だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 41‐50

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  四十一
福澤先生の勧告(上巻132頁)

  私が明治二十(1887)年十月に渡米しまだ一年足らずのうちに、日本における私のスポンサーであった下村氏が生糸相場で失敗し、私に調査させていた生糸直輸出の実現がかなわなくなってしまった。そして、非常に気の毒なのだがこの手紙を読んだら帰国してほしい、という知らせがきた。
 さてこの事情を下村氏が福澤先生に話したとみえ、この手紙と同時に先生からも親切きわまりない長文の手紙が届いた。下村氏は財政的に行き詰ってしまい君の滞米費用をまかなうことができなくなってしまったのだから、この辺で外遊を打ち切り帰国し、前のように時事新報の記者に戻らないか、自分の見る限り君は実業家になるよりも、すでに何年かのあいだに習熟している新聞記者として世に立つほうが労力少なく効果が大きいと思う、もしあと半年くらいアメリカ滞在を希望するなら時事新報から通信費として若干の資金を送ってもよい、という勧告をしてくださっていた。

 私はもともと、時事新報の新聞記者になるという約束で福澤先生の補助で慶應義塾を卒業した。その後すぐに時事新報にはいり、足かけ六年の記者見習いをし、言ってみればようやくひとり立ちできる地点に立ったところだったのに、そこで福澤先生の保護のもとを飛び出してしまったので非常に心苦しく思っていた。

 だから本当ならばここで福澤先生の勧告に従うのが順当であったのだが、ふたたび文章書きの仕事に戻ることがなによりも苦痛だったので、私は先生のお気持ちは非常にありがたかったが、結局この勧告を辞退することにした。そのときの返事の最後に、次の一首を書き添えた。

   米国遊学中奉呈福澤先生
     師恩猶未報涓埃 忽接親書暗涙催 誰識天涯連夜夢 音容髣髴眼前来
    (注・涓=少し)

  さて下村氏の送金が絶え福澤先生の援助も断ったからは、なんとかしてこれからの海外滞在費をこしらえなければならない。いろいろ考えぬいた末に、当時全権公使としてイタリアに駐在中だった旧水戸藩主の徳川篤敬(注・あつよし)侯爵に手紙を送り援助を請うてみた。すると侯爵はすぐに快諾してくださったので私は喜びで天にも昇るような気持ちだった。

  こうなったうえは、日本とは非常に国情が違うアメリカに滞在するよりも一般的な商業視察を目的にしてヨーロッパに行き、イギリスを中心とした諸国を歴訪することにしようと決心した。
 

  して同じ年の四月末にニューヨークから七千トンのアンブリヤ号に乗りイギリスのリバプールに入港したのは、ロンドンシーズン(注・イギリス社交界のメンバーが夏のあいだ地方の本宅からロンドンのタウンハウスに集まる時期)の始まる五月一日のことだった。

  

倫敦(注・ロンドン)シーズン(上巻134頁)

  私がアメリカからリバプールを経てロンドンに到着したのは五月初旬のことだった。いたるところにある公園ではチューリップ、バタカップ、オールフラワーなどが咲き誇り、ロンドンのもっとも行楽に適した時期だった。
 ここのリージェント・パークの近所に自宅のあるサーン(注・原文ではセルン。
未詳)という学者が、アイルランド人の著名な文学者の某女史の娘と結婚してテムズ川上流にある別荘に住んでおり、そのころロンドンに遊学中だった金港堂の原亮三郎氏の長男の亮一郎がこの人について英語の勉強していたのを幸いに、私も彼といっしょにその別荘にしばらく滞在させてもらうことになった。

 テムズ川の上流は両岸にお金持ちの別荘が立ち並び、柳の下にはハウスボートという、日本の屋形船を何倍か大きくして内部に寝室や料理場までも備えてある美しい遊覧船がつながれている。別荘に住む家族は、この船で川を上下し、時々場所を変えて気分転換するという趣向である。別荘とこの遊覧船との往復には、一人乗りのカヌー(原文「カヌン」)という小さなボートの船尾に座り二本のオールで操縦する。

 私も毎日亮一郎君と、このカヌーでサーン家のハウスボートへ行ったりきたりしたが、河岸の平原は例の草花の咲き乱れるあいだに牛や羊の群れや遠くの教会の塔などが見渡せ、その風景はじつに絵画的なものだった。

 私はイギリスに到着そうそう、この光景をおもしろく文章にして福澤先生に送ったところ、先生はさっそくこれを時事新報に掲載し、これからの外国滞在中、時事新報記者として通信してほしい、といって若干の通信料をくださった。私はかさねがさねの恩恵に感謝し、それから二年間不自由なくイギリスに滞在することができたのである。これはほんとうに願ってもないしあわせだった。
 


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   四十二
名誉領事ボウズ(原文「ボース」)(上巻136頁)
  
 
私は二か月ばかりのロンドン滞在ののち、ロンドンで知り合いになった河上謹一氏の紹介で、リバプールの羊毛商で日本名誉領事でもあったジェームズ・ロード・ボウズ(注・James Lord  Bowes1834-1899氏からの招待を受けた。

 ボウズ氏は大の日本好きで、日本人といえばよろこんで優待する人だった。当時五十五、六歳で、美しい夫人とのあいだに一男三女があった。リバプールのプリンセス・ロードというところに広大な邸宅を構え、バックガーデンに私立の日本美術館を作り、日本の七宝や陶器に関する大部の著作を持つ人だった。
 ボウズ氏が日本好きになったきっかけは、氏が語るところによると次にようになる。

 ナポレオン三世時代に開催されたパリ万博(注・1867年)で日本がはじめて古い時代の器物を出品したとき、三代将軍が所持したという幸阿弥作の蒔絵書棚を購入したが、その意匠の優美さに、このような名器を製作する日本の文化というもの非常に高尚にちがいないと思い、この蒔絵の棚を通じて日本人に親愛の情を持ったのだそうだ。当時の日本は極東の小さな島で、中国の属国であるとか、どんな野蛮人が住んでいるやら、などと言われ、イギリス人でこれを気にかける人はほとんどなかったのに、ボウズ氏は大きな敬愛の情を持たれたのだそうだ。

