だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百八十一  護国寺境内の茶化(下巻485頁)

 関東大震災(原文「癸亥大震災」)ののち東京市内を見渡すと、どこもかしこも荒涼(原文「満目荒涼」)として廃墟の感があった。神社仏閣も多くは烏有に帰して、東京の人々の信仰にも多少の影響を及ぼしかねないというおそれもあったことから、私は、京都の金閣や銀閣のような、参詣者に一種の清浄な気分を与えるような場所を提供する必要があるのではないかと思った。
 市内を見回しても、音羽護国寺以外にはほとんどそれに該当するところがないように思われたので、私は護国寺をそのような目的の浄境にしたいものだと思い、京都方面の実例にならって、同寺の境内を茶化する(注・茶の湯の影響を持たせる)必要があると思っていた。
 震災後のそのようなとき、麻布の天徳寺にあった松平不昧公の墓地が、道路改正のために別の場所に移転することになった。松平家では、それを旧藩地である松江の廟所に改葬する意向であるということを聞き、私は松平直亮伯爵を訪問して、その移転先の墓地を音羽護国寺にしていただけないかと乞うてみた。すると幸いにそれが承諾されたので、今度は護国寺の執事に相談し、三条公(注・三条実美)の塋域の隣地の三十坪余りの土地を提供し、これを松平家の墓域とし、その一角に不昧公ならびに、?(靜の左側に彡)楽院夫人の墓碑を、移建することになった。護国寺はここに、茶道の本尊を迎え、境内の茶化の端緒を開くことになったのである。
 さて私は、大正十四(1925)年の井上侯爵家蔵器入札会で、馬越化生翁らとともに同会の札元に対して、不昧公のために護国寺境内に茶室を寄進することを勧告し、西南にある景勝の地を選んで不昧軒、円成庵の広間と茶室を建造するということになった。これについては松平家もとても喜び、天徳寺の墓所にあった不昧公筆塚石、つくばい、石灯籠ならびに、不昧公の師家(注・禅僧の師)にあたる鎌倉円覚寺の誠拙禅師のち大用国師】筆の「弾指円成」の四字を彫りつけた門扉までをも寄贈していただいた。そこで茶室を円成と名づけ、広間を不昧とすることにした。円成庵には、護国寺貫主の小野方良行師の、不昧軒には、松平直亮伯爵揮毫の扁額を掲げ、大正十五(1926)年十月十七日に開庵茶会を催した。
 そのとき、松平伯爵家が不昧軒広間の飾りつけを引き受けてくださり、床には牧谿筆の松に叭々鳥幅を掛け、その前に中興名物の古銅象耳花入を置いて白玉椿をはさみ、床脇棚には時代片輪車手箱を飾った。また展観品として、加賀光悦茶碗を出陳してくださったばかりでなく、護国寺に対しても、不昧公の肖像ならびに同公筆による枕流の二大字幅を寄進してくださったことはまことに望外の好都合であった。
 その後、山澄静斎(注・山澄力太郎=力蔵の子)が、先祖の宗澄の追福(注・追善)のために宗澄庵を寄納し、これに先立ち私が寄進した仲麿堂、三笠亭とともに三席の茶室が並んだので、いよいよ境内に茶気分をただよわすことになった。
 私はこのほか、さらに大規模な茶事公会に使用するための大広間の必要を感じ、原六郎翁の品川御殿山邸内にあった慶長館に目をつけ、嗣子の邦造君を通じて寄進してもらえるよう懇望した。というのも、原翁は私の墓所の北隣りに終焉の地を所有し、百年の後には私らとともにこの地に永眠する人であるからで、翁の記念物として慶長館を寄進してもらえるよう願ったのである。
 すると原翁は喜んでこれを承諾され私たちの希望を叶えてくださったので、護国寺のほうでもとてもよろこんだ。さっそく仰木魯堂に委嘱して、慶長館を護国寺境内の西側の薬師堂の裏手に移建することになった。
 この慶長館というのは、もともと江州(注・近江)三井寺境内の一塔頭だった月光院というもので、現存する円満院よりも比叡山寄りの高地にあった。表十八畳二間、裏十畳二間が連続しており、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間にある一間幅の通路)もいれると約七十畳にもなる。ふすまの張り付けは狩野元信筆で、有名な水呑虎の図も、このなかにあるものである。
 明治二十(1887)年ごろに、三井寺でこのふすまだけを売却したいという相談があったとき、井上世外侯爵の勧めに従って原翁が買収されたものであった。しかし原翁は、このふすまがいかなる座敷にあったのかということを一応、実地検分しようということで、その後三井寺に赴き、とうとうその建物までも引き受けることになったのである。
 ところで、これを慶長館と呼ぶのは、慶長年間において当館に大修復を加えたためで、創立の年代は鎌倉時代か足利時代であるといわれ、まだ一定の説はない。とにかく、五百年をこえる古建築であることは疑いなく、護国寺に移建してほどなく保護建造物に指定された。護国寺ではこれを月光殿と名づけ、小野方貫主がその扁額を揮毫した。
 今では、法要や茶事などのときに、護国寺にとっては非常に大切な建物になり、大師会をはじめ、その他の茶事のためにも使用することになったので、客殿、庵室もようやく備わって、護国寺境内の茶化の理想が実現されることになったのは、私たちのおおいに満足するところである。

