だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 51‐60

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 五十一
大阪の紳商(上巻166頁)

 明治二十二(1889)年の暮れ、日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は私を大阪の実業家(原文「紳商諸氏」)たちに紹介しようということで、私を連れて大阪に出かけた。
 そのとき私は北浜の花外楼に宿泊した。吉川氏は当時網島にあった立派な自邸のちに藤田伝三郎男爵の邸宅になるに宿泊したので宿は別だったが、毎日連れ立って諸氏を訪問した。
 ある晩吉川氏が大阪の経営者たちを招き、私のための、いわゆる顔つなぎの会合を北浜の専崎楼で開いてくれたことがあった。そのとき集まったのは、藤田伝三郎の三兄弟(注・兄藤田鹿太郎、弟・久原庄三郎)、磯野小右衛門、平瀬亀之助、松本重太郎、田中市兵衛、土居通夫、広瀬宰平、岡橋治助らだった。
 藤田氏は山口の出身で、井上馨侯爵とごく親しく、あの偽札事件で有名になったが、三兄弟の共同経営事業は当時まだ微々たるものだった。そのころ伝三郎氏は北浜の天王寺屋五兵衛、すなわち天五の旧宅に住んでいた。
 平瀬亀之助氏は大阪の旧家で、骨董の鑑賞に非常にすぐれ、金剛流の能楽に堪能で、当時の大阪旧大家の代表的存在とみなされていた。

 松本重太郎氏は丹波間人町の出身で、第百三十銀行の頭取。大阪随一の活動家として知られていた。
 田中市兵衛氏は、干鰯(注・ほしか)問屋が本業で、大阪米商会所の頭取で、松本氏とともに浪華(注・なにわ)実業界の両雄と称されていた。
 土居通夫氏は鴻池の顧問として評判が高かった。
 岡橋治助氏は質屋タイプの金融業と地所の所有で知られていた。 
 広瀬宰平は住友を代表して、維新の際の同家の危急を救った功労者である。
 

 当時の日本の経済界は非常に規模が小さく、日本第一の金蔵である大阪で十万円以上の資産をもっている者で組織した「修齊会」の会員がわずかに三十人前後に過ぎなかったことを見てもその状況はおしはかれるだろう。(注・修齊会については、69にも記述あり)
 こうして私は吉川氏のおかげでいっぺんに大阪の大会社の経営者たちと知り合いになることができ、数年後に三井銀行の大阪支店長になったとき期せずして非常に大きな便宜を得ることになった。これは予期せぬしあわせであった。
 


川田の漫画
(上巻167頁)


 私をひきたててくれた日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は川田小一郎のち男爵氏の支持者だった。川田氏は新しく日本銀行の総裁になったばかりで、当時の東京の財界の覇権を握っていた渋沢一派に敵対する存在として対峙していたから、ひとりでも多く支配下に人材を集める作戦であったようだ。それで吉川氏は川田氏に私を推薦して日本銀行に採用してもらうように働きかけたのである。

 一度川田氏に面会するようにということだったので、ある日、小石川江戸川町の川田邸を訪問することになった。氏は大柄の肥満体で、相撲の親方のようだった。もともと難しい性格なのに、このころ腎臓病を患いときどき気分が悪くなることがあるため、いつ機嫌が悪くなるか予測できないようなときだった。私が訪問した日は特に気分が悪かったようで、いかにも無愛想で取りつく島もないありさまだった。
 私は外国で視察してきた商業上のしくみについて、いささかの所見を述べるつもりであったのに、その日はすっかり当てがはずれてしまった。それでどうにも癪にさわり不愉快で、こんな男のために働くものかと、初対面のあいさつだけ済ませてはやばやと退散したのである。
 ところが明治二十三(1890)年にはいり、私が横浜貿易新聞を主宰することになったときにこんなことがあった。当時の横浜では、地主と商人が二派にわかれて対立しており、この貿易新聞は商人派の頭領であった小野光景、安西徳兵衛、田中茂らの機関新聞になっていた。その主宰を頼まれたので腰掛け程度の気持ちではあったが引きうけ、東京から横浜に毎日出勤してその編集を指揮することになった。
 ある日のこと、大付録をつけることになり、私の考えた漫画を載せることになった。それは、日本丸という船に乗った船頭が、艪(注・船を操縦するへらのついたさお)にすがりついたまま首を垂れ途方に暮れているという図だった。以前、三菱汽船会社の大番頭だった川田が、勝手のちがう日本銀行という金融機関を操縦するのは大いに骨の折れることだろうと風刺したもので、これは日銀総裁になりたての川田にすれば非常に不快であったにちがいない。
 翌日、吉川泰次郎氏に呼ばれて向島の家を訪問すると、平家蟹のような顔を烈火のごとくいからせて、君はとんでもないことをしてくれた、僕は川田さんに対してなんとも申し訳がないではないか、と言う。言われてみれば張り切りすぎの若気のいたりで、すこし悪ふざけの度が過ぎたようだ。後悔したが、もうどうすることもできないので二度とこのようなことをやらないようにすると約束してほうほうのていで逃げ帰った。 
 川田という人は土佐風の政治家肌の人で、臨機応変な機知に非常に富んだ策略家だったが、私はどうも肌が合わなかった。のちに三井銀行にはいってからも用件以外のことではあまり近づくことはなかった。
 しかし明治二十四(1891)年に三井銀行、第一銀行に取付け騒ぎが起こったとき、川田氏は最後には渋沢さえも黙らせ、いっときは日本の経済界全体が川田氏の動向を注視するほかはないような状況になった。これなどは、やはり川田氏が偉才であったことを証明しているであろう。



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五十二  初見の井上馨侯(上巻169頁)