 私はこの話をきき、精神のこもっている美術品というものが、いかに未知の外国人を感動させたかということに思いいたり、このときから美術に興味を持ったのである。

 リバプールに前後二回にわたり数か月滞在するあいだ、私はボウズ氏の日本美術論の執筆の手伝いなどをし、その間にだんだん日本美術に興味を覚えるようになっていった。私がのちに美術の鑑賞家となったその芽生えは、実にこのリバプール滞在中に起きたことなのだ。だからボウズ氏がその友人に対して、この人は日本美術における私の弟子なのですと冗談交じりに言われたことは、事実その通りなのである。

 

折鶴の紋(上巻137頁)

 私が現在、家紋に折鶴を用いているのは、イギリスリバプール滞在中に起きたあるできごとから来ている。もとの高橋の定紋は、竹の笠で、二十四孝の話から思いついたものなのか、五枚の笹の下に笠があるというかなり複雑な構図だった
 さて折鶴のことである。明治二十一(1888)年十一月の天長節に、リバプールの日本名誉領事のボウズ氏がプリンセス・ロードの自邸において、天長節を祝賀するための盛大な舞踏会を開き、リバプール市内の名の知れた紳士淑女が何百人とやってきた。私も、ちょうどボウズ氏の客として滞在中だったので、この天長節夜会では主人を助けておおいに働かねばならないと思い、いろいろ考えた末に、岐阜提灯を各部屋の天井から何十個もつるし、色紙を使って自分で折鶴を折り、この提灯の底に結びつけてみた。

 するとこれが来客の間で非常に好評で、ある貴婦人などはボウズ氏に頼み込んでこの折鶴を持ち帰られたそうで、翌日の各新聞でそのことが取り上げられた。またボウズ夫妻もとてもほめてくださったものだから、私はこのことを記念するために、このときから紋を折鶴に改めたのである。

 ボウズ氏は羊毛問屋で市内に商店を構えアメリカ人相手に手広く商売をしていた。その商売において、イギリス人がいかに正直で懇切丁寧であるか、また取引先の便利になるように考えたり、荷物の倉庫代などにいささかのぬかりもない用意周到な姿勢を見せており、わたしは非常に敬服したものだ。

 ボウズ氏はみずから、私をリバプール市内の商業機関に案内し、説明をしてくれた。株式取引所、商業会議所、船舶ドック会社などの組織についても、私の研究のために多大な便宜をはかってくださり、その親切を忘れることは許されない。そのようなことから、私はボウズ家に滞在した記念として、ながくこの折鶴を定紋にすることにしたのである。


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四十三  外遊中の知人(上巻139頁)

 明治二十二(1889)年ごろは、洋行するということが人に金箔をつける時代だった。そのうえまだ議会が開設される間のことで、国の費用で洋行をする官吏も多く、工業がそろそろ勃興する機運にむかっていたので各種工場を視察するために海外に行く人が非常に多かった。だから海外に滞在しているあいだに祖国の人に出会い、その後もながく知人としてつきあうことになった人も少なくない。
 わたしが在英中に出会った人たちのことを話そう。

 明治二十一(1888)年の何月だったろうか、ロンドンのハイベリーパークのある下宿屋に、石黒忠悳のち子爵】氏が森林太郎【鴎外】氏とともにドイツから帰国するついでに来泊したことがあった。私は数日間このふたりをロンドン見物に案内し、石黒氏はとても喜んで、これはいつまでも恩に着るよ、と言われたものだ。また森氏がのちに日本にドイツ文学を紹介するようになる大家であるとも知らずに、私の当時のなまかじりの文学論をぶったりしたのは、われながら無鉄砲なことだった。その後、森氏に会うたびに当時のことを笑い話にしたものだ。
 また、この下宿では尾崎行雄氏とも同宿したのであるが、尾崎氏は明治二十一(1888)年末に、例の保安条例(注・自由民権運動の弾圧を目的とする法律。施行は1887年末だが、ここでは渡英が1888年末ということか?)で追放されたのを機会に渡英され、政治研究に専心するということで議会の傍聴などに出かけていた。
 ところで、明治二十年の紀元節(注・211日)に森(注・有礼)文部大臣が暗殺されたという電報での知らせがロンドンの新聞に発表されたとき、尾崎氏は私にむかい、最近は日本があまりに西洋化し過ぎて国粋(注・その国に固有のよいところ)を忘れる傾向があるので、犠牲者には気の毒だが、これは世のひとびとに警鐘を鳴らし目をさまさせる効果があるかもしれないと言われたこのような場合において、尾崎氏が持たれている見識知ったのだった。
 島田三郎氏ともしばらく同居した。政治家として外遊している人たちにとって、日本で名の知られているその国の有名政治家のだれそれに面会したということが手柄になる。ある朝島田氏が、今夕イギリスの大政治家名前は忘れたに招待を受け、同家の晩餐会に出席することになっている、と言って意気揚々と出かけた。ところが、その日、私が外出してチェアリング・クロスのあたりをオムニバス二階つきの乗合馬車に乗って通過中、むこうから来たオムニバスに島田氏が乗っていたので、お互い「やあ」と声をかけあったが、島田氏はいかにもきまり悪そうで、翌朝の朝飯のテーブルで会ってもその話をすることはなく、その後もそのまま無言のうちに葬り去ることになってしまったという奇談である。
 マンチェスター視察中には、仙石貢、末広重恭の両氏に出会った。そのとき仙石氏とは一日連れ立ち、そのころマンチェスターとリバプールを結ぶための運河を開削する工事中だったのを視察したことを覚えている。
 スコットランドのグラスゴーを訪問したときには、真野文二、田中館愛橘、須田利信の三氏が滞在中だったので、約一週間ほどのあいだに何度か会って同地の事情を聴くことができた。
 また明治二十二(1889)年春に私がハムステッド・ヒル(注・ハムステッド・ヒースのことか?原文「ハンプステッド・ヒル」)というところに下宿していたときには末広重恭氏と同居だった。氏は朝野新聞の主筆として名声があり、大石正巳、馬場辰猪と三人で当時の政治論壇の三人男の観を呈していた。またわが国の小説の黎明期に「雪中梅」、「花間鶯」という政治小説を創作し文壇を騒がしたこともあった。その末広氏が、当時五十何歳かだったのにロンドンに来て下宿屋に閉じこもり、その家の娘に英語を習っていたのもおかしかった。
 あるときテムズ川の上流で舟遊びをしようといってふたりで出かけたことがあった。場所は忘れてしまったが、キューガーデンという帝室付属公園のあるあたりで、河岸には立派な別荘がたちならび、年ごろの令嬢たちが短いボートを操りながら柳の蔭をいったりきたりする間を、おもしろいガチョウが泳いでいるという景色は絵画でさえも及ばないほどの美しさだった。このとき末広氏は即席の七言絶句を二首作ってわたしに見せてくれた。その一首は、