 この際にあって、執事として内外の交渉にあたり、これらの事業を進めたのは佐々木教純師であるが、師が小野方良行大僧正のあとをうけて最近貫主に栄進されたことは、本寺にとって、まことに幸慶のいたりだった。今後建設の必要がある多宝塔、宝物館なども、この貫主在職中に必ず完成されるに違いないと、私は注意深く観察(原文「刮目」)しながら期待している。


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二百八十二  平家納経副本完成(上)(下巻489頁)

 今から七百六、七十年前の長寛、仁安(注・ともに西暦1160年代)の昔、平相国(注・へいしょうこく=平清盛のこと)清盛以下、同族の三十二人が厳島神社に奉納した「平家納経あるいは、厳島経ともいう」は、わが国の国宝中の国宝として、もっとも貴重なものである。
 近来、拝観者の数が非常に多くなり、これを巻舒(注・けんじょ=巻いたり広げたり)するたびに、胡粉や金箔の剥落が起こり、ひどい場合には折り目を生じるなど、汚損の度合いが加速している。そのことを時の厳島神社宮司の高山昇氏が憂慮し、副本を製作(原文「調製」)する計画を立てた。
 しかし神社の経済的な事情でその費用を捻出することができないので、大正九(1920)年二月、高山氏は古社寺保存会員の文学博士である福井利吉郎氏と相談のうえ、同十三日に両人揃ってわが伽藍洞を訪問され、副本調整費用調達の件について愚見を問われた。
 この年四月十八日、御殿山益田孝男爵邸で例の大師会を開き、その会場に古経巻を陳列することになっていたので、その機会を利用して平家納経の四、五巻を陳列し、当日来会する人々に、この無二の国宝の汚損を防ぐために副本製作がいかに緊要であるかを納得してもらい、ひとりにつき副本一巻の製作費用の寄進を願い出てはどうかと発案した。すると、両氏ともに、それはもっともな話であると同意されたので、すぐに益田男爵の同意も得てこの計画を実行に移したのである。
 これが意外なほどに来会者の同情を引き、特に時期が例の好景気時代の頂点にもあたっていたため、二、三時間しかたたないうちに、すぐに三十人余りの寄進者が出そろってしまい、副本製作費用が難なく集まってしまった。これはまことに幸慶のいたりであった。
 こうして副本調整の事業は、すべて田中親美氏に委嘱することになったが、平家美術の精粋をきわめたこの納経を、田中氏がいかに天才的技能者(原文「神工鬼手」)であるとしても、はたして原本どおりに調整できるものなのだろうかということは私たちの大きな心配の種だった。しかし試しにまず製作された提婆品(注・第12、だいばほん)、巌王品(注・第27、ごんのうほん)を見てみると、それらは原本に優るとも劣らない出来栄えであったので、さっそく田中氏を督励して、その製作に着手してもらった。
 これが国宝の中でも最貴重品であるので、文部省から私と益田孝男爵にその保管責任を命じられたので、一度に十巻ずつ品川御殿山の益田家宝庫に納めておき、田中氏が必要に応じて二、三巻ずつ取り出して模写することになった。
 経文はもちろんのこと、地紙の金銀砂子、表裏の絵図、装飾の巻金軸銀透かし彫りなど、平家美術の極致を原本通りに模写しようというのであるから、五年半の歳月がかかった。そのあいだには、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の大震災などもあったが、大正十四(1925)年についに完成し、十一月十八日、まず経巻だけを厳島神社に奉納する運びとなった。それは、私たちにとってこの上ない喜び(原文「欣快措く能はざる所」)であった。
 この副本には、願文一巻を添えることになり、私がその文を作り、益田男爵がそれをしたためた。それは、次のとおりである。(注・旧字を新字にあらためた)


