だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 31‐40

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 三十一
福澤先生の感情(上巻100頁)

 明治十七、八(18845)ごろ、時事新報は南鍋町二丁目のかどにあり北側の裏手が交詢社とつながっていた。時事新報社がどうにも手狭なものだから、福澤先生は交詢社の赤煉瓦の二階の一室を編集所と定め毎日そこに行って論説の執筆をなさっていた。
 さてこの部屋が当時「鶴仙」という寄席背中合わせになっており、しかもその舞台が交詢社がわにあったので、落語や音楽などの音が全部筒抜けになって交詢社に聞こえてくるのだった。
 当時は竹本摂津大掾(注・せっつだいじょう。義太夫の太夫)が、まだ越路太夫といっていた時代で、はじめて東京にやってきたか二回目くらいのときだったので、すごい人気だった。そのころの寄席の木戸銭(注・入場料)は三、四銭だったのに越路が出れば十銭取るというので、そのころは驚きの的だった。
 この越路が鶴仙の寄席に出演し阿波の鳴門を語ったちょうどそのとき福澤先生は編集所にいた。越路が美声を張り上げ十兵衛がおつるを殺して金を奪おうとする場面にいたったとき、先生は感激のあまり、「悪い奴だ…悪い奴だ」と繰り返してひとりごとを言った。これは越路の芸がすぐれていたので先生を感動させたということもあろうが、悪事に対する先生の憤りの気持ちが知らず知らずのうちに盛り上がったせいでもあろう。
 私は隣りの部屋にいたので盗み聞きしてしまい、あまりにおかしかったのでクスクスと噴き出してしまったが、考えてみるとこんなことからも先生の純粋な気持ちが見えてくるというもので、かえって非常に尊敬したのだった。

 

宇都宮の警語(上巻101頁)

 宇都宮三郎氏は福澤先生の友人で、先生がいつも敬い意見を重んじ学者だった。氏は世俗にまみれず飄々として禅僧のような風貌だった。南鍋町の自宅だった煉瓦の建物を交詢社に寄付し、自分は別のみすぼらしい家に引っ越した。肺疾患を持ち医師から死を宣告されたので自分で棺桶を作ったが、その後病気から快復するとそれを本棚に代用したというような奇談の持ち主だった。
 毎日のように交詢社にやってきては福澤先生と一緒に談話の中心になっていた。あるとき宇都宮先生は次のような話をされた。イエス・キリスト(原文「耶蘇」)が自分を神だと信じたのは無理もないことだ、生まれながらにして預言者などから「君は前世の約束でこの世に生まれたたったひとりの救世主だ」と宣告され成長するまで周囲のひとびとからも同じように生神扱いされたら、どうも自分は神らしいぞと信じるようになるのは当然だ、しかし最後に十字架にかけられ脇腹に槍を突きさされたときに神ならこんなに痛いはずはないと気がついて、はじめて人間だったことに気づいただろう。そう言って大笑いしていた。先生はやせぎすで、火薬の実験中に顔にやけどを負われたので、一見、異様な風貌であったが、座談がうまくとてもおもしろい科学者であった。


新聞の広告(上巻102頁)

 新聞の広告は新聞社の収入の大きな細目であると同時に広告の依頼者にとっても宣伝効果の高い媒体であるので、今日では双方ともにその利益を知り尽くしているが、時事新報の創立された明治十五(1882)年ごろは新聞というものは論説の内容のよさで売るものだとされていおり、広告などに着目する人は少なかった。
 そういうときに、発刊当時から福澤先生の片腕となり表面的には社長として時事新報を経営していた中上川彦次郎氏は、イギリス留学中に研究してきたらしく新聞の経営には広告を取るのが一番必要だということでいろいろな新しい工夫を生み出した。
 明治十六、七(18834)ごろに時事新報が一時日本橋三丁目のかどに移ったとき、中上川氏はその二階の窓から、風船に「広告するなら日本一の時事新報に広告するに限る」という宣伝ビラを結びつけて大空に放ったことがあった。これがかなり遠くまでまき散らされ、それからというもの東京の新聞のなかでは時事新報の広告が一番多かった。
 その後ほかの新聞もこれにならって広告取りを熱心にやるようになったが、中上川氏がこれに着眼したということは、氏がのちに実業方面で大きな足跡を残したことの第一歩であったといってもよいであろう。


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三十二 明治十年代東京の景物(上巻
103頁)

 
 西南戦争のあった明治十(
1877)年から、二十年ごろまでは、まだ維新からの日も浅く世の中が非常に単純で、今日に比べて明るい気分になることが多かった。

 私がはじめて上京した十四(1881)年か十五年の春であっただろうか、当時は三田にあった薩摩屋敷が空き地になっていて、ここが薩摩原と呼ばれ競馬などが行われていた。
 あるとき明治天皇がこの競馬場に臨幸になったことがあった。馬見所はかんたんな仮小屋で、私たちは、十間(注・一間は約180センチ)か十五間離れた場所から陛下がテーブルを前にして椅子に座られているお姿を仰ぎ見ることができた。当時満三十歳くらいで、色白のお顔の鼻の下に真っ黒なの字のひげをたくわえ、非常にお元気なようすでシガーをくゆらせながら、お伴の大臣たちとご談笑なさりつつ競馬を覧になっていた。
 今日から見るならば、警護などもほとんど信じられないほどに簡単なものであった。そんなことからも当時の世相がどんなであったかをうかがうことができるだろう。
 また明治十五、六(18823)年は人力車全盛の時代だった。銀座に秋葉大助という大きな人力車製造店があり、東京はもちろんのこと地方にもの車の販売を広げている時期だったそのなかに一割くらいの割合で二人乗りのものがあった。その背の部分には鯉の滝登りだとか、熊と金時だとかの色のついた絵が描かれていた。
 明治十六、七年ごろだっただろうか、時事新報社が日本橋三丁目のかどにあったときだったが、鶴のようにやせて馬のように顔が長い陸奥宗光氏のちに伯爵が、その二人乗りの人力車に年若い夫人と一緒に乗り、福澤先生を訪問されたことがあった。このときは五年間の禁獄から釈放されて、いろいろなところにあいさつ回りをされているときだったのであろうが、日本橋通りを夫人と相乗りで乗り回すなどというのは、なんだか人を食ったような行動だと思ったことだった。しかし今さらのように考えてみると、入牢中の長期間ひとりで家を守っていた夫人に対しその慰労の意味もあったのかもしれない。それでもやはり、そのときはずいぶん異様な光景だったと思われたものである。
 維新後に東京に移住した政府の高官たちは、田舎武士でないなら貧乏公卿にちがいないと言われたほどに、その邸宅はもちろんのこと室内装飾にいたってもかなり趣味が悪い場合が多かった。というのも彼らの家は、維新の前に彼らが集まって天下転覆の画策をめぐらした茶屋や待合の座敷がその見本だったのだからしかたがない。床の間には文人画の花鳥風水の軸を掛け、その前には真新しい花瓶を置き、部屋の隅には紫檀の机を飾るという具合だったのだ。
 明治十年代になってもこの状況が続いていた。大隈重信侯爵の雉子橋邸は当時もっとも豪壮な邸宅として知られていたが、明治十四(1881)年に侯爵が政府を追われて下野したとき、政府を擁護する御用新聞が侯爵の贅沢を攻撃し、座敷の壁に珊瑚珠を塗りこむなどというのは思い上がりもはなはだしいなどと批判したものだった。しかしその邸宅は、その後フランス公使館に譲渡され、私なども一、二度出入りしたことがあるが、二階建ての木造の洋館で、坪数はかなりあったが今日から見れば贅沢というほどの部分はなく、ここからも、個人住宅のその後の五十年の発展がいかにめざましかったかを知るのである。

