を全部覚えてしまったくらいだ。
 その当時は、士族の屋敷で三味線の音をさせるなどは、悪魔の声をきくのと同じだという扱いだったので、後年、東京に出てきて、宴会の席で三味線をきいたときは、座っているのがなにやら恥ずかしいように思えたものだった。だがその後、福澤諭吉先生のお宅で、令嬢たちに三味線をひかせて、踊りを踊らせているのを見てから、ようやく、そういう感じを忘れることができるようになった。このことだけを見ても、水戸士族の家庭の雰囲気が、いかに味気なく、暗いものだったかがわかるだろう。


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 六
元喜按摩(上巻16頁)

 私は父母が健康で、ともに八十九歳の高齢を保ったし、母方の祖母も九十六まで生きたほどで、生まれてからほとんど病気らしい病気をしたことがない。そして非常な腕白小僧であったらしい。
 その腕白ぶりが手に負えないので、それを止めるために、あまりいたずらをすると元喜按摩のところにやってしまうぞ、というのが私の怖がらせるたったひとつの方法だったそうだ。
 元喜按摩というのは水戸の士族町を流しでまわっていた指圧師で、そのころ三十歳くらいだったと思う。顔じゅうがあばただらけで目玉が飛び出ていて見るからにグロテスクな恐ろしい怪物のようだったために、私がとても怖がるのをいいことに、その人のところにやってしまう、というのを脅し文句にしたものとみえる。私はこれが何よりもおそろしく、元喜按摩の笛が遠くでピーッと鳴るのをきくだけでたちまち身震いして小さくなるのだった。

 子供のときの習慣というのはこわいもので、この恐怖心を終生消すことができず、今でも按摩の笛をきくと襟から水でもかけられたような感じになってしまう。世間で子供に雷やおばけを怖がらせるというのは、おそらく同じような大人の理屈から生まれるのだろうが、わたしの体験からいえば、少々のいたずらは押さえつけることなくのびのびと自然に教育するほうがよいのではないだろうか。


水戸の家塾(上巻17頁)

 水戸には烈公(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭)の建てられた弘道館という文武練習所があり、ここで水戸藩士の子弟は明治維新のはじめまで文武両道の稽古をしたそのほかに水戸上市、下市にも家塾があり、年少者はたいていそれらの家塾に通学した。

 私の住んでいた下市三ノ町には横山先生が私塾を開いていた。先生は通称を喜右衛門、諱を高堅といい、いかにも漢学の先生らしい厳格な風采であり、太平記がお好きで、書斎でときどきそれを朗読されていた声はいまでも私の耳に残っている。
 家塾の授業は朝昼晩の三回に分かれていた。朝げいこでは先生が塾の広間に出てこられ、そのまわりを生徒が取り囲んで座り、順番に漢文の読み方を教わった。質問があるときには指の先でその場所を示すと、先生は細い竹の棒でその字句を押さえながら読み方を教えてくれるのである。
 書き方の稽古は
もっぱら習字だった。生徒のレベルに合わせてあらかじめ先生が用意されたお手本の稽古をした。

 夜学には先生は出ていらっしゃらず、塾頭かその他の先輩が代理をつとめた。ときに詩作をこころみる生徒がいた場合などは、紙に書いて先生にあとで添削してもらう。
 もっとも夜学のときに先生が突然みえる場合もあって、そういうときには塾頭らを相手に教訓めいたお話をされることもあった。塾の人数がすくないこともあり、子弟のあいだがらは親子のように和気あいあいとしていた。 

 ところで、私たち少年がおおいに得意がっていたのは、塾の夜学からの帰り道に、高下駄をからからと踏み鳴らしながら「月落鳥啼霜満天」だとか、「鞭粛々夜通河」などと声高らかに吟じながら歩くことだった。月の明るい夜などは帰路があまりに短いことを物足りなく思うのだった。

 このような家塾の様子は今日の学校からみると想像もできないことだろう。当時の師弟間の濃密なかかわり合いを思い出すと、こうした教育法にはなんともいえない独特の味があったことを思い返さずにはいられない。

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 第二期 少年 明治四年より一三年まで

 七
麗人の栄枯(上巻21頁)

 私の生家である水戸下市市三ノ町の筋向いに大内源右衛門という二百石取りのさむらいが住んでいた。那珂港で船主をやっていて水戸藩に献金した功をみとめられ士族に成り上がった人物で欅づくりの大門は町内一の壮観をほこっていた。