 「伏て惟る(注・おもんみる=考えてみる)に、長寛仁安の際、平相国清盛以下同族三十二人、厳島神祠に奉納の法華経一部廿(注・二十)八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経各一巻は、願文(注・がんもん。冒頭に書かれた趣旨)所載の如く、花敷蓮現之文、玉軸綵之典、尽善尽美(注・経文の内容も、使われた材料も善美のきわみを尽くし。なお、原文では誤植らしく蓮の字が連に、の字が䏼になっている)にして、天下無比の霊宝たり、而して奉納後七百六十余年をへて、儀容儼存嘗て(注・かつて)残欠磨損の痕跡を留めざるは(注・威厳を保ったままに破損欠損していないのは)、偏に(注・ひとえに)神明の呵護にして、人天の幸慶、何物か之に加へん、然るに近年令聞遠邇に敷き(注・近年その評判がほうぼうに伝わり)、群衆争うて拝観を希ひ、巻舒愈々繁くして、汚損漸く加はらんとす、厳島宮司高山昇、夙に此に見る所あり、速に副本を製して、平常衆庶展観の便に供せんとし、大正九年二月、古社寺保存委員福井利吉郎に諮り、相携へて高橋義雄を訪ひ、問ふに副本調整資金醵集の事を以てす、偶ま男爵益田孝、弘法大師会を、品川御殿山碧雲台に営むに会ふ、義雄乃ち益田男と謀りて、当日平家納経数巻を会場に披展し、事由を臨場の士女に告げて、一人一巻調整費の喜捨を乞ひしに、来衆欣んで之に応じ、未だ半日ならずして、三十四人の浄施を獲たるのみならず、其後更に賛加を望む者あり、応募者実に下記連名の多きに達したるは、誠に稀覯の盛事と謂ふべきなり、斯くて、副本調整の資已に整ふや製作一切の事を挙げて、田中親美に託し、爾来数星霜、結据労作、備さに艱苦を嘗め、又其中間癸亥の大震劫火に遭遇したりと雖も、幸ひに何等の障害を蒙らず、既にして菊地武文、高山宮司に代りたるも、亦能く其意緒を継ぎ、今茲大正十四年初冬に至りて、願文一巻、経文三十二巻の複写全く成り、神工鬼手、殆ど前倫を絶ち、精緻優麗、将に原本を凌がんとするの慨あり、是に於て浄施の士女相棒持して、親しく厳島神祠に賽し、隨喜渇仰して、謹んで之を宝前に奉納す、冀(注・こいねがわ)くは神明大慈眼を垂れ、我等の微衷を照覧し給はん事を、誠恐誠惶頓首敬白