  私のことは渡邊治からすでに井上侯爵の耳にはいっていたが、まだ会見にはいたっていなかった。そのころ私は吉川泰次郎氏に連れられ、明治二十二(1889)年の暮れに大阪に赴いた。翌二十三年の一月、私は年初を須磨の保養館で四、五日休養しようと大阪か汽車に乗った。するとその汽車に偶然井上侯爵が乗っていたので、神戸までの車中で吉川泰次郎氏が私を侯爵に紹介してくれた。
 侯爵は何年か前に伯爵になったとき、藤田伝三郎、松本重太郎、田中市兵衛、磯野小右衛門ら、侯爵といちばん親しい大阪の会社経営者から、むかしの殿様が着ていたような鼠地綾形模様紋付と仙台平の袴、黒の五つ紋付羽織を贈られていた。それを今回、彼らに見せようということで着用されていたが、私に対してはいたってていねいに挨拶してくださり、かねてからお名前をきいているので腰をおちつけてお目にかかりたいと思っているが、これから三月ごろまで長州(注・現山口県)に行っているつもりだから、東京に戻ったらゆっくりお話ししましょう、と言われた。
 侯爵とは神戸で別れたが、その後予定通り三月になり帰京されたので、約束どおりに侯爵の麻布鳥居坂邸を訪問した。このときは鳥居坂西側の邸宅の改築中で、向かい側にある邸宅に仮住まいされていた。その庭は一面青々とした芝生で、客間の床の間に何やら大きな仏画がかかっていた。
 私はイギリス滞在中にボウズ氏の美術館で日本画の研究をしてきたので、さっそく、その仏画の前に座りそれに見惚れていた。するとそこへ井上侯爵がはいってきて、君はそんなものが好きなのか、と不思議そうな顔をされ、同時に、ずいぶん話のわかる奴ではないかと言わんばかりに、非常に好意的に私を迎えてくれたのである。
 侯爵は、自分はいたって単純な性格で、初対面のときから腹の中を打ち明けて話をする流儀なので今日もなにもかも隠し立てせずに話す、と言われた。
 「俺は、元来友人となれば、どこまでも親切にする。また敵となれば、これを打倒しなければすまないという、もって生まれた性質があって、いいのか悪いのか自分にもわからぬが、とにかく今日まで少しもかわるところがない。そのために敵から憎まれるばかりでなく、あまりに親切が過ぎて、こうだと思うと、口を割ってでも薬を飲ませるようにするので、味方からもよく嫌われるようなことがある。つい先ごろも、黒田(注・黒田清隆)が、酒に酔って俺のところに押しかけてきて、玄関で声高に、国賊と口走ったことを聞き、そのときは留守であったが、帰宅ののちさっそく短刀を懐にして、黒田のうちに押しかけていったが、実は彼と刺し違えるつもりであった。しかし彼が留守であったから、よんどころなく引き返してきたところへ、西郷(注・西郷従道)が中にはいってしきりに詫びを言うものだから、俺はとうとう容赦してやったが、相手が強ければ強いほど、俺はますます強く出るのが持って生まれた性癖である。」
というようなことであった。
 それから十日ほどのち、一度ゆっくり会いたいと言われたので再び侯爵を訪問した。すると、今日はすべての来客を断ったからのんびり話すことにしよう、君はすでに外国の商業事情を視察してきて、これから日本の経済界で活躍するつもりだろうから、俺が維新のはじめに大蔵大輔として日本の財政整理をしたときのことを詳しく君に話しておこうと言って、それから維新後の財政状況や、諸藩札の始末についての苦労談をきかせてくれた。
 また太政官札(注・慶應四年五月から発行された政府紙幣)が信用をなくして
紙幣同士に大きな価値の差が出てしまったとき、内閣会議の席上で三日以内に紙幣の相場を同一にしてみせると断言し、その夜、横浜から糸平田中平八を呼び寄せて、彼に内々に太政官札を買い上げさせ、同時にほうぼうに手を回して太政官札の取引に差つける者を懲罰する方法を考え、予言したとおりに
太政官札を額面通りの価値で流通させることに成功した苦心談を話された。
 その日は午前十時ごろから話しはじめ、昼食をともにしたあと再び話し続け、三時半になっても侯爵の談話はまだ終わらなかった。それを見て、私は侯爵の気力の旺盛さに感服したものだった。この時の侯爵は五十八歳で、これが私と井上侯爵とが知り合った最初のころの話(原文「序幕」)である。


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 五十三  
山県有朋公
(上巻172頁)

 
 私を井上侯爵に紹介したのは親友の渡邊治であったが、その後、井上侯爵から山県公爵に紹介してくれるよう取り持ってくれたのも渡邊だった。こうして私が山県公爵に面会したのは、公爵が欧米視察を終えて帰国した明治二十三(1890)年の春の、まさに内閣を組織しようとしていた直前の多忙な時期だった。今の帝国ホテルの一角の、日比谷公園の向かいにあった内務大臣の官邸である晩に会見することになった。

 食後の七時ごろに訪問し着座すると公爵はすぐに口を開き、
 「俺は軍人であるから、サーベルのことはいささか人に向かって談話する資格があるが、政治のほうはなはだもって不得意である。井上からきけば、君は西洋の商業を視察してきて『商政一新』という著書もあるそうだから、今夜はゆるゆるその所見をうけたまわりたい。」
と言われた。

 そこで私は、日本がいよいよ議会を開いて立憲政治を施行する以上、社会の諸機構もそれに応じてことごとく立憲的にならなければならない、しかし実態は政治だけが立憲で、その他の社会組織がそれについていけないおそれがあるので、少しでもはやくこれを改善しなければならないという見地から、実例をあげて、ほとんど二時間くらいしゃべり続けた。
 公爵はときどき相づちを打たれるくらいだったので、私は山県という人は、自分で言われるように、ただの武官(注・山県は自分のことを「一介の武弁だ」とよく口にしていた)で、政治問題などについてはあまり議論しない主義なのだと思ったのであるが、これは後年になって大きな誤解であることがわかった。
 こうして私が山県公爵と会見したあと、一日か二日して井上侯爵に面会すると、侯爵は、「昨日宮中で山県に会ったが、君のことを非常にほめて、一度で親しくなったと言っていたよ、山県は俺とは違って、人に会うときには軍人的な手順を踏んで、まず城門の前でいかめしく会見し、次に第一の砦を開いて引き入れ、次に第二の砦を開くというやり方をするので、腹の内を見せるまでには時間がかかる方なのに、君に対しては珍しくはじめから十分に話したらしい。」と語られ、侯爵自身も満足なようすだった。
 これが山県公爵と私の初対面である。最初の会見の感じがよかったせいか、その後公爵とは、公私ともに用があるというわけではなかったのに交際はずっと続き、晩年に近づくほど親しさの度が増したのは相性がよかったからだとしかいいようがない。
  


陸奥と山県
(上巻174頁)

 
 山県公爵は、明治二十三(
1890)年の最初の議会に当たり、伊藤公爵らの勧誘に応じて内閣を組織することになり、陸奥宗光のち伯爵を農商大臣に登用した。(注・山県が内閣を組織したのは明治22年の暮れ、最初の帝国議会開催は231129日)