 維新後の文化の発展は政府関係の方面で一番早く、それに比べると民間の組織の改良などは非常に遅い歩みで、小売店なども番頭や小僧が店頭で客の注文を受け、それをいちいち倉庫に取りに行くという具合だった。
 そんななか「勧工場」といって、ひとつの大きな店舗のなかに各種の雑貨を陳列し、客が自由に品物を選べるようにした小売り形態が生まれた。これはのちの百貨店の前段階と見るべきだろう。けれどもその陳列品を見ると、中流以下の生活者の需要こたえることを目的としており、俗に「勧工場品」といえば粗悪品の代名詞だった。それでも当時においては小売り方法の先端をいくやり方だったのである。
 これを見ても、町人階級の知識が役人階級の知識よりも一段低かったことや、そのころしきりに西洋から輸入されていた文化的施設にしても、政府に比べて民間では遅れがちになっていたことがわかるのである。


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三十三 明治十年代の新橋(上)(上巻106頁)

 吉原の全盛時代が、王政復古の明治維新ともに夢のように去ると、東京の花柳界はしだいに南のほうに移動した。
  
私が上京した明治十四(
1881)年ごろは、いまでいうなら神楽坂か道玄坂くらいの位置づけだった新橋がめきめきとランクを上げ、柳橋を越えるか越えないかという勢いを示しているときだった。これは主に政府の高官や中流以上の役人、あるいは地方の長官クラスの人たちが、地理的に便利だというので新橋に足を向けるようになったからである。
 しかし茶屋や待合の設備はいたって粗末なもので、当時料理屋としては売茶亭、花月楼くらいしかなく、待合は船宿の名残りで、三十間堀に大村屋、兵庫屋のほかに二軒あるのみ。新しく開いた待合は、出雲橋ぎわの長谷川すずが女将をやっていた長谷川の一軒だけで、あとは烏森に濱野屋という料理屋があるだけだった。
 この濱野屋の女将だったお濱は、明治はじめに井上世外侯爵(注・井上馨)がひいきにしていたころに、その後亭主にした隠密の親分とのあいだにおもしろいエピソードを残した人だ。彼女一種の侠気(注・おとこぎ)があったので、頭山満翁なども上京したころにはこの女将をひいきにして常宿にしていたものだった私も貧乏書生の新聞記者で、遊蕩の世界に足を踏み入れたばかりの遊蕩学校一年生だったのに、どうやらこの女将のお眼鏡にかなったようでいつも上客として扱ってもらい、まんまとこの学校を卒業させてもらうことができた。私にとってもこの女将はいくらお礼を言っても言い切れないほどの恩人である。
 さてこのころ濱野屋に出入りしていた婀娜者(注・あだもの。色っぽい女のなかでは、有名な「洗い髪のお妻」の人気がダントツだった。このころまだ十五歳で雛妓おしゃくとなった。

 木挽町「田川」の女将である石原半女は七十二歳の現在もなお元気はつらつで現役として活躍しているが、最近できあがった五階建ての近代的なビルである新橋検番ビルの開会式にあたり、昔を思い出して感無量の面持ちで、そのおしゃく時代の新橋物語を語るのをきけば、彼女と同時代の同世代には、玉八、幸吉、小徳、お里、おしんなどがいて、芸妓の送迎は最初は女中などが勤めていたが、当時なんとかどんという気楽な男がいて、その男に三味線の箱を運ばせたのが、いわゆる揚げ箱のはじまりなのだそうだ。この揚げ箱が発展して検番になり、その検番がいまや五層の大ビルディングになったとは新橋五十年の発展は夢のようであるとのことで、いかにもそのとおりだと思う。
 この揺籃期の新橋で、その名のとおりに光り輝いていたのが玉八で、色白の美人で頭もよかったから、一時全盛をきわめていた。あるとき伊藤(注・伊東)茂右衛門氏が玉八の手にほくろ(注・原文ではホソビ。北関東の方言でほくろのこと)があるのを見つけて、

   白魚の目は玉ちゃんの手のほそび

駄句(注・あそびの軽い句を作ったところ、当時、名吟であるとして友人のあいだに伝わったとのことだ。
 そのころの花月楼の主人は平岡広高といった。まだ年若い道楽者で、朝吹英二、犬養毅、岡本貞烋、笠野吉次郎などという連中が、ここをねぐらとして気安く出入りしていた。岡本は達筆なのを表の芸とし、二上り新内(注・江戸時代の俗曲。明治時代に再流行した)を隠し芸としており、一杯のんで上機嫌なときにはその美声を張り上げるのを常としたが、仲間はほとんど芸のない猿同然で、ただそれを拝聴する側にまわった。岡本のいちばん得意としていた二上り新内は、