   綺窓粉壁幾多楼 光彩射金碧流 一笑女郎能水 雪如繊手盪蘭舟


というものだった。
 末広氏は話好きで、夕飯のあとにはストーブの前で夜遅くまでいろいろな話をしたものだが、その多くは詩文に関する話だった。あるときは成島柳北についてこんなことを言った。

 彼にはあまり学問はないが天才肌で、詩が非常に得意だった、でも時々失敗することもあり、彼の外遊中の詩である「過落機山(注・落機山=ロッキー山脈)」の中に、

   怪獣有聲人不語 鉄輪軋上落機山

という部分があるけれども、これは仙台の斎藤竹山の「過鳴門詩」の、

   風力満帆人不語 一竿落日過鳴門

のひょうせつで、しかも出来に雲泥の差がある、汽車が轟音をたてて走るのを、怪獣有聲などと描写するとは、まったくなっていないではないか、アハハ…と大笑いしていた。

 
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 十四 外国名優の印象(上巻142頁)

  私はアメリカ滞在中は生糸直輸出の調査と都市の商業機関の研究に専念しほかのことに目を向けるひまがなかったが、イギリスに渡ってからは商業のことだけではなく、政治、社会、風俗にも目を向け、貪欲にそれらを吸収しようとつとめた。特に演劇にはもっとも興味を持ち、ロンドンはもちろんのこと、リバプール、グラスゴー、エジンバラなどいたるところで劇場に行った。
 当時のイギリスにはンリー・アーヴィングという名優がいた。芸術のためにナイトの称号を得た(注・アーヴィングがナイトに叙されたのは1895年。原文では男爵となっているが誤り)ほどで、その芸風がわが国の市川十郎に似ていたので、私は彼の演技をよく見て帰国後の土産話にしようと思い、滞在中にはアーヴィングの芝居は全部見た。
 アーヴィングの相棒にはエレン・テリーという大女優がおり、演技のうまさではもしかしたらアーヴィング以上であったかもしれない。
 このふたりはロンドンのライシャム劇場(注・ Lyceum Theatre)に出演していたが、わたしが観劇したのはシェークスピアのハムレット、ヴェニスの商人、マクベスや、ゲーテのファウストや、そのほか題名は忘れたが泥棒が仮装し宮殿の舞踏会にはいりこみ、賓客の身に着けていた宝石類を手あたり次第盗み取るという内容の芝居などであった。

 アーヴィングは、やせて骨ばっていて背が高かった。「ハムレット」でのハムレット役では背が高すぎてあまりさまにならなかったが、ヴェニスの商人のシャイロックやマクベスなどは適役で、眉間に八の字のしわを寄せて険悪な顔になると、鬼気迫るようなすごみを感じさせた。 
 彼は所作がすぐれているだけでなく英語のせりふが非常に洗練されていて、それが上流社会の好評を得る理由なのだそうだ。それに相当の学識もあり、ひごろから文学上の研究を積んでいるため、人格的にはっきり他から抜きん出ていたそうである。
 エレン・テリーは涼しげ(原文「薄手の」)な、いかにも気の利いた風貌で、マクベス夫人やポーシャなどに扮すると表情豊かでうまく、せりふもはっきりして、かつすがすがしく、当時私が見た外国女優のなかで彼女ほど魅力的だった人はいなかったと思う。その後フランスでサラ・ベルナールのトスカなどを観たが、サラは虎を飼っていたというくらいで気性の強い女性で、目が特徴的に鋭く、トスカがスカッピアを殺す場面などでは、そのすごみで観客を圧倒し息もつけないような緊張感を生み出した。しかしそれだけに女優としてのやわらかみには欠け、なんとなく余裕がないように感じた。だから私は、サラよりもむしろエレン・テリーに、より多くの興味を感じたのである。
 そのころアメリカに、年が四十くらいのマンスフィールドという俳優がいたが、ロンドンで「ジキル博士」という当時の新作を上演した。どういう芝居かというと、ジキルが自分の発明したある薬を飲むと、人間の善の部分が消滅して悪の部分だけの存在になり、同時に善の部分が減った分からだが縮んで非常に凶悪な容貌になるのである。この善相から悪相に変化する早変わりをやるのに、なんのしかけも使わず、ただ手のひらで顔をひとなでして前にかがむだけで、からだが収縮すると同時に顔も完全に一変するという巧妙な演技には、まったく敬服するほかはなかった。私は帰国後のあるとき、五代目菊五郎にこの話をし、一度早変わりをやってみたらどうかと勧めたことがあり、彼も非常に喜び、一度やってみましょうと言っていたのだが、ほどなく亡くなってしまい、ついに実現にいたらなかったことは残念だった。
 わたしはまたスコットランドのエジンバラに遊びにいったとき、興行中だった「湖上の美人(注・スコット原作のロッシーニ作曲のオペラか)」を観たことがあったのだが、これはスコットランド第一の人気詩人であるウォルター・スコットの傑作で、スコットランドのジェームズ王の事蹟を物語にしたものだった。湖上の景色をうまいこと宣伝するのに一役買い、この一作の出たあとは、スコットランドの地価がぐんと上がったという評判だった。スコットランド人はウォルター・スコットのことを神のようにあがめ、「湖上の美人」はわが国の「忠臣蔵」のように、これを演じればいつでも必ず大入りになるそうだ。私はスコットランドの湖水地方を巡歴し、ついでわが国の京都に似ていかにも閑静で幽玄風雅なエジンバラで有名なウォルター・スコットの銅像を見、そのあとで彼の傑作「湖上の美人」を見たので興味は一層強まったのである。
 このほかにもイギリスで観た演劇は無数にあるが、もうこの辺で、ひとまずやめておくとしよう。