 公爵は議会開設の前に商業会議所条例を発布しようとしており、私に対し「君はわが国の商業会議所組織を英国流にしようと言うのだが、陸奥の案はドイツの制度を多分に取り入れているから君のとは衝突するかもしれない。しかしこれを発表したあとにあれこれと議論があるのはおもしろくないから、その前に一度陸奥と会談して君も賛成してもらいたい」ということで、六月初旬だったかに夕食後椿山荘を訪問した。
 あの広大の庭に面した日本座敷に通され待っていると、公爵は陸奥氏といっしょにやってきて座られた。私は陸奥氏と初対面のあいさつをし、今度発布することになっている商業会議所条例についての陸奥氏の説明をきいた。その条例文も見せてもらったが、だいたいにおいて私の考えと大きく違うところはなかった。
 陸奥氏の条例案はドイツ流で、課税により会議所の費用を維持するしくみだ。私のはイギリス流で、商業会議所のある都市の有力者の寄付金で維持するというものだった。この点につき押し問答を重ねた結果、ようやく双方の意見が一致した。これが現行の商業会議所条例である。
 さてこのとき私の印象に残ったのは、陸奥、山県のふたりの対談のやりとりの態度だった。
 山県公爵は私などに向かっては非常にていねいな言葉を使うのに、陸奥氏に対してはほとんど親分と子分のような口調である。公爵が、「貴様はときどき約束をたがえるから油断がならぬ、今度のことその当時何かの懸案問題があったらしいでもそうではないか」と言うと、陸奥氏はさかんにに謝り「決してさようなわけはありません、閣下がご信用に相なる以上は、私は必ず精一杯にやりとげます」などという具合だった。それがとてもおかしかったので、私は、維新の前後の変化の大きかった世の中をくぐってきた人物同士の間には、今日の政府官僚の中では見ることのない一種独特の人間関係があるのだなあ、と思ったものだった。そこでは、陸奥氏が山県公爵のご機嫌取りをしながら自分の才能を発揮しようとして悲惨なまでの苦心をしていることを見て取ることができるのだった。
 このとき目をあげて広々とし庭を見ると、わざわざ放たれたとみえて、蛍が暗闇に点々と飛び交っていた。それは、こちら側で両雄が対座しているのと異様な対照をなす光景であり、これを絵巻物に描いたなら一幅の名画になっていたであろう。


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 第四期 実業 明治二十四年より三十四年まで

  五十四
三井入りの経緯(上巻179頁)

 私が三井にはいるという話は、明治二十三(1890)年十月ごろに、その端緒が開かれた。それより以前、私は欧米商業視察の結果を「商政一新」という著書にして日本の商業組織革新を論じて発表していた。当時としてはかなり先端的な実業論だったが、それを井上馨侯爵が読んで共鳴され、しばしば私を自邸に招きわが国の財政に関するこれまでの経験や将来の方針について語られていたのであるが、もともと世話好きな侯爵であるから、まずはわたしの結婚相手に有名な実業家の娘を紹介しようと言い出して、その相談のために当時侯爵が建てられたばかりの上州(注・群馬県)の磯部の温泉別荘に呼びつけられたのである。
 この別荘は侯爵の気に入らなかったようで、ほどなく興津に移られることになり建物も移築したのだが、わたしの結婚問題も先方に先約がありそのまま立ち消えとなってしまった。
 しかし侯爵は私に何か世話してやりたいと思われたのか、そのころ侯爵が三井家の当主から同家の財政革新を依頼されていたのをさいわいに、私をこの任の先頭に当たらせるということで同家に採用してもらおうとしたのである。
 十一月上旬私は侯爵に招かれ、三井家の歴史や維新における同家の行動、また維新後に侯爵が大蔵大輔だったときの三井の大番頭だった三野村利左衛門との関係から現在の状況にいたるまでの話を、ほとんど三時間にわたってきくことになった。
 そして侯爵が「あまり思わしい働き場所ではないかもしれないが、とにかく日本屈指の旧大家であるから、君が一骨折ってみようと思うならさっそく三井家に交渉してみよう」と言う。侯爵が三井家のことを「思わしい働き場所でもなかろう」と言われたことからも、当時の三井が腐った大木のように、ともすれば崩壊してしまいそうな状態であったことがわかるだろう。
 私はこのような勧誘を受けて、日本の長者番付の横綱である三井の家運の挽回のために力を貸すのは非常におもしろい仕事だと思ったので、とにかくひと働きしてみましょう、と快諾したのである。

 井上侯爵は喜色満面で、ならばそのことを三井と深い関係のある渋沢栄一と三井物産会社の益田孝に伝えておくから、そのうちふたりに会見しなさい、ということになり、これでわたしの三井入りが決まったのである。

 

三井入りの試験(上巻180頁)

 井上馨侯爵は三井の財政革新の先頭に立つ者として私を三井に入社させようとした。さっそく私のことを渋沢、益田の両人に伝え、一度高橋の面接をし三井においてどのような仕事を担当させるかを考えてほしいと申し渡した。
 明治二十三(1890)十二月二十日ごろだったと思うこのふたりが焼失前の帝国ホテルで三井関係の実業家たち十数名集めて小宴会を開いた。その席で、欧米の商業視察報告をしてほしいと私に依頼されたので、だいたい「商政一新」の中で述べたことを話し、日本の各商業機が、その年に始まる議会政治と足並みをそろえて円滑に発展する必要がある理由を三、四十分演説した。
 渋沢、益田の両人をはじめ列席ののひとびとは、それはしごくもっともな話だと同意し非常に好感を持たれたようだった。こうしてこのふたりにより、私の試験結果が三井の主人やそのときの総理であった西邑乕四郎(注・にしむらとらしろう)らに報告されたようで、暮れも押しつまった二十七日の午前十時ごろだったと思うが、渋沢子爵が私を兜町の渋沢事務所に呼び、「君の三井入りがいよいよ決定したから、拙者が同道して紹介することにしよう」と言って、用意してあった馬車で、当時の東京で屈指の西洋館で「ハウス」と呼ばれていた駿河町の三井銀行に連れていってくれた。その二階の大広間で、私は総長の三井高喜、副長の西邑乕四郎、幹事の石川良平と今井友五郎、支配人の斎藤専蔵との会見を行った。
 そのときの渋沢子爵はいつもどおりの懇切丁寧な調子で、三井家の歴史から、自分と三井家、あるいは、同家の大番頭である三野村利左衛門と自分の関係などを説明した。また列席の重役に向かい、井上侯爵がわざわざ三井家のために洋行帰りの新人である高橋氏を入行させようと好意を示してくれているのだから、諸君は決して反感などを持たずに高橋氏が働きやすいようにしてほしいという希望を述べながら私のことを紹介してくれた。