 「私が風邪ひいて寝ていたら、枕のそばにそっと来て、飯ま】を食べぬか薬でもと、そのやさしさに引きかえて、今の邪見はエエ何事ぞいな」

というのであった。
 西園寺陶庵公爵が、パリ帰りの「ヤング・デューク」として粋人ぶりを発揮されていたのも
のころで、その作詩だと言い伝えられている小唄に、

 「風にうらみは待合の、軒端にそよぐしのび草、そよと音も人さんに、心をおくの四畳半。」

とあるのは、当時「警八風」といって風俗係の見まわりが、ときどき待合を夜襲することがあった世相をうたったものだろう。
 このころからだんだん名古屋出身の芸妓が新橋にもやってくるようになり、最初のうちはこの「そうきゃも連」は江戸っ子芸妓に蹴落とされていたが、芸道の力がまさっているのでだんだん幅をきかすようになった。

 なかでも須磨子、若吉のふたりは長唄の三味線が抜群にうまいので、新橋でなにかの演芸会があると、ふたりであの長唄「筑摩川」の大薩摩節を弾きまくったものだ。
 その芸の高さを別にすると、全体としては今日の芸妓と比べて、諸芸ともに、いたって幼稚なレベルで、常磐津にしろ清元にしろ、今は昔とでは雲泥の差があるだろうと思う。
 


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 三十四 明治十年代の新橋(下)(上巻109頁)
 
  明治十年代の新橋は芸妓の数も非常に少なかったし待合の料理も粗末なもので、今日とはくらべものにならない。東京の料理屋といえば、昔のなごりで
山谷の八百善、浜町の常盤屋などの名前が挙がり、新橋方面にはこれと肩を並べるものはなかったが、客層はだいたいが知識階級で、その遊蕩ぶりにもなんとなく雅趣があり後日の語り草になるようなことも多かった。

 そのような噂のタネになるのはまず朝吹君で、そのころお里というかわいい子(原文「婀娜者」)にぞっこん入れ込んでいたのに、そのお里がいつのまにか別の愛人のもとに走ったという事件が発生した。そのとき、萩の本の阿仁丸君は失望落胆のあまり、
  
  おさと
お砂糖なくてお萩あだ名やい焼いて悔い食い


と吐き出した
が、当時、これはうまいと評判になった。(注・「お萩」、「阿仁丸」というあだ名については、
25を参照のこと)
 もともと阿仁丸君は世話ずきで非常に親切だったので、廓の金には困っても親しい友人に対してはいつでも助け船の船頭役をつとめる性分だった。なかでもいちばんおもしろかったのは、長崎出身の秀才で美青年の笠野吉次郎氏が、阿仁丸君とは反対に美男なるがゆえにちょくちょく女難の祟りをうけ、夫婦の契りからも間もない阿久里という美人を振って、朝蝶という新愛人を作ったときのことだった。阿久里は激怒し、とうとう別れ話になった。そのときに、阿仁丸、犬養の両人が仲裁役になり、手切れ金の話し合いになった。笠野からは二百円を出させ、阿久里には半分の百円を渡した。残りの百円は小さなブリキ製の金庫にいれて、笠野がいないときに阿仁丸みずから笠野夫人に面会し、「この金庫には僕と犬養とご主人の三人の身の上にかかわる秘密書類がはいっていて、僕らの家に置いておけず、げんをかついでご主人にも知らせずに奥さんにお預けする次第なので、どうか秘密を守って保管してほしい、しかし後日、ご主人の身の上に何か困ったことがおきたとき、このなかの書類が物を言うから、そのときはじめてご主人に打ち明けてこの玉手箱を開けるように」と言い置き立ち去った。さてその後ほどなく、遊蕩の報いがめぐりめぐって笠野が困り果てていたときに、夫人がこのことを思い出して、朝吹さんから預かった秘密箱は、まさかのときに開けるように言われていたので今あけてみましょうと言って箱をあけてみると、なんと当時では大金だった百円札が目の前に現れたので、夫婦は喜びに喜び深い友情に感涙を流したという悲劇とも喜劇ともつかぬ話である。
 このころの新橋花月楼は平岡広高が経営者で、年が若いうえに自分自身も道楽者でいつも貧乏神にとりつかれていたから、妻のお蝶にも新橋で二度の勤めをさせるということがあった。しかし、女房がいなくては茶屋の営業も成り立たないだろうと阿仁丸君が同情し、それに馬越、犬養も同調して、とうとうお蝶をもとの花月楼に返らせたことがあった。その日、店先から大声で、「お蝶はおるか、モロ高はおるか」と呼びつつ飛び込んできたのが阿仁丸君だった。これは例のそそっかしやで、平岡の名の広高を、モロ高と間違えていたのである。それが悪友のあいだで大評判になり、このときから花月楼主人は、ヒロ高拾ったかモロ高たか】(注・貰ったか)と呼ぶようになったというおかしな話もある。
 また阿仁丸君が自分の貧乏もかえりみず道楽仲間を援助するので、悪徳新聞記者がそれにつけこみ、朝吹は貿易商会(注・25を参照のこと)の多額の金を隠匿しているのだろうと恐喝し、口止め金を出せと言って押しかけてきたとき、商会の荒川新十郎氏が憤慨して抗弁しようとしたところ、阿仁丸君はそれを制止し、君らは考えがまだ青臭い、僕が金をかくしていると言われれば、人も安心して金を貸してくれるから、ここは黙って逆に宣伝してもらったほうがいい、と平然として、いっこうに取り合わなかったそうだ。
 そのころは今日とは違い、花柳社会に出入りする者のなかには脱線者も多かったので数々の奇談が残っているが、そういうことを思い出すとなんとなく昔が恋しくなるような心地もする。

 

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 三十五
壮時の伊藤公
(上巻
112頁)