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 四十五

英国の美術家(上巻145頁)

  私はリバプールに滞在中に、名誉領事ボウズ氏の日本美術館で偶然にも日本美術を研究する機会を得て、このときから大の美術愛好者となった。ロンドンをはじめ、どこの大都市に行ってもかならず美術館を訪れ、油絵や彫刻を見ることがこの上ない楽しみになった。
 明治二十二(1889)年の春、リバプールで全英美術家大会が開かれた。その会長であるロイヤル・アカデミー総裁のサー・フレデリック・レイトン氏や、当時のイギリスで神のごとくに尊崇されていたアルマ=タデマ氏が来会し、私はボウズ氏に連れられてこの大会に出席することができた。
 このときの講演でレイトン氏は日本絵画についても言及した。日本画に描かれる人物はたいていデフォーム【奇形】だ、七福神などを見ると、頭が長い者、背が低い者、耳が大きい者などふつうの人間とは違っている、これはおそらく日本人がそもそも奇形なので、絵画中の人物もそうなるのだろう、と述べた。するとボウズ氏はぶつぶつとノー、ノー、を連発し、非常に不満なようすだった。当時は日清戦争の前で、一般的なイギリス人は日本についてなにも知らず、東洋にある中国の属国か野蛮な一島国かくらいに思っていたであろう。このようなことがありボウズ氏は怒りが心頭に発して、日本美術がどういうものであるかを彼らに見せようと、氏の美術館を開放して彼らを招待することにした。そこで私はフレデリック・レイトン氏やアルマ=タデマ氏とも握手する機会を得た。
 このときレイトン氏は日本美術館を見まわし、ふんと鼻であしらっていたようだが、アルマ=タデマ氏のほうは、当時五十歳前後の立派な容貌の人だったが、ボウズ氏の説明に耳を傾けていた。ボウズ氏も、この人ひとりが注目してくれればそれで十分だと言わんばかりに、アルマ=タデマ氏をメインに案内していた。
 アルマ=タデマ氏のロンドンの住居の各部屋の扉は、イギリスの有名な美術家が彼のためにデザインしたもので、美術界では有名な話なのだそうだ。
 サー・フレデリック・レイトンの描いた油絵を、そのころリバプール市が、市立美術館の収蔵品として、八千ポンド、つまり日本円で八万円で買い入れたそうだ。たて六尺(注・一尺は約30センチ)、よこ四尺の大作で、ギリシャ人の女性が楽器をかかえ岩に腰かけている絵で非常に有名なものだったが、私は彼が日本人を侮辱したような講演をして不快感を持ったためか、この絵を見て、なんとなく柔軟さに欠けているように感じた。
 私はグラスゴーでも開催されていた絵画展覧会を観たが、イギリス人の油絵はフランス、イタリアとちがい山水の風景画が多く、例の、裸体美人であふれかえっているヨーロッパ大陸の絵画展を見るよりも、私などはとても目に快いと思ったものである。


巴里の瞥観(上巻147頁)

 私は明治二十二(1889)年五月末にイギリスを出てパリに行った。三週間かけて、開催中の万博や市内の名所旧跡を見てまわった。
 そのときのパリ駐在の日本公使は田中不二麿子爵だった。名古屋人であり、かつて文部卿をつとめたこともある人で、豊かな立派な容貌の持ち主で、パリを訪れる日本人の世話を親切にやってくれるので評判がよかった。
 このときのパリ万博は、あの有名なエッフェル塔が建設されたときだが、私が行ったときにはまだ半分しかできあがっていなくて
300メートルの塔の180メートルのところまで登ることができた。

 パリの名所は、ノートルダム寺院、パンテオンのナポレオンの墓、オペラ座、リュクサンブール美術館、ルーブル美術館、ルイ十六世の旧跡が残るベルサイユ宮殿など枚挙にいとまがないが、私にとっては、例の観劇と美術館巡りが滞在中の仕事の半分以上を占め、リバプールで兆しを見せた私の美術鑑賞病は、このときすでに手のつけられない状態になり(原文「膏肓に入り」)かかっていた。そのことをくわしく話し始めるときりがないので省略する。
 ベルギーのブリュッセルに行き、そのころ益田太郎氏が在学中だった有名な商業学校や港湾の設備などを見学してイギリスに引き返し、あいかわらず、このヨーロッパ大陸旅行の見聞録を時事新報に通信していた。このロンドン通信は、当時かなり注目度が高かったらしく、帰国してからも、ときどきその評判を耳にすることがあった。
 ドイツ、ロシア、イタリア、トルコ、バルカン半島への旅行も考えていたのだが、あまりに多額の援助を徳川篤敬侯爵に願い出るのが心苦しく、また別のときに来ることを胸に秘め、八月の末に帰国することを決心した。そのときあるイギリス人の友人が、八月にインド洋を航海するのは、えらくたいへんではないかと言ったが、私は、トルコ風呂に一か月はいっていると思えばよいではないか、と笑って、いよいよ帰国の途につくことになった。


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 四十六
美術館の位置(上巻149頁)