 さまざまな協議の上、私は翌年の一月はじめから出勤することになった。そのことにより私はようやく職業にありつき、それまでの書生放浪生活を明治二十三(1890)末で打ち切ることになったのである。


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 五十五
三井の情勢(上巻182頁)

 私は明治二十四(1891)年の一月元日に三井銀行に出勤し、重役たちに年始のあいさつをし同六日から毎日勤務することになった。
 当時の三井銀行は東京で建てられた最初の木造西洋館だった。駿河町の表通りからすこし奥まって正面玄関があり、そこから営業部にはいるとその奥が大元締の部屋になっていた。大元締というのは現在の三井銀行の営業部にあたるもので、いってみれば当時の三井の重役室である。幅が三間(注・一間は約180センチ)、奥行きが四間ほどの大きさの部屋だった。その部屋の突き当りの正面に、総長である三井高喜翁の机と、副長である西邑乕四郎氏の机が並び、むかって左には中庭に面した明かり取りがあり、右手の壁には今井友五郎、石川良平のデスクが並んでいた。
 この部屋の前、つまり一段さがった営業室のところに、元締の三井元之助のち高生と支配人の斎藤専蔵が控えていた。
 さて西邑は私を別格の客分扱いにしたので、自分の机と直角(原文「鉤の手なり」)に私の机を置いて私を座らせた。私は、三井銀行が迎えたはじめての「学校」の若先生だったから、行員たちは、不思議な人間が舞い込ん出来たものだと不審げに私の行動に目を光らせていた。
 私は井上侯爵から、三井銀行にはいっても当分のあいだは、規則やその他の業務を調べることに注力して何事に対しても軽率に発言しないようにし、調査が終わったらまず自分に報告せよとかさねがさね言われていたから、出勤の初日から銀行の規則の研究に専心した。
 そしておよそひと月半でほぼ銀行の内情がわかったので、井上侯爵に私の改革の意見を述べようと思い侯爵を訪問した。するとそこで、私はもっと重要な調査の依頼を受けることになったのである。それは、侯爵がまえまえから計画していた三井家憲制定についてだった。


三井家の来歴(上巻183頁)

  明治二十四(1891)年私は三十一歳で三井の人間になった。以来二十一年間、同家に奉公したのであるから、まずこの三井家について述べておこう。
 三井家の祖先、八郎兵衛高利は、元禄七(1694)年に七十三歳で死去した。伊勢の松阪から江戸に出てまず呉服店を開き、つづいて京阪と江戸で為替業を始めたの万治年間(注・1658~61年)の三十代のときだというから、いまから約二百七十年くらい前ということになるだろうか。
 この二百七十年あまりという長い年月のあいだには、家も人と同じように病気にかかることがあり、かなり危機に瀕したこともあったのだろうが、幸運にして家業は栄え、明治維新の大変動のときにも、東西の大きな商家が将棋倒しのようにばたばたと倒れてしまった中で、三井は先祖の家訓を守り大名への金貸しを行わず、また同族の共存の主義を守っていたことや、本家が京都に住んでいたので率先して朝廷(注・つまり新政府)の御用をつとめたことで、維新後の羽振りが一段とよくなったのである。
 とくに総本家に三井高福という度量の大きな当主がおり、同族にも三井高喜という注意深く機敏な主人がおり、番頭のなかにも斎藤純蔵(注・「純造」の間違いであれば、前出の専蔵と同一人物か?)という老功者の下に、三野村利左衛門という腕利きの傑物がいて危機を乗り切ったので、財界における三井の評判はますます上がるばかりだった。三井は明治十五(1882)年に日本銀行が開設されるまでのあいだ、租税やその他、政府の一切の出納を取り扱っていたのである。
 明治六(1873)年に国立銀行の条例が発布されると、三井は第一銀行の大株主になり渋沢栄一子爵を頭取に推した。
 同九年には三井銀行を創立し、また物産会社をおこすなど、三野村の画策がすべてうまくいった。
 明治十(1877)年に彼が死去したので、養子の利助が利左衛門のあとを継ぎ、日本銀行の創立時には彼が同行の理事になったので、西邑乕四郎が利助のあとを継いで、明治十四年にいたるのである。
 しかし西邑は律儀すぎるきらいがあり、時勢の変化に対応する機知に欠けていた。三井銀行は多額の官金を預かっていたが、政府当局者の希望に応じて、商業とは無関係の情状貸しを余儀なくされることが起こっていた。また当時は民間に、そのような官金を健全に商業で運用する余地がなかったこともあり、政府から預かったものは返さなくてはならないのに、よそに貸したものをかんたんには取り戻せないという羽目におちいっていた。
 私が入行した明治二十四(1891)年ごろには、いわゆる官金中毒病がすでに骨の髄に達しており、銀行経営が危険な状態になりつつあった。
 この状況に気づきはじめた主人のほうは、維新後の三野村利左衛門との関係のために三井に好意的で、かつ財政上のもっとも有力者であった井上侯爵に依頼して、大事にいたる前に革新を実現しようとしていた。井上侯爵が私を三井に入れたのは、この革新の仕事に当たらせるためだったのである。


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 五十六
三井と井上の関係(上巻185頁)

 井上侯爵はひごろから、三井の興廃日本の財政に大きな影響を持つため、国家的見地から見ても三井の問題をないがしろにしてはならないと公言していた。
 明治の初年に、三井組が小野組、島田組と共同で政府の官金を預かっていたとき、小野と島田が危ないと見てとると、侯爵は三野村利左衛門に注意をうながし、早い段階で共同計算分を分離させ、小野島田の崩壊の影響が三井に及ばないように尽力した。
 その親切に、三野村らが厚く感謝したばかりでなく、三井の主人側にしても味方を得て頼もしく思い、侯爵こそがわが家の重大事の相談相手となる人物だと信じるようになったのである。
 明治二十二(1889)年ごろになり、三井が官金中毒病にかかり、当時の総理であった西邑乕四郎らではとてもその危機を収拾することができなくなった。三井物産会社には益田孝がいたが、当時は三井のほんの一部分を事業を引き受けていただけで、大元締の仕事つまり三井全体を率いる仕事をしていたのは事実上西邑だった。三井の主人の立場から見れば、この難局から逃れるためには井上侯爵に依頼するほかはなかったのであろう。
 山県公爵の前夫人の親戚の石川良平という長州出身者が、三井銀行の監事をつとめていてこの惨状を見ているにしのびず、これを山県公爵に訴えて助けを求めたのであるが、山県公爵は財政のことに詳しくないので、こういうことは世話好きで財政のことにも明るい井上に相談したほうがよいだろうと助言したにちがいない。それで石川が山県公爵の意見を主人たちに伝えたのだろう。
 それで主人たちもそれはもっともだと思い井上侯爵に家政改革を依頼したのであるが、侯爵はおいそれとは引き受けなかった。まず山県公爵をはじめとする政府の高官たちがそのことに賛成するのを見極めたうえで、井上侯爵ははじめてこれに応じるという用意周到なやり方をしたのである。


