五十一
大阪の紳商(上巻166頁)
明治二十二(1889)年の暮れ、日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は私を大阪の実業家(原文「紳商諸氏」)たちに紹介しようということで、私を連れて大阪に出かけた。
そのとき私は北浜の花外楼に宿泊した。吉川氏は当時網島にあった立派な自邸【のちに藤田伝三郎男爵の邸宅になる】に宿泊したので宿は別だったが、毎日連れ立って諸氏を訪問した。
ある晩、吉川氏が大阪の経営者たちを招き、私のための、いわゆる顔つなぎの会合を北浜の専崎楼で開いてくれたことがあった。そのとき集まったのは、藤田伝三郎の三兄弟(注・兄・藤田鹿太郎、弟・久原庄三郎)、磯野小右衛門、平瀬亀之助、松本重太郎、田中市兵衛、土居通夫、広瀬宰平、岡橋治助らだった。
藤田氏は山口の出身で、井上馨侯爵とごく親しく、あの偽札事件で有名になったが、三兄弟の共同経営事業は当時まだ微々たるものだった。そのころ伝三郎氏は北浜の天王寺屋五兵衛、すなわち天五の旧宅に住んでいた。
平瀬亀之助氏は大阪の旧家で、骨董の鑑賞に非常にすぐれ、金剛流の能楽に堪能で、当時の大阪旧大家の代表的存在とみなされていた。
松本重太郎氏は丹波間人町の出身で、第百三十銀行の頭取。大阪随一の活動家として知られていた。
田中市兵衛氏は、干鰯(注・ほしか)問屋が本業で、大阪米商会所の頭取で、松本氏とともに浪華(注・なにわ)実業界の両雄と称されていた。
土居通夫氏は鴻池の顧問として評判が高かった。
岡橋治助氏は質屋タイプの金融業と地所の所有で知られていた。
広瀬宰平は住友を代表して、維新の際の同家の危急を救った功労者である。
当時の日本の経済界は非常に規模が小さく、日本第一の金蔵である大阪で十万円以上の資産をもっている者で組織した「修齊会」の会員がわずかに三十人前後に過ぎなかったことを見てもその状況はおしはかれるだろう。(注・修齊会については、69にも記述あり)
こうして私は吉川氏のおかげでいっぺんに大阪の大会社の経営者たちと知り合いになることができ、数年後に三井銀行の大阪支店長になったとき期せずして非常に大きな便宜を得ることになった。これは予期せぬしあわせであった。
川田の漫画(上巻167頁)
私をひきたててくれた日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は川田小一郎【のち男爵】氏の支持者だった。川田氏は新しく日本銀行の総裁になったばかりで、当時の東京の財界の覇権を握っていた渋沢一派に敵対する存在として対峙していたから、ひとりでも多く支配下に人材を集める作戦であったようだ。それで吉川氏は、川田氏に私を推薦して日本銀行に採用してもらうように働きかけたのである。
一度川田氏に面会するようにということだったので、ある日、小石川江戸川町の川田邸を訪問することになった。氏は大柄の肥満体で、相撲の親方のようだった。もともと難しい性格なのに、このころ腎臓病を患いときどき気分が悪くなることがあるため、いつ機嫌が悪くなるか予測できないようなときだった。私が訪問した日は特に気分が悪かったようで、いかにも無愛想で取りつく島もないありさまだった。
私は外国で視察してきた商業上のしくみについて、いささかの所見を述べるつもりであったのに、その日はすっかり当てがはずれてしまった。それでどうにも癪にさわり不愉快で、こんな男のために働くものかと、初対面のあいさつだけ済ませてはやばやと退散したのである。
ところが明治二十三(1890)年にはいり、私が横浜貿易新聞を主宰することになったときにこんなことがあった。当時の横浜では、地主と商人が二派にわかれて対立しており、この貿易新聞は商人派の頭領であった小野光景、安西徳兵衛、田中茂らの機関新聞になっていた。その主宰を頼まれたので腰掛け程度の気持ちではあったが引きうけ、東京から横浜に毎日出勤してその編集を指揮することになった。
ある日のこと、大付録をつけることになり、私の考えた漫画を載せることになった。それは、日本丸という船に乗った船頭が、艪(注・船を操縦するへらのついたさお)にすがりついたまま首を垂れ途方に暮れているという図だった。以前、三菱汽船会社の大番頭だった川田が、勝手のちがう日本銀行という金融機関を操縦するのは大いに骨の折れることだろうと風刺したもので、これは日銀総裁になりたての川田にすれば非常に不快であったにちがいない。
翌日、吉川泰次郎氏に呼ばれて向島の家を訪問すると、平家蟹のような顔を烈火のごとくいからせて、君はとんでもないことをしてくれた、僕は川田さんに対してなんとも申し訳がないではないか、と言う。言われてみれば張り切りすぎの若気のいたりで、すこし悪ふざけの度が過ぎたようだ。後悔したが、もうどうすることもできないので二度とこのようなことをやらないようにすると約束してほうほうのていで逃げ帰った。
川田という人は土佐風の政治家肌の人で、臨機応変な機知に非常に富んだ策略家だったが、私はどうも肌が合わなかった。のちに三井銀行にはいってからも用件以外のことではあまり近づくことはなかった。
しかし明治二十四(1891)年に三井銀行、第一銀行に取付け騒ぎが起こったとき、川田氏は最後には渋沢さえも黙らせ、いっときは日本の経済界全体が川田氏の動向を注視するほかはないような状況になった。これなどは、やはり川田氏が偉才であったことを証明しているであろう。
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