  大都市において、どの場所に公共建築を建てるかということは、都市の運営にあたる者がおおいに考慮するべき問題だ。
 私はヨーロッパに滞在中、美術館や博物館が、繁華街のまんなかの人がいちばん行きやすい場所に建てられていることを非常に納得のゆくことだと思った。そもそも美術館や博物館というものは、特殊な研究者のためにあるだけではなく、なるべく多くの一般人が観覧し、自然に感化を受けられるようにするのが本来の使命にちがいない。たとえばロンドンのナショナル・ギャラリー、ケンジントンの博物館のようなものは、どこからでも行きやすい(原文「四通八達の」)場所に建てられいる。パリのルーヴル美術館、リュクサンブール(原文「ルクセンブルグ」)美術館なども同様である。
  それに対し日本の各都市では、こうした考えをはなから無視しているが、とくに東京においてそれがもっとも顕著なようだ。日本は世界の美術国と言われていながら、その第一の都市である東京にたったひとつの国立美術館もなく、ただ上野の山奥に小規模な帝室博物館があるだけでは、ほとんど都市の体裁をなしていないではないか。

 今もし、美術工芸館が一般の感化のために必要であるというなら、なるべく便利な場所にこれを建て、たまたまの雨宿りで美術館に飛び込み、はじめて美術に目をとめて感化されるというような利便があってこそ、その効果が広く一般にいきわたるのではなかろうか。特別に何かを研究している人達なら半日かけて上野の山奥にある博物館に出向くかもしれないが、それほどの必要もなく、またそんな熱心さをもたない人たちは、美術に一生接する機会がないだろう。
 昭和七(1932)年に亡くなった末延道成君は生前に、牧谿のヒゲ老子(注・現重要文化財、紙本墨画老子像か?)だの、瀟湘八景だのという、かずかずの名画を収集し、公共美術館に寄付するつもりだと言われたそうだが、さらに聞くところによれば、東京で一番便利な丸の内に美術館が建設されるなら、その資金として百万円支出してもかまわないと言われていたのだそうだ。私は末延君から直接この話をきいたわけではないから彼が本当にそう言ったかどうかを保証することはできないが、さすがは末延君らしいアイデアで、ものごとを見る目のある人は違うなと非常に感心したのだった。
 ヨーロッパの諸国が証明しているように、私はこのような信念を滞欧中から抱いていたので、それ以来この問題に触れることがあるたびにできるだけ宣伝をしているが、今日にいたるまでその実現を見ていないことは非常に残念だ。しかし日本においても、さまざまな事情で近いうちに国立美術館を設立する時期がやってくると思うので、そのときには私の意見を必ずとりいれてほしいと思う。都会のまんなかでは火災の危険があるだろう、という意見もあるだろうが、今日の建築技術には火災に対する万全の予防策もあるはずだから、そのような心配をして便利な場所を避けるのはせまい料簡ではないかと思う。


家宝の感化(上巻151頁)

  私はイギリス滞在中に貴族の家庭生活を知ろうとして熱心に研究し、有名なウエストミンスター公の邸宅をはじめ、だれそれ侯爵、伯爵の居城、〇〇キャッスルなどというところをいろいろ巡り、邸宅の広大さや建築の高雅さに感服した。
 なかでも室内装飾において注目したのは、歴代の祖先の文勲や武功に関する油絵を書斎か客間に並べて飾り、いつも家族の目につくようにしているということだった。それだけだけでなく、晩餐の前に子供たちに肖像画に一礼させるようしつけている家庭もあるとのことだった。
 またオックスフォード大学を訪問したときのことだ。学生が一週間に一度、教授たちと晩餐をともにする大食堂の壁には、同大学出身の偉大な学者、政治家などの肖像画がずらりとかけられていた。これなどを見ると、イギリスの大学教育というものが紳士の育成を目的とし、飲食交際のときにも自然に学生の気品を養成していることがわかり、この方法が非常に理にかなっていることに感心したのである。
 と同時に私は、日本においては名家が所蔵する家宝が、これと同じ効果をもたらすものであることに気づいたのである。すなわち日本の名家では、先祖の文勲や武功により天皇や将軍や藩主などから拝領した記念品を伝家の宝物として子孫に伝えている。子孫もまた、この宝物に恥じないようにみずから奮励し、みずからを戒め慎む風習があることは私などもよく知る事実である。
 かつて大名家には、いわゆる御家の重宝としてとくにあがめているものがあった。たとえば徳川将軍家では、本庄正宗、初花茶入、圜悟墨蹟の三点を重宝とし、出雲の松平家では圜悟墨蹟、油屋肩衝、槍の鞘茶入の三点を家宝の第一としている。
 これらの家宝には、一家の名誉を表彰する来歴があり、主人はもちろん家族も、これらを見て自分の身分を顧みないということは心情的に不可能である。
 絵画と器物という違いこそあれ、イギリスと日本の名家のあいだには共通する一種の伝統的な美風があることに気づき、私は今後とも、日本の名家がこの美風をながらく失わないようにしてほしいと強く希望している。


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  四十七
貧富問題(上巻152頁)

  明治十八、九(18856)年ごろに福澤先生が執筆された「貧富論」のなかで、江戸の祭礼を一例にひき、先生は次のように論じられた。
 祭りのときには町内の若者がまっ先に踊りだし、親しい者同士、知らない者同士でも気心を合わせて山車を引き、みこしをかつぎ、木遣り(注・掛け声)をかけて祝い酒を飲む。その費用分担は、金持ちが多く貧乏人は少ない。だが、いちばん楽しい思いをするのは貧乏人のほうなので、しぜんに彼らはひごろの鬱憤を晴らすことができ、その不平をしずめることができるというなんとも微妙なバランスの効能があるのである。
 いかにも人心の機微をうがった卓見だと思い、私はこのことをつねに心に留めていた。
 イギリスのリバプール滞在中に、この点について思うところがあったので、一意見としてまとめ福澤先生に送った。すると先生の序言つきで、これが時事新報の紙上に発表されることになった。そのなかで私はこのようなことを書いた。(注・意訳した)
「リバプールの知事であるクックソン氏は、クリスマスの夜に、靴もズボンも持たないような貧民の児童四、五百人を狩り集め、冬服を支給する会を開いた。それが行われたのは、ある教会の庭先で、子供たちの父母や親戚は、庭の内外に群集して見ていた。