井上侯の三井改革案(上巻187頁)

 井上侯爵は世話好きの性分で、華族や実業大家の依頼を受けて、その家政を整理したことが何回もあった。代表的なところでは、旧主である毛利公爵家、九州の貝島家、大阪の鴻池家、東京の古河家、田中家がある。
 侯爵の整理案は非常に着実なもので、二宮尊徳流のものだといってもいいかもしれない。まず家憲を作って収支の分配の内規を設け、同族内の者はこれを遵守するものとするのである。
 侯爵は三井に対しても同様の方法をとろうとした。もちろん三井は商家であるから営業上の大改革が必要なのだが、なにしろ西邑乕四郎が全権を握っているので急に手出しをするわけにはいかない。やむをえず、まずは営業面はあとまわしにして家政改革に着手したのである。私が侯爵から三井の家憲制定に関する事務を命じられたのは、すなわちこの部分だった。
 三井の事業には銀行のほかに、鉱山、物産、工業、地所、呉服小売りなどの営業部門があり、そのほか多額の出資をしている会社も数多くあった。その営業損益は、そのときの経済事情によって変化するとともに、家政そのものにも影響を及ぼしていた。
 よって井上案は、三井同族の本体と、その営業部門とを切り離すというものであった。そうすれば、たとえば三井関係の、ある営業部門が失敗しても、その影響が三井同族の本体には及ばなくなる。
 しかしそのような理想的な方法が実際問題として行えるのかどうなのか。侯爵が私に調査せよと言ったのは、実はこの部分をみきわめることだったのである。
 私は、お雇い外国人の法律家で民法制定に功績のあったフランス人、ボアソナードを、そのころ神奈川高島台の貸し西洋館に住んでいたところに訪問し、井上侯爵からの紹介状を見せて来意を告げた。
 ところが、フランスではかつてそのような法規を見たことがないというのが答えだった。かつて、貴族の財産を保護するためにそれに似通った法律を設けたことがあったが、ずいぶん前に廃止されたとのことだった。
 ここではなんら収穫がなく井上侯爵に報告すると、かんたんにはあきらめず、では枢密院のお雇い外国人で商法制定の功労者であるドイツ人ロエスレル(原文「ロイスレル」)に当たってみようと言う。
 そこでまた私が使者に立ったが、今度はドイツ語なのでとうてい私の手には負えず、そのころ枢密院書記官だった本尾敬三郎氏がロエスレルの弟子にあたドイツ法律学者であったので、この人を介して井上侯爵からの質問の趣旨を伝えてもらった。
 さらに井上侯爵みずから面会したいということでロエスレルを井上邸に招き、私と本尾を含めて会見することになった。
 彼は、法律で一家族に特別の保護を与えることはできないが、ドイツの大貴族には、公的な法律ではないが、同族間で習慣的に効力を維持しうる財産管理規則があるから、それを調べて、なるべくご希望に沿うような回答をしようと約束してその日の会見を終えた。
 こうして井上侯爵はまず三井の家憲制定をいそぎ、もっぱらこちらに注力しようとしていたのであるが、そのとき、三井銀行に突然の大事件が降りかかり、家憲どころの騒ぎではなくなり、まずこの事件を解決しなければならなくなるのである。
 これが三井中興事業の発端となる事件で、私の三井銀行入行からわずかに四か月ばかりで私もこれに直面することになったのである。


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 五十七
転禍為福(上巻189頁)

 明治二十四(1891)年四月、読売新聞に当時の経済界の内幕をえぐる記事が掲載された。そのなかで、三井銀行では滞貨が山積みで内状は危機に瀕している、また第一銀行も同様であると論評された。
 また、東京朝日新聞の前身でそのころ本社が京橋区新肴町にあった、末広重恭氏が主筆の国会新聞の、経済担当記者であった桜井駿(のち森本と改姓)が、「現今経済社会の変調」という論説で、おなじく三井、第一の窮迫を論じた。(注・記事掲載は1891年7月3日から7日)
 一犬虚に吠えて万犬実を伝えた(注・ひとりがいいかげんなことを言ったのを、おおぜいが真実として伝えること)というだけではなく、じっさい少なからず事実を含んでいたので、ほかの新聞も争うようにこれを取り上げ声を大にして騒ぎ始めたので、三井、第一は非常にあわてた。
 当時三井銀行は全国二十二支店から集めた官金を、東京支店から東本願寺に百万円、三十三銀行に七十五万円貸し出している事実があった。そのほか軍人や官吏を相手に、地所を抵当にした貸付が膨大が額にのぼっていた。
 第一銀行でも、渋沢喜作氏に七十万円、浅野総一郎氏に数十万円の、回収困難な貸しがあった。
 ここで取りつけ騒ぎが起これば事態は深刻なので、三井でも第一でも対策に追われ懸念するなか、京都三井銀行で、とつぜん取りつけ騒ぎが起きてしまった。
(注・7月6日にはじまり、9日に収束)

 とうとう日本銀行総裁の川田小一郎氏に嘆願し、取りつけ騒ぎがおさまるまで同行に援助してもらうことになった。これで当面は切り抜けることができたが、一日もはやくこの噂を根絶しなければという焦りは大きく、私は新聞記者出身であり、また四か月前に入行したてであったから、いまこそ本領発揮して手柄をたてなければいけないと思い、西邑に相談のうえ新聞各社とかけあい、首尾よく諒解にこぎつけるまで奔走した。
 これで三井に対する新聞の攻撃は下火になったものの、第一のほうに火の手が盛んにあがってきた。そのため、第一銀行の行員のなかには、三井ばかりがいい子になるのはけしからんと不満を述べる者もいたが、渋沢子爵がこれをおさえているうちに、ひどかった騒ぎもやっと鎮まり、第一のほうはどうであったかわからないが、三井のダメージはあんがい軽く、京都支店でわずかに二十万円前後の取りつけが起きたに過ぎなかった。(注・高橋が奔走を始めたのは、冒頭の読売の4月の記事が出たあとの、入行から4か月後の5月ごろであったと思われる。本文では「新聞方面に奔走して首尾よく諒解を遂げた」とあるが、実際には、それにもかかわらず7月に国会新聞の記事が書かれ、取りつけ騒ぎが起きてしまったのである。しかし、第一銀行に比べれば、ダメージは小さかった。なお、中上川彦三郎の三井入行は、同年8月である)
 しかしながら、この取りつけ騒ぎがきっかけとなり、禍が転じて福となった三井家は、どこまでも幸運な家である。