 大正十四年十一月十八日   (連名略)」



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二百八十三  平家納経副本完成(下)(下巻492頁)

 前項(注・282平家納経副本完成(上)を参照)に記述したように、平家納経は田中親美氏の五か年半の丹精によって原本にも劣らない副本ができあがった。そこで、清盛の願文に記載されている仁安元(1166)年十一月十八日という月日にちなみ、大正十四(1925)年の同月同日に、この副本を厳島神社に奉納することが決まった。
 その奉納前に、副本寄進者や一般の同好者に展示したいと思い、まず上野帝室博物館の許可を得て、十一月十一、二、三の三日間、原本と副本をあわせて同館の表慶館に展陳する運びになった。
 ところがその前日の九日に、皇后陛下(注・貞明皇后)が帝室博物館に行啓あらせられたので、原本十巻と副本全部とを御覧にいれたところ陛下はたいへんに御感心なさり(原文「御感 斜ならず」)、破格なこととして田中氏を召し出され、「さぞご苦労であったろうが、大層好く出来ました」というありがたい御言葉を賜ったのである。田中氏は、光栄身に余る思いで、陛下の美術奨励の思し召しの深いことに感泣したのであるが、これは、田中氏ひとりの光栄であるばかりでなく、寄進者一同にとってもまことにありがたいことだった。
 こうして表慶館における三日間の展観が大盛況のうちに終了すると、今度はこれを京都恩賜博物館に陳列して、十五、六の両日に東京でと同じように一般(原文「衆庶」)の観覧に供した。 
 そしていよいよ十一月十八日、午前十時に厳島神社に奉納するという段取りなので、私たちは、馬越恭平、野崎広太、田中親美、森川勘一郎、吉田丹左衛門、その他東京、京阪の道具商連中といっしょに神殿に参列した。
 御戸帳の内検に一段高く金幣を立て、その両側に供物を供えて、菊地宮司以下、神職が列座したうえで、馬越恭平翁が寄進者総代として例の奉納文を朗読し、これから一同で玉串を神前に捧げ奉納式は終了した。
 私は欣喜のあまり、次の一首を口ずさんだ。