 知事は、井戸綱のように太い金のチェーンにつけた、皿のように大きな印綬を胸にたらして現れた。そして、貧民の子供のなかから一番幼い子を抱き上げて支給服を着せ、三法師を抱いた秀吉さながらに周囲を見回し、冬服を支給する理由や目的について演説を行った。その姿は、見ている者に同情の気持ち(原文「惻隠の情」)を起こさせるものだった。
 このときリバプール大司教(原文「大僧正」)も、敬虔な声を張り上げ宗教的な説教を行い、満場の観衆は、声もあげずに感動の涙を流したのである。ああ、この涙こそが、無数の貧民の不平の気持ちをなだめ、ささくれだって曲がってしまった心をやわらげるにちがいない。
 リバプールは商工業の中心地で、貧民の数も多い一方で、財産を持つ家(原文「素封家」)も軒を並べているのであるから、他の都市に比べて、一層貧民の不平があおられることが多いはずなのに、そのころ、そうした様相がなく職工労働者の人心が意外に平和なかんじに見えるのが不思議だったが、年末クリスマスにあたり、市民が貧民を慰めることを忘れていないところを見ると、宗教的にも、市政的も、いつも、こうしたことへの用意周到な準備があるからにちがいないと思いとても感心した次第である。云々」


廃娼問題(上巻154頁)

  廃娼問題はどこの国においても、是か非かをめぐって決着のついていない問題である。名を取って実を捨てるか、実をとって名を捨てるかの一利一害が錯綜し、禁酒問題と同じで、いつまでたっても一致点を見つけられないようだ。


 中国の聖人が「飲食、男女は、人の大欲存す(注・礼記。食欲と性欲は人の二大欲だという意味)」と言ったように人間は食欲と色欲の餓鬼であるから、かげ(原文「陰」)かひなた(原文「陽」)か、公か私か、どのみちその欲望を満たさなければ済まされないものだろう。
 私は外遊中に、ロンドンとパリを比較して、この問題が簡単に解決するようなものではないことを実感した。ロンドンでは公娼が許されていないので私娼がひじょうに繁盛し、その不夜城をめざして人が押し寄せている。私娼たちは道端、あるいは劇場や寄席を徘徊して熱心に客引きをするので、良家の女性たちはもちろんこの界隈には近づかない。もし近づく者があったとしたら、それでもし職業婦人であると思われても、その無礼をとがめることはできないことになっているのだという。
 日本から旅行で来てこの界隈に遊び、それを詩にして詠じた人があるのを見て、私もそのひそみにならい、たわむれに俗謡を作り、二上り新内の達人、岡本貞烋氏に送ったことがある。
 「花の帽子を手に取りて、グードナイトも口の中、またの逢瀬をネルソンの、塔のかなたで待つぞいな」 
 これは、ロンドン中心チャリング・クロスの、ネルソンの塔あたりの夜景を詠じたのである。
 さてパリはどうかというと、世界からやってくる客を引き寄せて、絶えず黄金の雨を降らすのが国の伝統的な政策なので、カフェや劇場に化粧をした魔物が横行するのはもちろん、ひとたび花柳のちまたに足を踏み入れれば、赤い布を看板(原文「招牌」)にした妓楼が軒を連ねてひしめいている。この女護島(注・遊里)の一角は、世界の餓鬼を誘惑して、ながい夜の遊行に耽らせるのである。

 これが公娼制度の特色で、風紀をうんぬんする人びとの目から見れば文明国の恥さらしだと非難することになるのだろうが、ロンドンのような私娼が横行してしまうと、その結果は病気や害毒の蔓延だ。そしてそれを防ぐ手立てがなく、世界を股にかけて流れ渡ってくる質の悪い娼婦が、悪徳のタネをまきちらして旅人に極度の不安を与えることになるのだ。イギリスには公娼がいないという美名のかげに、きわめて陰惨な罪悪がひそんでいるのが、おおうことのできない事実なのである。

 日本においても、宗教家や女権論者がこの廃娼問題をさかんに取り上げているようだが、実際に即して人道上の問題を考えると、はたしてどちらが適切なのか。各国の実状を研究したうえで選択をあやまらないようにしなければならないと思う。


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 四十八
洋行帰りの新人(上巻156頁)

 私は明治二十二(1889)年九月にインド洋経由で帰国すると、わたしのいないあいだに時事新報を去って山陽鉄道社長になられた中上川彦次郎氏に会い、また同じく時事新報を去って大阪毎日新聞を経営しつつあった親友の渡邊治に面会し、二年間の留守中にあったできごとについて話を聞いた。渡邊がすこしのあいだにひとかどの出世をし、山県有朋伯爵【のち公爵】と知り合い、政治的なことで意見の一致を見、毎日新聞の経営もじつは山県伯爵らの後援によるものであることを知った。
 また東京に帰ると、福澤先生からは驚くばかりの歓迎を受けた。私のロンドン滞在中の通信に対して非常なおほめの言葉をいただいた。先生のお宅で旧三田藩の九鬼隆義子爵を招いた席上で、とくに私を子爵に紹介してくださり、いつもは私たちのことを姓名で呼び捨てにせず「あなた」と呼ぶのに、このときは、いかにもかしこまった態度で、「これは今度ロンドンより帰朝した高橋義雄でございます」と、わが弟子らしく九鬼子爵に紹介していただいたことを私は非常にうれしく感じたものだった。こうして私はしばらくのあいだ客員の資格で時事新報に執筆することになった。
 このとき、外国からかえってきたばかりの新人の私にラブコール(原文「秋波」)を送ってくれたのが日本郵船会社の副社長だった吉川泰次郎氏だった。氏は、当時東京の財界を支配し一大勢力になっていた、渋沢栄一氏【のち子爵】、益田孝氏【のち男爵】らに対して、川田小一郎氏【のち男爵】を首脳とする一グループを作ろうとしていた最中で、そのグループに引き入れる目的で私に注目したのだろう。
 ところが私は、帰国後すぐに腸チフスにかかって帝国大学病院に入院し高熱が一週間おさまらず十一月末にようやく退院した。それまで待ちに待っていてくれた吉川氏は、欧米諸国の商業を視察してきた私を大阪方面の経営者に紹介しようと私に同行をすすめたので、私は十二月中旬から氏とともに大阪に赴いた。