 

三池炭鉱(上巻191頁)

 三井が明治二十一(1888)年に政府から三池炭鉱の払い下げを受けたことは、同家の中興事業のなかでももっとも重要なものである。
 明治九(1876)年に益田孝のち男爵氏が三井物産会社を創立したときは、日本から海外に輸出する品物が少なく、印刷局の製紙をアメリカに輸出したり、三池炭鉱の石炭を香港のバターフィールド=スワイヤー商会やジャーディン=マセソン商会に売り込むくらいが関の山で、おおいに苦心していた。
 ところが明治二十一(1888)年になり、政府が三池炭鉱を民間に払い下げることになった。益田孝らの驚きはすさまじく、もしこれを三菱やそのほかの者の手に奪われることになったら物産会社の重要な輸出品を失うことになるので、なにがあっても三井が落札しなければばらないと思った。
 そのときの大蔵大臣は
松方正義公爵であった。政府のなかで、炭鉱払い下げが議題になったとき、公爵は内心それに反対であったため予定価格を四百万円として内閣会議に提示した。列席の大臣たちはひじょうに驚き、あの炭鉱にそんな高額の入札をする者がいるわけがないと言ったが、松方公爵は、ならば拙者が必ずその相手を見つけてみせようと猛々しく言い放った。

 その発表が行われたあと、公爵は三井銀行の西邑乕四郎と日本銀行の三野村利助を三田の私邸に招き、三池炭鉱が非常に有望であることを説明し三井に入札するよう説諭したそうだが、この話は私が松方公爵から直接いたことである。その日は、夕方から夜中の二時ごろまで協議を重ねたということであった。
 この入札では虚々実々のかけひきが繰り広げられた。三井も三菱もその他の入札者も、それぞれ代表者の名で入札を行った。それは明治二十一(1888)年八月のことで、この開札が行われるまで、益田男爵らは心配のあまり連夜一睡もできないほどだった。
 開札の結果は、三井の代表者である佐々木八郎が4555000円、ある大手筋の代表者である川崎善三郎が4552500円で、その差はわずか二千五百円で三井に落札したのであった。これは実に三井家にとっての幸運であったといえよう。(注・川崎善三郎は、川崎儀三郎が正しい。「ある大手筋」とは、もちろん三菱のことで、じっさいの入札額は、4552700円であった。)
 即金百万円、残額は十五年の分割払いで、明治二十二(1889)年一月に引継ぎをすませ、当時まで炭鉱の技師長だった団琢磨のち男爵氏が、炭鉱とともに三井の人となった。 

 当時の四百五十万円は、今日の四千五百万円にも匹敵する巨額である。三井がそれを大胆にも引き受けたのは、三井中興の土台が必要だったからであった。そのためにこの入札には、益田男爵の大英断があったのだが、この落札によって炭鉱とともに三井にはいった団男爵がその後炭鉱の経営にあたり、開坑、築港を完成させ、それを三井の宝庫にしていったのであるから、それはどこまでも三井家の幸運であったと言わざるをえない。


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五十八  三井中興の第一歩(上巻193頁)

 三井銀行に取りつけ騒ぎが起きたあと、井上馨侯爵は、かねてより計画していた三井の改革案を実行するためにこの機会を利用し、麹町区土手三番町の三井八郎右衛門(注・高朗)男爵邸に三井同族、同重役その他の関係者をよんで、五月下旬か六月初旬ごろに大会議を開いた。(注・実際に京都支店で取りつけ騒ぎが起きたのは、明治247月なので、5、6月はまだ、新聞などで悪い風評が強まりつつある段階であった。本文では、そうした風評を含めて「取りつけ騒ぎ」と称していると思われる)
 井上侯爵は、三井家主人の依頼で三井家革新の任を引き受けてはいたが、三井銀行には西邑乕四郎氏が総長代理として席を占めており、井上侯爵も彼らの営業方針がすでに時代遅れであることがわかってはいても、これを抜本的に改革する必要があるということを口にする機会に恵まれていなかった。またかりに口にしたとしても、彼らがそれぞれの立場から反対してくるだろうと考え安易にはここに手を出さず、まず家憲の制定を先決問題にして好機到来を待っていたのであろう。
 今回の取りつけ騒ぎは現在の銀行幹部の大失態であり、西邑らは主人にたいして申し訳の立たないことをしたわけだから、ここで機敏な井上侯爵が好機を見逃すわけはなく、とうとう善後策の会議を開くことになったのである。