 私が時事新報に勤務していた明治十八(1885)年ごろ同僚の津田興二氏と連れ立って、当時イギリス帰りの新知識人(原文「新人」)だった末松謙澄氏を、同氏が滞在していた伊藤博文伯爵のち公爵の官邸に訪問した。
 われわれが末松氏と時事問題について議論しているとき伊藤伯爵が隣室からひょっこり現れて俺も仲間に入れてくれ、と言われた。ちょうど私たちが末松氏と論争中だった、日本に公侯伯子男の階級を設けるのは時代錯誤ではないかという問題について伊藤伯爵は、日本の皇室を守護するためにはどうしても爵位の必要があると力説した。戦国時代であれば、その功労者に一国一城を与えるなどの論功行賞があったが、今はそういう時代ではないのでなおのこと爵位が重要なのであると、年下でまだ駆け出しの新聞記者をつかまえて激しく論駁されたのである。
 そのときには伊藤巳代治氏のち伯爵も議論に加わったのでますます賑やかになり、伊藤伯爵は酒もはいって上機嫌になり、もっと別の難題はないのか、などとさかんに雄弁をふるいたいようすを見せた。そこで私たちも礼儀をわきまえない野人ぶりを発揮してさらに露骨に議論をふっかけた。末松氏が、なにか失言でもしないかとはらはらしているようだったので、私たちもこのあたりでやめにしようと退出したのだった。当時の伊藤伯爵はこのように元気はつらつで、

  豪気堂々横大空 日東誰使帝威隆
  高楼傾尽三杯酒 天下英雄在眼中

という傑作のなかにある抱負が実際の言論にも現れていた。後年私が出会った日本の政論家のなかには、当時の伯爵ほどきびきびした雄弁家を見かけないように思う。



著書の出版(上巻113頁)

 私は明治十七(1884)年から十九年にかけて、「日本人種改良論」と「拝金宗」正続編とを刊行した。「日本人種改良論」を執筆した動機は、井上外務卿が条約改正に先立ちしきりに欧化主義を訴えた時勢に感化されたからだった。日本人が一気に欧米人と肩を並べるためには、まず日本人の小柄な体格を改良すること、もっと進んで、日本人は欧米人と結婚して根本的に人種を改良すべきだ、という突拍子もない論説だった。
 また「拝金宗」は、明治十七1884年ごろから福澤先生が実業論をさかんに唱え、士族根性を実業主義に転換させようという論説を唱え私が代筆したので、自分でも一冊の書物として出版することにしたのである。
 金宗というのは、アメリカ人のいう「オールマイティ・ダラー(注・原文ではドルラル。全能のドルという意味)」という言葉を私が翻訳したものだ。この本では、河鍋暁斎という北斎風の絵を上手に描く画家に表紙の挿画を依頼し、釈迦と孔子とキリストを十字架の上に縛りつけた一方で、後光の射す金貨をひとびとが拝むという漫画で、内容もとても挑発的で奇抜なアイデアだったので、この本は上下二冊で数千部の発行部数となった。のちに司法大臣になった横田千之助氏なども少年時代に郷里でこれを読んでおおいに発奮したと私に直接話してくれたものだ。
 ところで「日本人種改良論」に対しては、当時の帝国大学総長だった加藤弘之博士がある雑誌で堂々と反論されたので、私は時事新報紙上でこれに対抗したが、そのとき福澤先生は、相手がおもしろいからきちんとやるがいい、なんでも議論というものは最後まで対陣して、最後に自分のほうで書いて終わらせなければならない、と応援してくれたものだった。福澤先生の論争はいつもこのやり方だったようで、かならず相手を降参させなければ気が済まないというようすだった。


河鍋暁斎(上巻114頁)

 河鍋暁斎の話が出たからついでに、彼のことを記しておく。私が彼に出会ったのは明治十七(1884)年ごろで、そのころ日本橋本町で岐阜出身の原亮三郎という教科書出版業者が、金港堂という当時第一級の書店を開いていた。私はある日、市外龍泉寺村にある彼の別荘に招かれたことがあった。そのときの余興に、河鍋暁斎が席画(注・即席で客の注文の絵を描く芸)をやったのだが、彼は六十前後で、でっぷりと太って頑丈そうな骨格の持ち主で、職人風の粗野なところがあり、すさまじい酒豪だった。そして席画の上手なのには驚かされるばかりだった。私たちに紙になにかひと筆墨でかかせ、それを花にしたり、ねずみにしたり、鳥にしたりと描いていくうまさは並ではなく、一同手をたたき、やんやと喝采する声はやまなかった。彼は鍾馗だとか鬼の念仏だとかの人物がいちばん得意で、だいたい北斎の流れをくんでいる。芸は達者だが、下品なかんじ(原文「悪達者の風」)で、気品が高いとはいえなかった。
 こうして席画がひとめぐり終わると、これから私の本芸をお見せします、と言って、能狂言の末廣狩を舞った。野太い声で、傘を持ちながら「傘を差すなら春日山」と座敷中を狂い舞ったのをいまでも印象深く覚えている。ちなみにこれが、私が能狂言というものをはじめて目にしたときであった。


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三十六 井上邸の天覧劇(上巻115頁)

  私は、明治十八(1885)年から、なにかのきっかけで演劇改良論を唱えるようになり、このときちょうどイギリス帰りの末松謙澄氏【のち子爵も同じ意見を持っていたので、私が以前から懇意にしていた先代の守田勘彌を通じて、そのことを市川団十郎(注・九代目)や、そのほかの俳優に伝えることになった。また芝居を改良するにはまず役者の地位を向上させなければならないということを末松氏が伊藤博文公爵に吹き込んだので、政府の高官のなかでとくに十郎をひいきにしておられた井上馨侯爵がこの機運を察して、明治二十(1887)年四月二十六日、鳥居坂の井上新邸に、明治天皇、皇后(注・のちの昭憲皇太后)、皇太后(注・英照皇太后)の三陛下の行幸を願いたてまつり、天覧劇を開催する運びとなったのである。私は一新聞記者であるから、もちろんこれに関与したわけではないが、当時のこのさなかに人一倍内情を聞き知る機会があったので、のちのちの参考にその大要だけを記しておこうと思う。
 井上伯爵が三陛下の臨幸をあおぎ、演劇(注・当時演劇といえば歌舞伎のこと)を天覧に供することが決まると、庭前の芝生に杉の皮葺きで間口七間(注・一間は約180センチ)、花道三間の舞台を作り、舞台から白洲をへだてて五、六間のところに青竹の手すりで囲んだ玉座を設け、背後には金屏風をたてまわした。