 そして翌年の一月十日ごろまで大阪に滞在したり須磨に避寒したりしながら、大阪の経営者たちと交流した。また阪神間の汽車の中で、井上馨伯爵のち侯爵にも対面する機会があり、帰京後にまたゆっくりと会談することにもなったのである。

 

英国風俗鏡(上巻158頁)

  私は明治二十二(1889)年八月に帰国したあとも、イギリス滞在中に時事新報の記者をやっていた関係をそのまま継続し、客員の資格で社説を寄贈していた。そのあいだに、イギリスで見聞してきた風俗について記述して、「英国風俗鏡」という本を出版した。
 小著ではあったが、イギリスのすぐれた点について述べたものだった。たとえば、イギリス貴族の住居を訪問したとき、客間や食堂にその家の先祖の文勲武功を描いた油絵の額が掛けられ、いつも子供たちが教訓を得られるようにしてあること、またオックスフォード大学では一週間に一度の学生と教授の晩餐が、歴代の校長や同大学出身の偉人の油絵を掲げた部屋で行われ、知らず知らずのうちに先輩の感化を受けるようにできていたり社交上の礼法を見習えるようになっていること、さらにテンプルの弁護士協会では、三年間のあいだ仲間との定期晩餐会に出席しないと弁護士の資格をもらえないというような社会教育を重視している点が見られ、教育とはつまり英国紳士を製造することだ、という美風がある点を賛美したものだった。
 またイギリスの家庭は、いわゆる「ホーム」という言葉がそのままあてはまるように、中流の家庭には必ずピアノその他の楽器があり、家族に共通の音楽趣味ができあがるようにしてあるため、私などがヨーロッパ大陸を旅行してイギリスに戻ったときは、なんとなく第二の故郷に帰ってきたような心持ちがしたもので、そのような風習を日本にも移入したいという希望を書いてみたのである。
 なお私は、当時のイギリスを視察して、同国の貴族のなかの最高峰の本となっているウエストミンスター公の別邸を観たが、その広壮さにおどろいたものだ。またスコットランド地方を巡回しているときに、貴族が所有する別荘が何キロにもわたっているのにも驚いた。
 イギリスでは、日本の大名が明治維新のときに版籍奉還とともに私領地も奉還したのに対し、封建時代の貴族が所有財産をそのまま領有しているので、これがはたしていつまで続くだろうかと疑問に思った。いつか必ず社会問題になり、貧富の差が激しい現状の制度が崩壊する時期がやってくるに違いないと予想したものだが、欧州大戦(注・第一次世界大戦のこと)のあと、やはり予想どおりそれがようやく現実になった。これはむしろ、遅いくらいだったと驚いた次第である。


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 四十九
副島種臣伯(上巻159頁)

  私は明治二十(1887)に渡米したとき、当時ロンドンの日本公使書記官だった鍋島銈次郎氏に連れられてイギリスに留学しようとしていた副島道正氏【のち伯爵】と同船した。道正氏はそのころ十五、六歳の少年だったが、私がその後ロンドンに滞在しているころは、ケンブリッジ大学への入学準備をしているときで、あの天文台で有名なグリニッチにある家庭教師の家に寄宿していた。
 私はある日、天文台の見学を兼ねてグリニッチに赴き、道正氏の寄宿先を訪ねて一日過ごしたことがあった。これは明治二十二(
1889)年の五、六月のことで、私はもうすぐ帰国するときだったので、日本にいる父君に手紙や伝言を頼まれた。

 そこで私は帰国後、当時京橋区越前堀に住んでおられた副島種臣伯爵を訪問した。はっきり覚えていないのだが、庭に池がある屋敷で木造の古い日本家屋の広間に通された。待つほどもなく出てみえた老伯爵は、ごま塩以上に白い頭髪で、いかにもいかめしい顔つきが絵で見る神農(注・医療と農耕の神)に似ていて、なんとなく古代の人に接しているようだった。あまり大柄には見えないが、そうかといって小柄でもなく、座られるやいなや私が持参した愛息の手紙を受け取り、また伝言を聞かれてとても満足されたようすであった。
 私はかつて、この老伯爵の詩を読んだことがあった。なかでも、

   金華松島奥東頭 自古風雲向北愁 日本中央碑字在 祇令靺鞨入何州


と言う作品が、いかにも規模雄大で感服していたので、この機会に老伯爵のお話を伺いたいと思い、西洋見聞のはなしからいろいろな時勢談にうつった。

 そのころ私は時事新報に「西尊東卑」という題の論説を書いていたが、その前には「男尊女卑」という、これまた私が作った題名で時事新報にいろいろと議論していたのであるが、近頃の欧化政策は勢い余り、ひとびとが、ややもするとヨーロッパに心酔しすぎて、なんでもかんでも東洋の習慣を蔑視する傾向があることから、男尊女卑から転用して西尊東卑という語を作ったのである。そして、新帰朝者として、むしろ逆に西洋の悪いところを攻撃していたのである。
 この論説に、老伯爵が非常に同感されていたようで、だんだん話していくうちに、あの論説はあなたが書いたのですか、ということになり、それからいよいよ真剣にさまざまな問題について議論されたのだった。
 しかしどんな豪傑でもわが子のかわいさにはひかれるようで、とくに遠国に留学中の愛児に対する心配は大きかったようで、話の切れ目切れ目に道正氏のようすについて根掘り葉掘り質問された。その愛情深さに私は感激し、氏に対するいっそうの尊敬の念を深めたのだった。私が出会った大家のなかで、この老伯爵ほど神々しく、古代の人に接しているような感じを抱かせる人物はいなかったのではないかと思う。
 


老伯の歌才(上巻
161頁)