 さて、侯爵はこの会議に臨むにあたり、三井の改革実行者として、当時山陽鉄道会社の社長であった中上川彦次郎氏を推薦するという腹案をもっていた。中上川氏は明治九(1876)年ごろ井上侯爵とイギリスのロンドンで知り合い、侯爵が明治十一(1878)年に外務卿になったとき中上川氏を権大書記官公信局長に抜擢した。これはもちろん中上川氏の手腕を信頼したからであったが、同時に彼の叔父である福澤諭吉が背後にいるということも忘れてはいなかったであろう。
 その中上川氏は、当時大阪地方の山陽鉄道会社の大株主たちとのあいだに意見の不一致があり不愉快な立場におちいっていたので、井上侯爵は藤田伝三郎男爵と相談し、中上川氏を三井で採用することにしたのである。そして、そのことを三井の大会議で提案することにしたのであった。
 会議には、三井同族の最年長者である高喜氏をはじめ、高朗、高辰、高生、八郎次郎(注・高弘)、高保、三郎助(注・高景)、八郎右衛門(注・当時の八郎右衛門は上記の9代高朗だが、ここでは10代高棟をさしていると思われる)の諸氏と、同家の元老および関係者である渋沢栄一、三野村利助、益田孝、今井友五郎、石川良平、中井三平らが出席し、私もむろん末席に連らなった。
 井上侯爵は三井銀行重役にたいし、つとめておだやかな面持ちをくずさず、せんだっての取りつけ騒ぎのときにはさぞや心配されたと思うがさいわい大事にいたらずに済んでまことによかったと述べたあと、つぎのような提案を行った。
 「自分が明治のはじめから折にふれて三井家からの相談に乗ってきたのは、個人的な交際理由があってそうしたわけではない。三井の興廃が、日本の財政に影響を及ぼす問題であるということを考えてのことであった。現在、時勢が大きく変化し、ほかの銀行でも高等教育を受けた人たちを採用するようになっているのだから、三井でも昔からのやり方を守るばかりではいけないはずだ。そこで、まず高橋を入行させたが、三井のような大きな家の改革をするには、一人や二人の力ではとても無理だと思っていたところ、さいわいに山陽鉄道社長の中上川彦次郎が入社を承諾してくれたので、採用して今後の改革に当たらせたいと思っている。みなさんはどう思われるか。」
 これには当然ながら、西邑氏も異議を唱えることはできなかった。主人側もまた、非常によいではないかと賛成したので、中上川の入社が決定した。
 このとき私は、三井銀行に入社以来五か月にわたって調査した結果から、銀行の内部に整理係という一部門を設置することを提案した。その理由としては、現在の三井銀行のかかえる問題の病原が、全国各地にある支店で国庫の出納金を預かりながら、それを中央に集めて不良貸しを行っていることにあるから、病原を除去するためには、まずこの不良の貸金を回収することと、北海道にまでも増設のおよんでいる支店、出張所を撤廃して、現在見られるような重役による干渉を受けない新部門を置くことが必要なのである。そのために、貸金整理係を設置することが必要だとと述べ、これに関する十二条の規則を提案した。
 これに対し、西邑氏はだいたいにおいて同意したものの、現在の三井銀行の貸金は官金取り扱いと密接な関係があるので、そのような事情を考慮しないでむやみに新しいやり方を強要されるのは困る、特殊な事情がある場合には大元締の協議を経てから、という一項をつけくわえてほしい、と言い出した。
 そのとき渋沢子爵が私に加担し、そのような一項を設けてしまうと整理係が思うように働くことができないと反論したので、ここで押し問答が繰り返されたが、西邑氏が、万一の場合のためにこの一項を残すのであり、整理係に干渉するようなことは決してしないと誓ったので、ここは西邑氏の顔を立て、とにかく整理係を設置することが決まりこの日の会議が終結したのである。
 これが明治二十四(1891)年の恐慌に次いで起こった銀行改革で、三井中興の第一歩はこの会議より踏み出されることになった。



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  五十九
実業生活の首途(上巻196頁)

 前述のように、私は明治二十四(1891)年一月から、役名はなかったが客分の資格で三井銀行にはいり、それまでの半人前の生活を終えて実業生活にはいった。そこで、家庭を構えるために妻帯の必要を感じ、四月二十四日に山口県人の長谷川方省次女の千代子と結婚した。これはまったく私事であるけれども、当時の私の生活状態がどのようなものであったかを次に少し記しておきたい。
 私は明治十四(1881)年に東京に出てきてから、このとき早十年になっていた。それまで実家から金の仕送りを受けたことがなく、友人から金を借りたこともなく、借金というものは私にとっては絶対に禁物だった。
 慶應義塾に在学のときは福澤先生から毎月七円五十銭を与えられ、約一年で卒業したあとは時事新報にはいり、最初の月給は十円、その後次第に昇進し、明治二十(1887)年に退社したときには、社員の中で最高給の百円くらいの月給をもらっていた。
 洋行時の前半は下村善右衛門氏から出資を受け、後半は旧藩主の徳川篤敬公爵からの臨時借用で間に合わせ、明治二十二(1889)年の帰国から三井にはいるまでの二年間は、前半は時事新報の社説執筆料で、後半は横浜貿易新聞の監修料で、生計には特に困るほどのこともなかった。
 三井銀行では百五十円を給与される内約であったので、築地三丁目に家賃二十五円の家を借り簡単な婚礼を済ませ、自宅で披露宴を行った。
 そのときに床の間にかけたのは、当時の都新聞社長で私の親友だった稲茂登長三郎氏から、偽筆と知りながら借りてきた松村景文筆の松に鶴の掛物で、その前には銀座の縁日で買ってきた万年青(注・おもと。葉を観賞する)の盆栽を一鉢飾って平気の平左衛門、そこに隣家の池田謙三夫妻や三井関係の実業家を招待したという、無頓着もいいところだった。
 後年、茶事を学んだり、美術品をひねくりまわすようになり、結婚当時のことを顧みて、その大胆さにわれながらあきれ果てたものだ。池田夫妻らとも、このことを話して毎度大笑いになるのであった。
 さて結婚したのは私が三十一歳、千代子が十九歳のときだった。千代子の父、長谷川方省は漢詩を作るのがうまく、同県人の杉孫七郎子爵、遠藤謹介、福原周峯などと親友のあいだがらだった。
小心翼々たる君子人(注・つつしみぶかい聖人君主)で、遠藤氏が造幣局長だったときに次長を勤め、小崎利準(注・原文では「尾崎」)氏が岐阜県知事だったときに書記官をつとめたという人で、明治二十二、三(188990)年ころには官を退き東京の飯田橋に住んでいた。これまた同県人で三井物産会社の重役だった木村正幹氏の仲介で婚約を結び、初代大審院長の玉乃世履の長女を妻としていた医師の片桐氏が媒酌人となってくれた。

 こうして千代子は十八年間私と生活をともにしたが、明治四十一(1908)年の冬に三十九歳で死去することになる。妻については、またのちに記すことにさせていただきたい。


最初の茶室入り(上巻198頁)