 この家のひとり娘の芳子は、わたしが十一歳のとき十三で、うまれながらの美しさはまだつぼみが開く前から人を魅了するほどだった。
 あるとき私は、大内家の庭先の芝生でこの令嬢と遊びながら相撲を取っていて、自分よりもずっと背の高かった芳子嬢を振り回して投げ出したところ、なんの手ごたえもなく、彼女が芝生の上にころころ転がってしまったことがあった。まるで半開きの牡丹の花の一枝を地面に投げつけたような感じがして、子供ながらどうしていいかわからなくなってしまったものだ。
 この令嬢はもともと色白で目鼻立ちが整い利発であったから、十七、八歳のころには藩で並ぶ者のいない麗人となっていた。
 ところがその父の源五右衛門酒飲みがたたりほどなく死んでしまったために、令嬢は石岡あたりの資産家の次男を養子にもらったのであるが、もともと財産のための結婚であったから、美しい馬がいやらしい男を乗せて走っているような感じはいなめず、家禄を返還したあと、出身地である那珂港にひっこんで家政を切りまわしたその苦労はたいへんなものだったのではなかったろうか。その後私は芳子夫人に会う機会がなかったが、幼いころを思い出すたびに令嬢の美貌を思い出したものだった。
 ところが不思議な縁で、私の伯父の三女が芳子夫人のひとり息子の大内義比氏と結婚することになったためにその披露宴で芳子夫人とひさかたぶりに会ったところ、むかしのおもかげはどこへやら、目の前に現れたのは年老いて白髪頭になった老女で、これがあのみめうるわしかった芳子嬢であるとは、どうやっても信じられないほどだった。
 このことがあって私は、漢代に、李夫人が病気のあとに武帝に会うことを拒み、「病気の前の姿を覚えていてください」と言ったことや、茶事において、入席の際に一度見た花は二度と見返ってはいけないとされていることには相応の理由があるものだと実感し、年取った旧知の美人などにはなるべく会わない方が良いものだと深く悟ったものだった。


家禄の奉還(上巻22頁)

 明治二年に版籍奉還が、四年に廃藩置県が行われ、旧藩士族は家禄を奉還するかわりに朝廷から秩禄公債を頂戴することになった。
 当時の水戸藩では、その当事者たちが新朝廷に対してあまりに遠慮しすぎた結果藩につかえる中士の家禄を基準に、一律で一家につき玄米四十七俵を給付するということになっていたので、これを秩禄公債に置き換えた金額では、とうてい一家を養うには不足で、とくに我が家のように両親と六人の子供のいるような大家族では困窮の度が激しかった。
 長男は家に残して学問修行をさせなければならないが、そのほかは外に出して、まず人減らしをしなくてはならない。そこで次男の喜徳を旧松岡藩士である桑名氏の養子に、三男の秀夫を久慈郡小中の佐藤氏の養子に出し、さて私は、桑名氏の仲介で茨城県下多賀郡相田村の福田屋という呉服荒物を扱う小売店の丁稚小僧住み込ませることが決まった。

 これが明治六年、私が十三歳のときのことであったが、水戸士族の子弟は、十三参りといって、十三歳になると城下から四里(注:一里は約4キロメートル)ほどはなれた海岸にある村松村虚空蔵菩薩に参詣するという習慣があったので、この年の五月に父に連れられて村松に出かけ、はじめて海というものを見て帰宅したところ、士族の子である自分が町人になるという一身上の大きな変化があることを知らされ、子供ながらに大きなショックを受けた。
 そのころ町人と言えば、恥や道徳の観念もなくただ金儲けのために生きている一段低い階級の人間だと思っていたので、武士の誇りを捨ててこのような階級に身を落とすことは道徳上の一巻の終わりのように感じられたからだ。商家の丁稚になってしまえば奉公第一となって学問修行もやめなくてはならない。それはそれで悲しいことだったが、それよりもなお悲しいのは、木刀とはいえ腰に一刀をさしていた身分であった自分が刀を捨てて丸腰にならねばならぬことだった。それは身を切られるよりも情けないことだった。そのことを思い出しては涙にくれていることに母が非常に同情して、「決して長いことではない、自分が働いてそのうちに引き戻して学問修行をさせてやるから」というそのひとことを心の頼りに、私はとうとう丁稚奉公に出かけたのである。


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 八
武士の訓言(上巻24頁)