  
 副島老伯爵の話が出たついでに、その文才についての名誉あるエピソードを記しておく。あるとき伯爵が、皇后陛下【のちの昭憲皇太后】の御前に出たとき、皇后陛下から伯爵に、さいきん天皇から「二人挽きの人力車に乗って早朝亀戸の梅見にでかける」という和歌のお題を賜ったが、ひどく難題なので、歌が詠めなくて困っている、とのお言葉があった。そのとき伯爵は、なんの躊躇もせずに、陛下に対し、歌というものはあまり深く考えずに、ただありのままにお詠み遊ばすのよろしかろうと存じます、と言い、ただいまそのような愚作を申し上げるなら、

       
   二人して挽けや車子亀戸の 梅の林の朝ぼらけ見む


となさってはいかがでござりましょうか、と即座に言上したので、皇后陛下もことのほか伯爵の歌才にご感心あそばされたそうだ。

 伯爵は漢学に造詣が深く、とくに先秦文学(注・中国の秦以前の文学の総称。詩経、書経、春秋左氏伝、孟子、老子、荘子、楚辞など)を究め、長編大作の詩をたちどころに作り、しかも一種の古調を帯びていたことは世間の定評になっていたが、和歌にもこのような素養があったことは誰も知らなかったので、これをもれきいた人は、いまさらながらに伯爵の文才に驚いたということだ。
 このエピソードは、かつて長く宮中につとめた薩摩の吉井友実翁から下條桂谷画伯が聞き、わたしに話してくれたことなので、事実に違いないと思っている。


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 五十
薩摩の豪傑(上巻162頁)

 私の海外視察の二年半の旅行中には、いろいろなところで日本人に出会った。海外で同国人に会うと互いになつかしく感じるもので、日本にいるときには親しくなる機会がないような人とでも古くからの知り合いのように感じるのが常である。ここで今、いちいち名前を挙げる必要もないのだが、そのなかで、薩摩の豪傑、奈良原繁【のち男爵】翁のことを記しておこう。

  氏がロンドンに滞在していたとき私が宿を訪ねてみると、ひとりの随行者はいたものの土地に不案内のため、ひまを持て余して「日本外史」などを読んでおられた。わたしは心の中でロンドンに来てまで日本外史を読むこともないだろうに、とおかしく、そのころ私はだいぶ土地に慣れてきていたので、この日から一週間ほどのあいだガイド役になり、いろいろなところに翁を案内し名所見物の手伝いをした。
 翁はそのことをとても喜び、私が明治二十二(1889)年の秋に帰国すると、翁はすでに帰国し日本鉄道の社長となり飛ぶ鳥を落とす勢いであったのだが、ある晩に私を芝の紅葉館に主賓としてむかえ、十数人の知人を招いて会合を開いてくれた。
 翁は維新の前、島津久光公の命令に従わない藩臣の数名を始末するため、伏見の寺田屋に行き、真っ裸で中に飛び込み彼らの肝をつぶし、うまいこと使命を果たしたという。これがいわゆる寺田屋の騒動で、翁がその豪傑ぶりを発揮した一幕だったそうだ。
 さて翁は、久光公のそばに仕える家来として非常に勢力があり、西郷、大久保にさえも、しばしば敵対するような力をもっていたということだ。そのせいで薩摩の長老でありながら維新後にあまり重用されることがなかったのを、松方正義公爵が後押しし翁を日本鉄道会社の社長にしたということであった。
 しかし翁には酒癖の悪さがあり、飲みすぎたときにそれが現れてしまうことがあった。この晩も、牧野信顕【のち伯爵、現内大臣】氏が宴会のあとに友人と碁を囲んでいたのをみて、客に対して失礼だろうと言い出し、コップを手にして今にも飛びかかりそうになった。そのとき牧野氏は、翁の怒鳴り声を神妙に聞き流し、やわらかな物腰で翁の攻撃をかわしていた。この落ち着き払った冷静さを見て、私は、さすがは利通侯爵の子だと思った。当時は外務省の局長くらいだったが、将来かならず大きな仕事をする人物になるだろうと思われた。
 さて翌日、奈良原翁は前夜の行いを後悔し、牧野氏に会いにいって何度も頭を下げてきたと後日私に話してくれた。酒癖は酒癖として、後輩に対して、迷わず自分の非を詫びるところに翁の純粋な誠意を感じる。
 翁はこの酒癖がいけなかったのかどうだか、その後松方公爵ともうまくいかず、最後には沖縄県知事となって晩年を送った。せっかくの能力を発揮しきれなかったようなところがあり残念だが、とにかくも、翁が薩摩隼人の面影を残す豪傑であることにかわりはない。


商政一新(上巻164頁)

  私はヨーロッパに滞在中に欧州諸国の商業組織を調査したが、日本ではいよいよ議会が開設され近い将来には立憲政治国になろうとしているのに、商業組織に関しては封建制度がそのまま残り、なんら改革の準備がなされていないことを憂えた。社会の組織は、さまざまな分野で互いに足並みがそろっていなければ順調に発達することができない。政治だけが立憲だと言っても、経済の各機関がこれについていかなければ国家が円満に進歩していくことはできない。私は、現在の急務は商業の一新である、という見地から、商業会議所、商工組合、信用興信所、その他の商業機関を改革する方針をくわしく述べた著作を出版した。(注・「商政一新」明治23年)
 当時、洋行帰りの新人と見られていた私の著述は、ちょうどわが国の経済社会の革新運動に向かおうとしていた時期に重なり各方面からかなりの反応があった。親友の渡邊治がこの本を井上馨伯爵に渡したところ伯爵はこれを通読され、いままでの学者の議論は、苦言の言いっぱなしで善後策が示されていなかったのに、「商政一新」は旧弊を説くと同時に救済の方法も示しており、わが意を得たりであるとことのほか称賛されたそうで、伯爵が私のことを知ってくださったのも実はこの著作のおかげだった。
 山県伯爵が明治二十三(1890)年に商業会議所条例を制定されたときに私に諮問されたのも、伯爵がこの著作のことを知られたためであった。この著作は私の一身にとり、非常に有利な働きをしてくれたのである。


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