 私は明治二十五(1892)年十二月下旬のある日、益田克徳号を非黙、または無為庵氏に招かれて、生まれて初めての茶室入りをした。 
 東京では維新のあと一時期茶の湯が衰退し、どこにも茶煙があがるところはなく、名物といわれるような茶碗が二束三文で売買される状態だったが、西南戦争のあと社会の秩序もようやく落ち着き、明治十三(1880)年ごろからぽつぽつ茶人が頭をもたげるようになってきた。
 そのなかで益田克徳氏は、侘茶の数寄者で、その人間全体が非常に茶人向きにできていたので、兄の益田孝号、鈍翁男爵や弟の英作号、紅艶氏よりも数年はやく茶道にはいり、紳士の茶人の先輩として馬越恭平、加藤正義、近藤廉平らを感化するなど、大勢の友人を茶事に親しませたという功績を持っている。明治二十五(1892)ごろは、上根岸の、庭に老松のある邸宅の母屋につなげて建てられた、無為庵という茶室を持っていた。
 その田舎家風の休憩茶室で歳暮茶会が開かれた。牛小屋のように天井を見せた茅葺きの室内の壁床(注・床板、落し掛けのない床の間)に、張即之筆鬼の大文字と、福の一字を織り込んだ唐織裂とを継ぎ合わせた一軸を掛け、大炉には、煤竹(すすだけ)の自在鉤に大きな手取釜を釣ってある。五客には、それぞれ素焼きの焜炉(こんろ)を配り、青竹籠に、つごもり蕎麦と鴨の切り身を盛り合わせ、自分で調理していただくという趣向だった。
 この日の正客は加藤正義氏で、そのころ葭町あたりに太郎という名のひいきの芸者がいたのを克徳氏がいつのまにか察知して、さりげなくぎゃふんと言わせるつもりか、最近大阪で手に入れたノンコウ(注・楽家三代目、道入)作の茶碗で、銘を太郎というものを使ったので、正客は驚くは喜ぶはで、最後には大笑いとなった。
 克徳氏はつかみどころがないふわふわした客あしらいがうまく、いかにも無邪気で愛嬌に富む性格で、このようないたずらっぽさのある歳暮茶事に初めて出合った私は、すでに心の中にきざしていた茶の湯への好奇心の火に、一気に油を注がれたようなものだった。この夕べをきっかけにして、私は生涯茶煙に巻きこまれることになったのである。



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 六十
明良遭遇(上巻200頁)(注・明良=名君と良臣のこと。書経から)

 明治二十四(1891)年は三井中興の発端で、同年十一月には三井銀行副長の西邑乕四郎氏が例の取りつけ騒ぎに恐縮して内閣首脳陣(注・三井大元方のことをさす)の更迭を承認した。
 西邑氏はもともと三井八郎次郎(注・三井南家)男爵家の家職(注・執事)の出身で、どこかの大藩の家老とでもいうような上品さと誠実さを兼ね備えた人だった。もし主人にあやまちがあれば身を挺してこれをいさめ、まかりまちがえば切腹さえもしかねない実直な人だった。私腹を肥やし権力を握ろうなどという非道な考えはなかったのである。
 だから今回中上川氏が自分に替わることになっても特別不満を述べるということはなかったが、井上侯爵は若干の手加減を加え、三井銀行総長である高喜氏のかわりに高保男爵を推し、中上川氏を副長にするとともに西邑氏にも副長の名を残し、また今井友五郎、藤専蔵をいままでどおりに元締に残して第一次三井内閣を組織することになった。急激な改革を避け次の人事改革を待つなど、このくらいのところで止めたのである。

 しかし結局のところ首脳となったのは、主人側では髙保男爵、重役側では中上川氏で、この両人による鋭意改革が断行されることになった。
 当時を思い出してみると、それまでどおりであればもっとも聡明な高保男爵を総長のような重要な地位につけることは、三井のような長年にわたり年齢順に地位を定める家族制度を守ってきた家においてはとうてい不可能だっただろうと思うので、それをなしとげて高保男爵と中戸川氏のふたりを組み合わせたというのは、まったく井上侯爵の力であった。
 このとき中上川氏は三十八歳の働き盛り高保男爵は四十二歳で、すこし前(注・明治20年)に益田孝男爵とヨーロッパ諸国をめぐり大きな決意を抱いて帰国されたばかりのときだった。このふたりが舞台上に上ってきたというのは、渠成りて水至る(注・溝ができると自然に水が流れてくることから、ものごとには順序があるということ)の勢いで、まさに適材適所であった。三井家の下降していた運はこのとき底を打ち、これから先は大きく反転する時期であったわけだ。


中上川の手腕(上巻201頁)

 中上川彦次郎氏は、明治二十四(1891)年八月に三井銀行にはいり、同年十二月に副長になるまで、飛び立つ前の鳥がまずは羽根をおさめるかのように、もっぱら三井の研究につとめた。(注・実際の役員改選がおこなわれたのは、明治25年2月?)
 十二月に副長に任命されると、翌年の一月から部署を決めるなど各方面の改革に着手した。この改革について、ここでくわしく論じることはできないので、主だったものだけをいくつか挙げることにする。

  一、学生を採用すること
  一、行員の給料を増額すること
  一、不良債権を整理すること
  一、官金取り扱いを辞退すること
  一、鐘淵紡績会社、王子製紙会社、製糸工場などを積極的に経営すること
  一、三井営業店を統一すること
  一、三井合同営業所を建設すること
  一、北海道炭鉱その他、同地の事業経営のこと

などで、中上川氏が二十四年に三井にはいってから三十四(1901)年に死去するまでの在職中に実現した改革の案をあげてみた。このなかには初めからすぐに実行したものもあれば、徐々に着手して数年以上かかったものもある。
 彼は三十八歳から四十八歳の壮年期のもっとも気力精力が充実している時期に、ときにははたから見ていてはらはらするくらいにかなり過激に前進し続けた。
 たとえば人間の採用については、従来の人材のなかでまだ役立つ者のほかは慶應義塾出身者をどしどし採用した。朝吹英二、藤山雷太、和田豊次、武藤山治、林健、矢田績、鈴木梅四郎、波多野承五郎、小野友次郎、金井又二、藤原銀次郎、日比翁助らはいずれも当時採用された。
 また採用するばかりでなく、藤山雷太氏を自分の夫人の妹と結婚させたり、のちに三井銀行取締役として重要な位置に立つ池田成彬氏に長女を嫁がせたりした。これは、部下に一心同体の人物を集めておくことが、ひいては自分が奉公する三井にとっての利益になるという考えによるもので、世間のうわさや評判を気にかけない中上川氏一流の見識だった。
 行員の給料を増額したのは、当時の三井のような家では、使用人に生活できるかできないかの少額の月給を与えるかわりに裏でさまざまの抜け道があったことを改正したものである。思い切って給料を上げるかわりに風紀を非常に厳粛にとりしまるという、非常に効果的な方法だった。
 また、三井が大株主でいつも資金を供給していた鐘淵紡績会社、王子製紙会社などを完全に三井銀行の管理下に移したことも彼のふるった辣腕のひとつである。
 王子製紙会社を、渋沢の配下だった大川(注・渋沢の甥にあたる大川平三郎)から取り上げ三井の配下にある藤山の手中に移したときには、大川と藤山のあいだに大きな衝突が起こり劇的な一場のシーンとなった。
 あまりにもきびきびと改革を進めることに対しては賞賛と悪口が相半ばした。後年、中上川攻撃が続出したときは、井上侯爵も反感に同調して攻撃の度合いが増したこともある。しかし、三井中興の基礎をわずかに数年間のうちに築き上げたその手腕はおおいに認めなくてはならないと思う。


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