 天覧芝居は芝居の世界では前代未聞のことで、まことに畏れ多いことなので、末松氏は、まず出し物の脚本を選び、その中の文言を検閲し、勧進帳からは「御名を聖武天皇と申し奉る」という一節を削除したり、「固より勧進帳のあらばこそ」の語格が違うというので「あらばこそ」を「あらざれば」と修正したり、芳村伊十郎が勧進帳を語る時に「平家蟹」のような顔つきをして唄っては失礼になるから気をつけるようにせよ、などと猛烈な注意(原文「小言」)を連発して一同をふるえあがらせた。
  その日の時間は、午後三時から五時までで、番組、主役はのとおりである。

第一、勧進帳…≪富樫≫左団次【先代】 (注・初代市川左団次、団菊左の)
      ≪太刀持≫ぼたん【今の左団次】
      ≪義経≫】福助【今の歌右衛門】(注・5代目中村歌右衛門、戦後の名女形6代目の父)
      ≪四天王≫【亀井】金太郎【今の幸四郎】(注・7代目松本幸四郎)
      ≪弁慶≫
十郎【九代目】  
(注・9代目市川団十郎、団菊左の)

第二、高時…≪高時≫団十郎     
      ≪城之助入道≫左団次
      ≪長崎高貞≫松助【故人】  (注・4代目尾上松助)
      ≪大佛陸奥守≫菊五郎【先代】(注・5代目尾上菊五郎、団菊左の)
      ≪衣笠≫福助       (注・中村福助、のち2代目中村梅玉)

第三、操三番叟…≪翁≫芝翫【故人】 (注・4代目中村芝翫)
      ≪千歳≫家橘【今の羽左衛門の父】(注・14代市村羽左衛門、初代坂東家橘)
      ≪三番叟≫菊五郎
      ≪後見≫鶴蔵【故人】 (注・中村つるぞう?)
 

第四、漁師月見…≪漁師浪七≫十郎
       ≪こち≫升蔵【故人】 (注・市川升蔵)
       ≪ふぐ≫小団次【故人】(注・5代目市川小団次)

第五、元禄踊…≪立髪の侍≫家橘
      ≪投頭巾男≫小団次
      ≪頭巾冠職人≫松助
      ≪墨衣鉦叩坊主≫鶴蔵
      ≪茶筅売≫門蔵【故人】(注・不詳)
      ≪元禄娘島田≫福助
      ≪同≫金太郎
      ≪武家の妻≫秀調【先代】 (注・2代目坂東しゅうちょう)


このほかに、長唄連中がいた。

 さて天皇陛下は午後一時半ごろ鳥居坂臨幸になり、二十分に最初の勧進帳が始まった。ところが左団次の富樫が、ふだんの名調子とは似つかずなんとなく震えているようなので、番卒たちまでが緊張で動けなくなってしまい、守田勘彌みずからが燕尾服姿で揚幕を開けたというようなかなり滑稽な場面もあった。
 さて玉座の左右には、各宮殿下をはじめ伊藤、松方、山県、大山、榎本などの各大臣が大礼服を着て居並び、庭前の新緑と向き合って荘厳な雰囲気になっていた。

 この日は十郎でさえもがぶるぶると震えて、弁慶の大見得を切るときもなんとなく打ち沈んで見えたということだ。

 このとき二十三歳で義経の役をつとめた今の歌右衛門(注・五代目中村歌右衛門)に当時の模様を尋ねてみたところ、次のように語ってくれた。
 「私は第一の勧進帳で義経をつとめ、第二の高時で衣笠をつとめましたが、聖上陛下には、始終ご熱心に覧遊ばされ、最後の元禄踊が終わって、晩餐の際、『近頃珍しいものを見た』とのお言葉があったと洩れ承って、楽屋一同雀躍してよろこびましたが、団十郎のごときは、感極まってうれし泣きに泣いておりました。それから晩餐後、お好みとあって、山姥と曽我を叡覧(注・天子がご覧になること)にいれましたが、山姥は十郎、曽我は十郎を菊五郎、五郎を左団次、虎御前を私というような役回りで、終演後、俳優一同舞台に起立して、最敬礼を行いましたとき、陛下にはかしこくも挙手の礼を賜りました。それより二十七日は、皇后陛下の行啓があって、第一、寺子屋、第二、伊勢三郎、第三土蜘蛛(原文「土蜘」)を出、番外お好みとして元禄踊と、団十郎の忠信に、私の静で吉野山を上演いたしました。二十八日は各国大公使、内外の大官貴顕紳士方であり、二十九日は英照皇太后陛下の行啓があって、これは第一、勧進帳、第二、靱猿、第三、忠臣蔵三段目、第四、同四段目、第五、吉野落、第六、六歌仙という数々の番組を上演しましたが、この天覧劇に出演の光栄を得ましたのは、私の一世一代の光栄と思っております、云々

 以上のように、芝居の天覧というのはこれがまったく初めてのことで、その後も今日にいたるまで再び行われるにいたっていないのである。
 英照皇太后陛下は能楽がお好きであらせられたので、十郎が演じた勧進帳をご覧になったとき、その問答が喧嘩のようだと仰せられたそうである。能の安宅に比べてごらんになったとすれば、そのようにお感じになったかもしれない。
 とにかく、このことがあってから俳優の地位が一段向上したのであり、これは明治帝の御代における盛大な催しであったといえるだろう。


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 三十七
客来一味(上巻119頁)
 
 明治二十(
1887)年、麻布鳥居坂の井上侯爵邸で天覧劇があったときのことである。井上侯爵は自邸に天皇陛下をお招きする光栄に際し各部屋ごとに最高の飾りつけをしたが、なかでも玉座の置かれる書院の床の間に東山御物(注・室町幕府の将軍とくに八代義正が収集した絵画や茶器などの宝物)の牧谿(注・13世紀中国の水墨画家)作「客来一味」の対幅を掛けた。

 明治天皇は、とくにこの幅に目を留められ非常にお気に召したご様子なので、井上侯爵この二幅のうちの一幅を献上し、一幅は自分の家に置いておきたい旨を奏上すると、さっそくそれでよいということになった。天覧劇が終わり夜もふけたころ、お帰りの際にさきほどの幅を宮中にお持ち帰りになったとのことだった。