    年を経て写し終へたる法の巻 神に捧ぐる今日の嬉しさ

 前述したように、平家納経は、まず経巻だけを奉納し、次いで原物どおりの金銅篋(注・はこ)を奉納して、はじめて国宝中の国宝たる平家納経の副本が完成したのであった。
 この副本調整には五年半を費やした。その間に、大正十二(1923)年の大震災があったので、私にとっては思い出しても身の毛がよだつような事件があった。れは次のようなできごとだった。
 副本の調整中、私と益田孝男爵が、文部省からの命令でそのその保管者となっていたので、神社から十巻ずつ東京に持ってきて、それを品川御殿山の益田男爵の倉庫に保管し、田中親美氏が必要に応じて二、三巻ずつ渋谷の自邸に持ち帰って順次模写をしていた。しかし渋谷と品川を往復するのが、あまりに遠くてたいへんなので、もう少し近場に移転してもらいたいという請求があった。そこで、私は、当時赤坂山王台下にあった平岡吟舟翁の倉庫が、翁の秘蔵の袋物類を保蔵するために、この上なく堅牢な石造りの建築になっていることを知り、納経の一部をこの倉庫に移すことを決定した。大正十二年八月二十八日にそれを決行しようとしたところ、平岡翁が国府津の別荘に行って不在であったため、翁が帰宅するまでしばらく猶予しているあいだに、例の震火災が起こったのである。
 平岡翁の倉庫は無類に堅固なものであったが、石造りだったため地震によって壁間に亀裂が生じ、その隙間から侵入した猛火の舐めつくすところとなったのである。もし平岡翁が在京していたならば、少なくとも納経の三、四巻は、この倉庫の中にあって焼失したであろう。それは思うだけでも恐ろしい危険なことだった。それが、偶然のおかげで危険を免れたのは、このような名宝に対しては不思議な神明の加護があるからなのである。
 私はこれに先立ち厳島に赴いたとき、納経を保管していた倉庫を見せていたいただいたが、その倉庫は木造で、しかもかなり粗末なものであった。そして、いつのことだか、放火によって半焼したことさえあったのである。
 さて、菊地宮司らも、厳島神社の什宝の数が非常に多いにもかかわらず、宝庫がきわめて粗末であることから、当社にもっとも関係の深い毛利公爵、浅野侯爵の両家をはじめ、その他一般の篤志家の援助を請うて、完全な宝庫と、宝物陳列館を建設しようとされている。そのために目下、熱心に勧化(注・かんげ=寺のための寄付集め)を行っておられることは、まことに時宜を得た盛挙であろう。
 およそ古代の宝物というものは、人為的であれ、自然的であれ、さまざまな障害に出遭って、破損したり、散逸したりして、完全に伝存しているものは非常に少ないものだ。にもかかわらず、平家納経は、七百年余りもの前に平家一門が奉納したときのままに、経巻、容器ともに完全に保存されてきた。このことはまさに、平家納経が国宝中の国宝であることの理由なのである。
 だから私は、前述した危険を追懐するたびに、慄然として、鳥肌が立つ(原文「肌に粟する」)思いをせざるを得ない。これこそが、私の一生のうちで、もっとも恐ろしかった思い出であるので、ついでのことながら、ここにそれを告白する次第である。



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二百八十四  東郷元帥懐旧談(下巻496頁)

 私は明治三十八(1905)年の末に、島崎柳塢(注・りゅうう)に追儺厄鬼図を描かせ、東郷元帥
(注・東郷平八郎)に五字讃を乞い、同年の歳暮掛けにしたことがあった(注・129「東郷元帥の五字讃」参照のこと)が、大正十四(1925)年、またすこしばかり思いたつところがあり、自作の茶杓に「山櫻」という筒書付を乞い、また茶室掛けとして「淸寂」二大字の揮毫を願い出た。