 私の父は前にも言ったように非常に正直で竹を割ったような気性であり、学問にはあまり熱心ではなくひごろ読書をする姿を見たこともなかったが、刀剣鑑定に関しては素人としては一級で、のちに東京で今村長賀(注・刀剣鑑定家ーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/今村長賀氏などと交際していたことからもわかるように、なかなかの眼力ではあったらしい。

 さて家禄奉還となったのち父にはほかに職業がないので、そのころはまだ士族が刀剣を大切にする習慣が残っていたので、刀研ぎの内職をしていた。
 私がいよいよ丁稚奉公に出るという当日、父は私を自分の前に座らせ非常に厳格な態度でこう言った。「おまえも知るような事情で、今回はやむを得ず福田屋に奉公させることになったが、奉公した以上は、その主人のために忠実に働くことは言うまでもない。しかし同じところで働く小僧や番頭などと喧嘩するなどして居づらくなるようなことがあったら、主人に断って帰ってこい。しかしおまえも武士の子なのだから、金銭上の過失によって暇を出されるようなことがあったら、それこそ家の面目にかかわるのでこの家の敷居はまたがせないぞ。そのことをしっかり肝に銘じて忘れることがあってはならぬぞ。」と。
 このひとことは、場合が場合であったが私の頭脳に沁み込んで、今日まで、金銭の上で心にやましいことをせずに来られたのは、この訓戒の賜物であったろうと思うのである。私はいつも金銭上のことでは、人に貸しはあっても借りは一切ない。我が家の出納帳には一切借りの項目がないことを誇っているが、これはこれまでも述べた通りの水戸藩の武士気質であり、自分では日ごろ余裕のある生活を送っていると感じるとはいえ大金持ちにはなれなかったのも、つまりこうした考え方のなせるわざだったのであろう。


異様の丁稚(上巻25頁)

 私は前記のとおり十三歳で茨城県多賀郡相田村にある福田屋という呉服荒物店の丁稚奉公で住み込み生活を始めた。この福田屋は、三代前の主人が水戸上市にある福田屋の番頭だったのが、事情によりこの村に土着して本店ののれん分けをしてもらい営業を継続したものだった。今では多賀郡の中で資産家になっているが、そのころの主人は近藤忠兵衛といって五十いくつかのでっぷり太った風采の立派な人物だった。私が貧乏士族の成れの果てで丁稚になりさがったことを気の毒に思い、私の幼名を幸四郎といったので、ほかの小僧とは区別して「さん」づけで幸さんと呼んで非常に優遇してくれた。
 けれども私は折にふれて元の身分を思い出し、袴をはいて小刀を差してみたくなり、この村から二里(注約8キロ)離れたところにある旧松岡藩の城下の手綱というところに住んでいた次兄の桑名喜徳のところへ行き、預けてあった袴と小刀を持ち出してその日一日城下を歩き回って有頂天になっていた。ところがそれを近藤の長男の秀次郎に見つけられてしまい「幸さんは徳利姿でご城下を歩いていたよ」と大いに笑われてしまったことあった。このあたりで徳利姿というのは、袴をはいた姿が徳利に似ていることから袴姿をそういうのであろう。
 私は十歳ころから詩を作るのが好きで十三歳のときに雪を詠じた七言絶句を作ったことを覚えている。福田屋で丁稚になったあとも店頭の洋灯の下で言葉(原文「詩語碎金(さいきん)」)をひねくっては詩作にふけっていたので、一緒に働いていた小僧たちはいったい何をしているのかと思っていたようである。
 また店で来客のとだえたときに、私がいらなくなった反故紙で習字のけいこをしているのをみた人が、田舎の純朴さであろう、なにか書いてくれないかと白紙を持ってきた。それに大きな文字を書いて渡したところ、それがだんだん評判になり、得意先のほうぼうから、しきりに揮毫を頼まれるようになってしまったので「清風」の二字をもっとも得意として書き続けたものだ。それで、福田屋の小僧さんは、まだ一年にもならないのに、この近所の大書家だというすごい評判になってしまったのである。



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 九
福澤の風評(上巻27頁)

 私が福田屋に奉公していたしていたころは、五、六月の田植えの季節になると、近村の農家が忙しいので店は非常にひまになるのであるが、この福田屋自身がもちろんのこと、村に田畑を所有し作男に耕作させていたから、田植え前になると一里ほど離れた内野山【うつのやま】という山から芝草を刈り取り馬の背に載せ水田まで運び肥料にするという仕事があった。これは「刈敷【かつしき】」と呼ばれ、農繁期になると猫の手も借りたいほど忙しいので、小僧の私なども手伝いに出かけ、刈敷を背負った馬をひいて水田までを往復したこともあった。この季節ちょうど馬に盛りがついていて、ほかの刈敷馬と道ですれ違うときにヒンヒンないて暴れ出すので、十三、四歳の私の細腕ではこれを止めるのが難しく、遠くからほかの馬がいななく声がきこえてくるだけで身震いするほど怖かったものだ。