 さて、この牧谿の手になる「客来一味」というのは、淡い墨で蕪を描いた作品である。貧乏な寺に客が来た時になにもごちそうするものがないので、裏の畑でとれた蕪だけで間に合わせる、というはなしにちなんで名付けられたのである。その図柄に味わい深い趣があるため、日本においてもこれにならうものは多く、元信、雪舟、探幽などにも同じ画題のものがある。この牧谿の作は東山御物のなかでも有名なもののひとつだが、維新のあとにある大名から売りに出されたときに二幅が分かれて、一幅が井上侯爵の、もう一方は神戸の川崎正蔵氏の所蔵するところとなった。しかし井上侯爵が、もともと二幅の対なのだから、ぜひともその一幅を自分に譲るようにと、川崎氏からほとんど強制(原文「徴発」)的に取り上げた品だったのである。
 さて、天覧劇から五、六か月たって、井上侯爵が家に残っているはずの客来一味の幅を取り出そうとしたところ、どこにあるのかわからず、よくよく調べてみると明治天皇がお帰りの際に二幅ともお持ち帰りになったということがわかった。
 その後侯爵は、参内のついでにこのことを申し上げ、あの掛物は、一幅を宮中に献上しもう一幅は自分の家に残すはずでしたので、どちらかの一幅をお渡しいただきたいと願い出た。すると陛下は、なにか思われたようで、声を立てて笑われ、せっかく持ち帰ったので二幅とも手元に置いておこう、と仰せになったため、そのまま宮中にとどまることになった。
 さて一方、この話をもれきいた神戸の川崎正蔵翁は、手をたたき鳴らしておおいに喜び、井上侯が拙者より取り上げたる幅を、今度は宮中に召し上げられたそうだから、これで拙者も大満足なり、と言われたそうだ。
 その後、皇后大夫の杉孫七郎子爵が皇后陛下に、そのことをよもやまばなしとしてお話ししたのであるが、杉子爵のことであるから、掛物献上の経緯をありのままにおもしろおかしくお耳にいれたのである。すると皇后陛下はこれを興味深くおききになり非常に気の毒がられ、さいわい手元に弘法大師筆の不動尊の一軸がるので、これを井上にやってください、と仰せられたので、杉子爵はありがたくお受けしさっそく井上侯爵に伝えた。
 この不動尊は弘法大師の直筆で、承和二年年於清涼殿画之という落款がある。(注・承和二年は西暦835年)。幅が一尺(注・一尺は約30センチ)、長さが三尺ほどのぶりな幅ではあるが、長く醍醐寺に伝わったものが宮中に献納されたものだったので、侯爵は皇后陛下の厚いご慈悲に感激し、その喜びもただごとではなかった。そしてこの不動尊を掛けるたびに、かならずこの経緯を物語られたので、井上侯爵と親しく交際した人のなかで、この話を一度二度聞かなかった人はいなかったであろう。


鳥差瓢箪
(上巻
121頁)

 井上侯爵の茶道具の話のついでに、もうひとつのエピソードを話しておこう。侯爵は生まれながらの道具好きとみえ、明治二(1869)年に長崎判事として九州に赴いたとき、福岡で、祥瑞沓形向付五人前をわずか数円で手に入れたのをはじめとして、名品を見つけるたびに買い集めたので、やがて蔵品豊富な大収集家になられたのである。
 明治十四(1881)年ごろ、侯爵は外務大臣として、外務省の権大書記官信局長だった中上川彦次郎氏をともない関西に出張した。大阪の旅館に一泊し、地元の道具屋(注・古美術商)が持ってきた染付鳥差瓢箪という形物香合を侯爵が喜んで買い取っているのを中上川氏が横でながめながら、そんなものに大金を投じて、なんとなさる思し召しか、私ならば糊入れ壺にでもするほかありません、と言われたので、井上侯爵は大声で笑い、君のような書生坊にかかっては、名器も三文の値打ちもない、といって、ちょうど訪問した藤田伝三郎氏にこのことを語り、「縁なき衆生は度し難いね(注・仏の慈悲があっても仏縁のないものは救えないことから、忠告に耳を貸さない者はしょうがない、の意)」とその話をして笑ったとのことだ。
 しかし中上川氏は晩年、腎臓病にかかり引きこもりがちになったとき、僕もすこし骨董いじりを覚えていたら、これほど無聊(注・退屈)を感ることもなかったろうにと、時々口にされることがあったので、私はいつもこの例を出して、友人に趣味を持つようにと勧めることあったのである。


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 三十八
村と十郎(上巻122頁)

 
上州前橋の下村善右衛門氏は私と同年配で、明治十七、八(18845)年ごろ東京に遊学していた。正式には慶應義塾に入学しなかったものの、時々福澤先生のところに出入りして学校外の弟子としてその教えを受ける機会があった。当時は万太郎といい、厳父の善右衛門氏は前橋の生糸製造業者だった。父はそのころ相場でかなりの利益をあげ四十万円ともいう、当時の四十万円は相当の大金だったので、万太郎氏も大得意で市川十郎をひいきにし、十郎のほうもまた、彼が金持ちの若旦那らしい無邪気なかわいげがあることにほれ込み、下村さんのほうも金銭関係を離れてほとんど親類同様につきあっていたから、私も下村氏に連れられて築地の十郎の家によく遊びにいった。
 あるとき十郎が十八番の「暫」をやったとき、下村氏は十郎に顔の隈取りをしてもらい、彼の衣装を着こんで写真を撮った。撮ったはいいがあまりに着物が重たいので、非力の下村氏はよろよろして歩くこともできず一同大笑いになったのだった。
 このころ私は末松謙澄氏と話し合って盛んに演劇改良論を唱えていたので、十郎に面会する機会が多く、同時に先代守田勘彌氏とも懇意になった。