 すると元帥は、早速執筆のうえ、取次人である下條桂谷の門弟、八木岡春山に下付してくださったので、私は同十二月十日の午前九時半ごろから八木岡春山を連れて上六番町の東郷邸に推参し、うやうやしく御礼を述べた。
 東郷邸は、木造一階建ての簡素な西洋館で、玄関にはいると、右手に三間四方(注・一間は約1.8メートル)ほどの応接間がある。中央のテーブルのまわりに四脚の椅子があり、片隅にはソファ一脚が置いてあった。北向きの窓の内側に、はく製の鳥類や、石膏の人形、あるいは葵の紋散らしのある飾り太刀などが雑然と並べられていた。
 やがて女中が私たちふたりに番茶を運んできたあと、元帥は、ねずみ色のセル地無紋の羽織に、手織りらしいブツブツとした粗末な袴を着けて部屋にはいってこられた。ひげはもはや真っ白になっていて、鼻の下とあご(原文「腮」)に少々刈り残しがあり、頭髪にはいくぶん黒いところも残っているというかんじだった。
 元帥は気軽(原文「無造作」)に応接されたので、主客はそれぞれ椅子にすわり、まず私からの御礼を申し述べたあと、よもやまの雑談に移った。
 そのなかで、元帥が私の質問に対して率直に物語られたバルチック艦隊の動静についての談話はすでに前述(注・同じく129参照のこと)したので、ここではその他のことについていくつか記述しようと思う。
 私が元帥に対して、閣下はお若い時に禅学を修められましたか、と訊いたのに対する元帥の答えは次のようなものであった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分の少年時代は、尊王攘夷論が天下に充満していたときで、薩摩のはしばしに至るまで、人心おのずから穏やかならず、西郷、大久保等が先達となって、しきりに国事に奔走する折柄とて、自分が読書の稽古をしたのは、十七歳のときまでであった。
 そのころ自分の隣家に、伊藤という陽明学の先生があったが、この人は藩中でも、すこぶる高名で、西郷も大久保も講義をきいたり教えを受けたりしたことがあった。
 しかるに、自分はその隣家なので、始終その門に出入りして陽明学の講義を聴いたので、禅学を研究したとか僧侶の提唱(注・説法)を聴いたとかいうことはないが、心学の大要はこの伊藤先生より聞知することを得たのである。
 鹿児島では、このころより、海軍振興の藩論が起こり、自分等は少年ながらも、進んでこれを練習せんとする志を立てたが、一方京都において、倒幕論が進行し、薩長連合の結果、形勢いよいよ急迫したので、自分等は薩摩の軍艦春日丸に乗り込んで大阪に赴き、すぐに上陸して京都に向かわんとしたところが、それが慶応四(1868)年正月二日のことで、伏見鳥羽の朝幕衝突戦が、まさに勃発せんとするときであったから、乗ってきた軍艦を棄てておくわけにもいかず、中途より引き返して、軍艦に乗り移らんがため大阪の方より押し寄せ来る幕軍と、京都の方より進出する薩長軍の間を通り抜けて、ほどなく戦争が始まるならんと思いつつ、同志とともに大阪に立ち戻り、小船に乗って天保山沖に繋いでおいた春日丸へ漕ぎつけたが、二日の晩より三日にかけて、大阪方面に火の手があがったり砲声が聞こえたりするので、いよいよ戦争が始まったことを知り、春日丸と運送船二艘を率いて大阪沖を抜錨し、一路鹿児島に向かわんとしたところが、榎本武揚の率いていた幕府の軍艦数艘がその進路を横切って居るので、運送船の中一艘をまず四国の方に放ちやり、春日丸は他の運送船一艘とともに紀州海峡の方に避けたのを、榎本等の軍艦が追いかけてきて、三日より四日にわたって、しきりに砲戦を交えたが、榎本等は大阪方面のことが気にかかったとみえ、いまだ勝敗の決しないうちに引き上げたので、春日丸は運送船を引き連れて無事に鹿児島に帰着することを得た。
 それより官軍が江戸城を受け取って、東北佐幕藩の征討となり、黒田清隆、山県有朋の連合軍が越後の長岡を討伐する際、海上応援として軍艦に乗り込み、最初に能登の七尾に到着し、引き続き越後の海岸を巡航して海上より官軍に加勢した。
 また函館五稜郭追討の際は、やはり軍艦で北海道に赴き、かの戦争は約七か月ばかり続いたので、五稜郭降伏まで北海道沿岸の諸処で佐幕海軍と砲戦を交えたこともあった。
 その後明治四(1771)年にいたり、日本おおいに海軍を拡張しなくてはならぬという形勢になったので、自分は十二人の同僚とともに、海軍練習のため英国に渡航することとなったが、その十二人中、今日生き残って居る者は、自分と八田祐次郎(注・はったゆうじろう。裕次郎が正しいか?)の二人のみである。
 さて自分が英国滞在の七年間には、日本において種々の事変があった。ことに西南戦争のごとき、薩州出身の自分等としては、その際帰国して国事に尽くすべきはずであったが、先輩よりの勧告に、国に尽くすはそれぞれの道がある、今日帰国して、中途で海軍の研究を棄ててはなんにもならぬから、十分研究しをとげて、他日国家の用に立つ方がよかろう、と言われて、いかにももっともだと思ったので、爾来、水夫のことより始めて、躬行実践の修業を続け、明治十一(1878)年になって首尾よく帰国したのである。」