 ところであるとき私は馬をひいて内野山にのぼり、磯原から桜井にかけての遠くの海岸の松原を見渡しているときに、自分が丁稚、そして牧童となりこのような草深い田舎で年をとっていくのはまったく無念であると思った。少しでもはやく水戸に戻り、やがては東京にも出ていきたいという希望が、潮のごとくに沸き立ってきた。人間というものは高いところにのぼって目の前に広大な景色が展開するのを見ると自然にこのような気持ちになるものなのかもしれない。
 この気持ちが起こってからというもの、水戸や東京からのニュースに関心を持ち、福田屋の若主人である秀次郎が春と秋の二回呉服ものの仕入れのために東京に出かけ小網町あたりの宿で四、五日滞在して戻ってくるときなどは、そのつど根掘り葉掘り東京の土産話を聞くのを楽しみにしていた。
 あるとき秀次郎の話で、福澤諭吉という人が最近東京で評判であるときいた。この人は西洋の学問ができて口もたつので、誰が議論に行ってもしゃべり負かされてしまう。それで、世間では彼に猪口才(注・ちょこざい)諭吉というあだ名をつけているのだそうだ。

 最近では、彼は楠公権助論というのを世間に公にして、楠公(注・楠木正成)が湊川で討ち死にしたのはくだらぬ犬死で、権助(注下男のこと)が主人の使いに出て金を落としてしまったのを苦に首をくくったのと同じだと言い出したので、勤王の志士の激しい怒りを買いたびたび暗殺が企てられているという。その話をきいて私はこの上なく好奇心が湧くのを感じた。なぜ楠公が権助と同じなのか、その議論のつながりがわからないので、どういうことだろうとしきりに考えたがついに理由がわからなかったので、なんとかしてこの福澤の書いた書物を見てみたいと思いながらも、片田舎の悲しさでついにその目的を達することはできなかった。私が福澤先生の名前を耳にしたのはこれが初めてで、それは明治七年、十四歳の時であった。


白石の前鑑(上巻29頁)

 私は相田村の福田屋に十三歳から十六歳までの足掛け四年、正味三年の丁稚奉公をしていたが、いっしょに働いていた田舎小僧よりもすこしはましなところがあったらしく、しきりに近隣の評判小僧となった。そして、相田村から一里半(注・約6キロ)の桜井村で、元松岡藩士で家禄奉還後にも所領の田地があるのを幸いに土着して裕福に暮らしていた郡司という士族が、私を婿養子にほしいと申し込んできた。福田屋は旧藩時代から郡司家のひいきを受けていたものだから、この時を逃すものかと私にこの話をすすめる。私も一時は迷ったのだが、聞き知っていた話からことに教訓を得てこの話は断ることにした。それは、女性としては物知りで太平記や太閤記などの中から私にいろいろ話聞かせてくれていた母からきいた話のひとつであったのだが、私はそのような話をよく記憶して、十一、二歳のころには口づてに周囲に話してきかせたりしたので、近所の知り合いから講談を頼まれることもあったのである。

 それは、新井白石のおりたく柴の記の中に出てくる、彼の書生時代の話である。ある富豪の町人から養子になってほしいと頼まれたとき、蛇がまだ小さいときに小さな傷をつけられたが、それがやがて大蛇になったときにとても大きな傷になったという例があるので、今町人の養子になって、のちに出世した場合に、その傷が大きくなるのはまっぴらごめんだと言って断ったという。私も、今郡司家の養子になったら、このように草深い田舎で一生を過ごさなくてはならないと気がつき、両親に相談するまでもなく、きっぱりとこの話を断ったのである。もしあのときに養子になっていたら、今の姿がいかに貧弱なものであるとはいえ、今日ある姿とは相当違っていただろうと思い、われながらよくぞ運命の虎口を逃れたものだと思う。新井白石の物語がこの運命から私を救ってくれたのだと感じることである。

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   十
慈母の奮闘(上巻30頁)