 あるときトルコの軍艦が紀伊半島沖で沈没したことがあり、それを守田勘彌が中幕物(注・第一、第二狂言のあいだに出される一幕の狂言)に仕立てたいということでに脚色を依頼してきたので、私は以前に福澤先生からきいていた、尺振八が渡米の際に暴風雨に遭い汽船から逃げ出そうとしたという逸話(注・23を参照のこと)をそのなかに入れ込んだ脚本を作り、おかしみを出したりしたのであるが、政府が外交上の問題があるということでこの上演を許可してくれず、そのまま中止になってしまったのは残念だった。
 私と市川十郎の交際はこのときから始まり、後年かなり親密に行き来することになったので、そのことはまた、おいおい記すことにしよう。


売文生活(上巻124頁)

 私は母に似て、容貌も性格もいちばん多く母からの遺伝を受けていたが、文芸好きという点でもその影響を受け少年時代から読書や作文にとことんの興味を持っていたので、新聞記者という職業は私の天職で、人から後ろ指さされるようなこと(原文「不倫」)ではないと信じていた。
 さて、私の時事新報在職もすでに足かけ六年、新聞の論説欄の執筆も福澤先生に指導され、今では先生の口述筆記でも自筆の論説でも、ほとんど先生の目を通さずに時事新報の社説欄に掲載されるようになっていて、俸給もかなり多額になっていた。
 何の不満もないというべきところだったが、私はうまれつき、よくいえば趣味、悪くいえば道楽が高じがちで、衣食住に関して贅沢をすることが多かった。そのため、新聞記者として文章書き(原文「売文生活」)を続けたのでは、とてもこの性分を満足させることができないことに気づき出した。また同時に、新聞記者として短時間にいそいで文章を書くということ快感を感じるというよりむしろ苦痛を覚えることのほうが多く、ときとして、明日掲載のための論説の内容を考えるために夜遅くまで頭を使わなくてはならないこともあり、健康にさわることも出てきた。

 文章を書くということは、衣食にこと欠かず、「五日一石、十日一水」(注・画家が五日かけてひとつの石を、十日かけてひとつの川を描くように、じっくりていねいに、の意味)というように、気持ち安らかにやってこそ趣味を感じるというもので、仕事に束縛され、いやいやながら筆をとるのはむしろ苦痛だと感じ始めていた。そこで私は、一時期実業界に寄り道して生活の安定を得てから、また文芸生活に戻って気楽に文筆の趣味を楽しまなくてはならないと、ここに新聞記者をやめる決心を固めるにいたったのである。
 私が福澤先生の勧告に従わずに、まず生活の安定に必要な資を蓄えるために新聞記者を早くにやめ、いっとき実業界に寄り道したということは、言うまでもなく失策だった。二兎を得ようとしている者さえ一兎を得ないのが世のならいなのに、には往々にして数兎を得ようとする悪い癖がある自己満足をすることはあっても、後世に足跡を残すような何ごともなしえなかったのはこのためだったのである。私がもしも先師の訓告に従って一心に文筆業者(原文「操͡觚業者」)として働き続けたなら、東京の文壇で、貧弱ながらなにがしかの者になりえたであろうに、実際にはなにをやってもそこそこ器用なせいで趣味は十個以上にわたり、実業界にはいってからも、銀行、紡績、鉱山、製紙、百貨店の各方面に身を置き、使う側からは重宝がられたが、さてなにが私の仕事なのかと問われると、これだ、と答えられるものがなにもない。結局人生の成功は自分の持つ力を一点に集中することで得られるもので、わたしのような八百屋主義では大成することはないのである。ここにこれを懺悔し、これからの人たちの参考にしてもらえればと思う。


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 三十九
洋行の準備(上巻126頁)

 私は新聞記者をやめて実業界に進むと決心したが、それと同時に、まず洋行したいという希望を持っていた。洋行は必要があってのことでもあった。というのは、明治初期の西洋文明輸入は洋学者の一手にになわれており、官吏の世界ではもちろんのこと、どのような分野においても、同じことを言っていても、一度洋行したことのある者でなければ人は耳を傾けなかったのである。また同じ学力で役人になったとしても、洋行者とそうでない者のあいだには月給の差が二倍あるというような時代だった。だから何をするのでも、一度洋行して箔をつけなくては始まらないのが当時の情勢で、わたしも是非とも洋行したいという希望を持ったのである。
 ところがここに願ったりかなったりの機会が訪れた。親友の下村万太郎君の父、善右衛門氏が、明治十九(1886)年ごろ生糸の商売で巨額の利益を得、当時の懸案であった生糸の直輸出を計画することになり、まずアメリカの状況を視察しなくてはならないというので適当な人材を選んで派遣しようとしていたのだ。そのとき万太郎が、父に私を推薦してくれたのだ。
 そのころの生糸の輸出業は維新以来すべて外国人の手に握られていた。わが国の生糸商は横浜に商館を構える外国商人に生糸を売り込むだけで、輸出に関してはすべて外国商人が行っており、日本人にとって不利益であることがだんだん明らかになっていたのである。
 明治八、九(18756)年ごろから商権回復運動というものが起き、日本の産物を海外輸出する場合には日本人が直接これに携わるという試みがなされたのであるが、なにかと失敗が多かった。最初に朝吹英二氏らが、大隈重信氏のち侯爵の大蔵卿時代に政府から資金を借り生糸の直輸出を企てたものの、時期尚早でさんざんの失敗に終わっていた。そのあとは、これを継続した日本生糸直輸出会社というところがわずかに残っているだけだった。
 下村善右衛門氏が今回、生糸の直輸出を企てたのも、このような欠陥を補うためのもので、私はその直輸出の事業視察使として渡米の相談を受けたのである。むろんのこと二つ返事で快諾し、福澤先生にそのことを話すと、先生は私を新聞記者としてとどめおきたい気持ちと、下村の資力が目的を達するまでもつのかどうかを心配する気持ちから、簡単には承諾していただけなかった。だが、私があまりに熱心で矢も楯もたまらないという様子なのを見て、とうとう許可してくれた。
 それで、明治二十(1887)年五月、私は時事新報社を退職した。渡米に先立って日本の生糸生産地を視察するため、群馬の前橋、富岡をはじめとして信州の上田、松本、諏訪などの製糸工場を訪問し、さらに横浜の生糸取引の実況も視察した。九月中旬に一応の調査を終え、同月末におおいなる希望を抱いて当時アメリカに就航していた3500トンの汽船、ゲ―リック号で渡米の途についたのである。