 私はこのような東郷元帥の直談をきいて、多大な感興を催した。向寒の際(注・寒い季節に向かう折柄)、一層ご自愛あらんことを乞う、と申し述べて、西洋応接間をあとにした。すると元帥は私たちを玄関まで送り出されたので、深く元帥の好意に感謝して、八木岡とともに同邸を退出したのである。 

 


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二百八十五  仏法僧(下巻500頁)

 仏法僧は、またの名を三宝鳥という(注・コノハズクのこと)。私は多年その声にあこがれて、紀州高野山で三回、大和室生寺で一回、聴聞を企画しながら毎度失敗したので、今度は木曽の福島興禅寺に出かけ声を聞こうとして、このときもそれを果たすことができなかった。
 ところが大正十五(1926)年七月、名古屋の茶友である森川如春が、先日三河国鳳来寺で仏法僧をきいてきたが、そこでは、宵の内から、ふんだんに鳴きだすので、簡単に聞くことができると言われた。ここにおいて、私は長年の宿望を達する時が来たと非常によろこび、愚息の忠雄、田中親美、稀音家六四郎(注・当時は杵屋六四郎)を同伴し、ちょうど上京中だった森川如春を案内人(原文「東道」)にして、同十七日に、三州(注・三河国、現在の愛知県)鳳来寺に参詣し、その夜、まさにはっきりと鳥の声を聞くことができたのである。
 七月十七日の朝、私は同行の五人で東京を出発、午後三時に豊橋着、すぐに豊川電車に乗り換えて、約三十分で長篠駅についた。駅から自動車で約二十分で門谷村に到着したが、この村は戸数が四、五十あるかどうかという規模で、そのなかほどに小松屋という旅人宿があった。この宿でも仏法僧を聞くことができるそうだが、私たちは、前もって鳳来寺に一泊の依頼状を出しておいたので、そこで登山の支度を整えた。
 そこから鳳来寺の奥の院までは、石の階段が千二百段だと知らされた(原文「註された」)が、鳳来寺はその手前の八百段のところにあるので、一同はおおわらわで石段を登り、夕刻に鳳来寺に到着した。 

 寺の住持である田畑賢修師は、私たちを非常に優待してくださり、夕食後庭前に出て、仏法僧を聞くための涼み台などを用意してくださったので、一同は今か今かと待っていたところ、午後九時ごろになって、前山の杉の木の間からブッポーソーという声が聞こえ始めた。
 最初のブッポーの二音の部分は非常に短く、あとのソーの部分がやや長くて尻上がりとなり、鼓(注・つづみ)の裏皮に抜ける音のように、ポンと余韻を残して響き渡る。それが山谷に反響して朗らかで、フクロウか鳩に似ているが、それよりもやや甲高く力強い感じがした。
 こうして一羽が鳴き始めると、反対側の山でも他の一羽が鳴きだし、シテ、ワキの掛け合いとなったが、そのようなことは、この山でもかなり珍しいことであるそうだ。
 その後私は、朝鮮で捕獲した仏法僧のはく製を見たが、大きさは、頭から尾までが七寸強(注・一寸は約3センチ)で、鳩よりもやや小さい。くちばしは黄色で、胸が孔雀のような瑠璃色を帯びて、美麗な斑変わり(注・まだら模様)がある。足の指は、前が三本、うしろが一本で、一見、とて九官鳥に似ているが、この鳥は夏季だけ日本にやってきて、秋口には南洋に飛んで帰るのだそうだ。
 さて私はこの仏法僧を聞いて年来の希望を果たしたが、今回稀音家六四郎を同伴したのは、森川如春が、「天下の音楽家は、必ず仏法僧を聞かねばならない」と言われたからだった。そんなことで彼を誘ったのであるから、その後、「仏法僧」という新曲を書いて、ためしに六四郎に見せてみると、彼は例の凝り性であるから、わずか四、五日で作曲を完成させたのである。その文句は次の通り。