 私の母はとても謙遜な人で、誰に対しても自慢がましい言動をとったことがない。ただただ非常に辛抱強く、思い立ったことは必ずやりとげる性格だった。私を丁稚奉公に出しておくのがとても心苦しかったとみえ、私の奉公三年の間、身を粉にして立ち働き、事実爪に灯をともすように倹約したその苦労は筆舌につくしがたいものだった。夜おそくまで針仕事の内職をするのはもちろん、一家の家事全般をただひとりで受け持ち、薪を倹約するために自宅から十二、三町(注一町は約109メートル)離れた旧城下にある杉山という杉林に分け入り枯れた杉の枝を拾い、これを背負って帰り、炊事用にはたいていこれで間に合わせたという具合。一が万事で非常に倹約をしたので、三年のうちには家計にも多少の余裕が出てきた。このとき長兄の純は水戸から二里はなれた磯浜町の小学校教師となっていたので、もう一刻も待たなくともよいとなり、私の丁稚奉公をやめさせ兄の自炊を手伝わせながら自分で勉強させようというところにこぎつけた。そこで父が私の奉公をやめさせてもらおうと福田屋に来て主人に申し入れてくれたのだが、そのときは天にも昇る心地だったし、慈母の奮闘が私を深淵の底から引き揚げてくれたのだというありがたさで感涙を流さざるをえなかった。
 けれどもこの三年の丁稚奉公は私の一生において非常に思い出深いばかりでなく、他人の飯を食って人情の機微を知り子供ごころに深く刻みつけられたいろいろな印象は、のちに折にふれて有効な参考となった。また、この田舎の雑貨店で得た経験がやがて三越呉服店の改革に当たった時に少なからず役立ったことは、われながら不思議な因縁だと思うのである。
 この福田屋主人の近藤忠兵衛は八十歳くらいまで長生きしたそうだが、長男の秀次郎は五十歳前後で死去し、男子がいないのでそのひとり娘に姉の子をめとらせて相続させあいかわらず営業を続けていたので、私は明治四十年ごろに約三十年ぶりでお礼かたがた一度相田村を訪問し、当時生き残っていた古い知り合いを集めて一夕宴を催し、浦島が故郷に帰った思いにふけり非常に感慨深かったこともあった。


自炊の生活(上巻33頁)

 私は慈母の捨て身の努力で、十三歳から十六歳までの足かけ四年、正味三年の丁稚奉公の苦境から救い出され、その後すぐに、当時磯浜小学校教員になっていた長兄のところに同居し自炊生活をすることになった。
 小学校教員の身であるから住まいは九尺二間の棟割長屋の一軒を借り、私が朝早く起きて飯を炊き、汁を作り、弁当をこしらえて出勤する兄に持たせる。午前九時に炊事の仕事を全部終えると、それから和漢の歴史や、文章規範、唐宋八家文章などもっぱら漢籍を読みふけり、夕方になるとまた晩飯の用意をし、ひまがあれば夜ふけまで夜学という勉強ぶりであった。
 壁一枚むこうの隣りに、兄の同僚の中山さんという教師が住んでいて、その奥さんがあねご肌のおもしろい性格だったので夜になるといつものように同僚の教師がやってきては談話にふけっていた。そのころはまだ師範学校の卒業者もおらず教師の多くは士族のなれのはてであって、多少の文学のたしなみがあったので、神谷さんという五十過ぎの漢学者が詩を作り、藤井さんという元気のいい和学者が和歌を詠んだりするのを私もその末席につらなって傾聴したものだ。
 神谷が作った下那珂川の七言絶句に、

  布帆高掛孕西風 十里長江秋不空
  両岸霜楓紅映水 舟行錦浪繍波中

そして藤井の和歌に、

  わが宿に吹きくる風の香もしるし誰が垣根とも白菊の花

というのがあり、できがよいと一同が褒めたので今でも覚えている。
 このときの生活で一番困ったことは、もう一方の隣家に磯浜から水戸あたりまで生魚の行商をしている夫婦者が住んでいたのだが、毎晩のように痴話喧嘩が始まることだった。それがいわゆる残虐変態的なもので、ときには大暴れの立ち回りになるかと思えば、夜更けまで小声で楽しそうにしていることもあり私の勉強の邪魔になるのであった。
 考えてみれば苦労の多い生活だったが、少年時代にはその苦労も苦労とは思わず、ただ気ままに勉強することができることがうれしくてたまらなかった。 
 こうして一年が過ぎ私が十七歳になったその五月ころから、また水戸の実家に戻ることになり、それからはいよいよ本式の勉学に取り掛かることになった。

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