 

在米の本邦人(上巻128頁)

 私が明治二十(1887)年九月末にゲ―リック号で渡米したときの同船者には、印刷局長の得能通昌、同技師の大山某、在英日本公使館書記官の鍋島桂次郎(原文「次郎」)、寺島誠一郎寺島宗則伯爵の長男でのちに伯爵をぎ貴族院議員、副島道正副島種臣伯爵の長男でのち伯爵を、徳大寺公弘徳大寺実則公爵の長男でのち公爵を、など十余名だった。
 私は生糸直輸出業を視察するのに先立ちアメリカの商習慣を調査する必要があると思い、まずアメリカの商業学校にはいり、その原則を研究するのが早道だと思った。そこでニューヨークから七十マイル(注・一マイルは約1.6キロ)はなれたハドソン河上流のポキプシーというところにあるイーストマン商業学校に入学し、翌年三月ごろまで同地に滞在し、同月同校を卒業した。そしてニューヨークにうつり、いよいよアメリカの商業の状況を視察することになった。
 当時アメリカに滞在していた日本人には、ポキプシーに、川崎金太郎のちに八右衛門、大三輪奈良太郎のち名古屋明治銀行頭取、福澤一太郎のち慶應義塾塾頭などがいた。ニューヨークには正金銀行に山川勇木のち正金銀行取締役がおり、印刷業視察の星野錫、森村組の村井安固、生糸貿易商会の新井領一郎氏などがいた。またフィラデルフィアには、留学中の岩崎久弥、福澤捨次郎、福澤桃介らがおり、ワシントンには当時日本政府から圧迫を受けて渡米中だった馬場辰猪氏がおられ、日本公使館には海軍武官として斎藤実のち子爵、総理大臣が滞在しておられた。斎藤氏は当時、美青年将校だったので、ワシントンのモガたちのあこがれの的で、同地の交際場の裏の花形だという評判も耳にした。
 なおそのときには、日本から同船した得能通昌氏が、当地において造幣事務の調査中だったから、氏に日々随行して、私の視察のうえでも大きな便宜を得ことは好都合であった。


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 四十
米国人の学問(上巻129頁)

 私ポキプシーのイーストマン商業学校に在学中、アメリカ人の学問に対する考え方が、われわれとはかなり違っているということを知った。
 学生たちは下宿屋に滞在するという方法のほかに、イーストマン商業学校がホプキシーの土地の繁栄に寄与しているため普通のお金持ちの家庭で縁故のある学生を紹介で二、三人下宿させるということが広く行われており、そのような家庭に下宿する場合も多かった。福澤一太郎氏の下宿していたオートンという未亡人のところには年頃の娘さんがふたりいて非常に上品な家庭だった。私の下宿していたところもそれなりの家庭で、もうひとりアメリカ人の学生がいた。
 この学生があるとき私にアメリカ各地の商業学校の事情について話してくれたところによると、ある学校では入学金に三十ドルから五十ドル取られる。またある学校では百ドル取られたうえに、月謝もちょっとした高額なのだそうだ。しかし、今入学金や月謝の安い学校を卒業してニューヨークなどの商店に住み込もうとすると、初任給がこれこれとなり、ほかの高等学校を卒業すれば、その入学から卒業までの学費が、しめてこれこれくらいの高額になるかわり、卒業後の収入がこれこれとなる。つまり、学費を多く払って卒業後の収入が多くなるか、学費は安いかわりに卒業後の収入も少ないかを比較して、どちらが得になるかについては学生の入学時のふところぐあいと相談し、また卒業後の収入の差などを検討して決めるべき問題であるという。
 この人の口ぶりから、日本で学問をするというのは自分自身の義務であって、はじめから利益計算は度外視しているのに対し、アメリカ人は学問を一種の商品のように考えて、価値の高いものや値段の安いものを選んでいることがわかった。これはまるで商品売買と同じで、使った金にたいし、どれだけの収入があるかを計算するのであり、つまり学問も買い物なのである。さすがに拝金宗の国だけあって、金銭に対する打算は日本人とは根本から違っていると思った。
 それからというもの、他の学生たちの考えにも注意していると、かれらはこれをふつうのことだと疑いもなく考えていることがわかり、学校に入学する者は最初から将来の計算をしていることがわかった。
 私のような日本流が正しいのか、それともアメリカ流が道理にかなっているのか。すなおに考えればアメリカ人の考えがむしろ妥当だと思ったのであるが、これは、私がアメリカでしばらく学校生活をしているときに得た感想なのである。


ワナメーカー百貨店(上巻131頁)

 私はポキプシー商業学校を卒業後、学校の先生でハスキンという親切な教授が各地の商業機関宛ての紹介状を書いてくれたので、これに非常に助けられた。
 明治二十一(1888)年三月にポキプシーからニューヨークに移り、ハスキンの紹介により株式取引所の調査をした。また生糸貿易会社の新井領一郎氏らの紹介を得て、生糸織物のいちばん盛んなパターソン地方を視察した。

 さらにフィラデルフィアに赴き、そのころアメリカ一とされていたワナメーカー百貨店を見学した。百貨店は当時アメリカでもまだ珍しい小売り業態であったが、これはそのうち必ず日本にもやってくるにちがいないと思ったので、私は四、五日にわたり調査を続けた。

 このころはまだアメリカでチェーン・ストアの仕組みが発達していなかったので、百貨店が地方からの注文を受けて荷物を発送するということがかなり多く、当時のワナメーカーの支配人の話によると、同店が一日に地方に発送する貨物は約三万六千個にのぼるということだった。
 今日ではあまり珍しくないことだが、店員が客に売った勘定書と現金を離れたところにある帳場に送り、その受け取りやつり銭などを、例の針金づたいにやりとりする方法を、当時非常にめずらしく思った。また、特に女性の店員が大活躍しているのを見て、これはわれわれがまだ見たことのない女性の職業で、いつかきっと日本にも輸入されるされるにちがいないと思った。私が明治二十六(1893)年に三井銀行大阪支店長時代にはじめて女性を銀行の金銭出納係に採用したのも、また三井呉服店改革して百貨店のはしりとなったのもみな、このワナメーカー視察があったおかげで、たまさか実現したものなのである。


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