    新曲仏法僧
 三下り妄執の雲立ちおほひ、法のともしび影暗き、浮世をよそに三河路や、鳳来山の山奥に、仏法僧といふ鳥の、棲むとし聞きて思ふどち、誘ひ合せつ水無月の、八日の朝、鳥がなく、あづまの都あとになし、耳の幸さへ豊橋を、渡る日脚の長篠を、過ぎて麓の門谷より、嶮しき山路よぢ登り、夕涼しき杉間もる、弓張月の影高き、峰の御寺に着きにけり。
 本調子見あぐれば、巌峨々たる奥の院、見下す谷は数千丈、月の光もほの暗く、早や初夏過ぐる折こそあれ、峙(注・そばだ)つ峰の彼方より、仏法僧と啼く声に、連れて聞ゆる又一つ、同じ其名を呼子鳥、しらべ合する声々の、こだまに響くぞ物すごき。
 三メリ更け渡る、夜風にゆらぐ、方丈の、灯の影かすかにも、夢か、うつつか、唱歌の声。心して聞けや人々、三宝の声は、心に通ふなり、声か、心か、心か、声か、声も心も、元ひとつ、アラ有り難の声や心や。
 本調子繰返し繰返し、近寄る影は、老いたる人、白髯長く胸に垂れ、頭に烏帽子を冠りつつ是れはいにしへ高野にて、開山大師に仕えし者なり、我今此山にありと聞き、遥々尋ね来りたつ、其信心に酬いんと、聖の御歌を唄つつ、夢中に姿を願はすなり、ゆめゆめ人にな語りそと、言ふかと思へば、一睡の南柯の夢は、覚めにけり。
頼母しや頼母しや、山の奥には、三宝の昔ながらの声すなり、末世にてはなかりけり、心に掛けし年月の、願ひも満ちし嬉しさを、峰の薬師の御利生と、伏し拝みつつ打つれて、麓の方にぞ下りける。
 

 これは、六四郎が興に乗って、速作、力作したものである。曲風は、幽玄体の、あの長唄の枕慈童(注・まくらじどう)などに匹敵するものであろう。
 ところでその当座は、東都のまんなかでも、しばしばこの仏法僧が鳴き始めたので、川柳でいうところの「河東節親類だけに二段聞き」(注・素人のひとりよがりの歌の披露に、身近な人が義理でつきあわされること)の類のお相伴を食った友人も少なくなかったようだった。


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二百八十六  延寿大夫芸談(下巻503頁)

 若いころに三井物産の手代として働いていた五世清元延寿大夫は、清元お葉の至芸に魅せられて、だんだんと清元に深入りしていった。とうとうしまいには、お葉の夫の四世延寿大夫の養子になり五世を相続することになったが、その経緯については前述したとおりである。(注・157158「清元延寿大夫の生い立ち」を参照のこと)
 延寿は大器晩成のほうで、実力を発揮し始めたのは、実に大正初年ごろからである。そして今ではすでに古稀(注・数え年70歳)をこえるという高齢ながら、強弩の末勢(きょうどのすえのいきおい=強い弓の最後の勢い。強弩の末魯縞を穿つ能わず、という成句で用いられ、本来は肯定的な意味では使われない)を維持し、当代音曲界の第一人者と目されている。
 その理由はいろいろであるが、それはまたの機会に譲り、ここでは、彼の演芸上の努力が並々ならぬものであることの一端をしめすひとつのエピソードを紹介したい。
 延寿の声は非常に強く、高く、かつ清らかで、しかも音量が豊富であるので、清調(注・清らかな調べ)を本旨とする清元語りの太夫としては申し分がない。しかしこの種の太夫は、時としてその美声に邪魔されて、老人物を語るときに苦しむことが少なくないのである。現に、近世、その美声でその名声をほしいままにした摂津大掾(注・竹本せっつだいじょう)の場合にも、しばしばその欠点を感じることがあった。
 延寿大夫も同じであったが、彼の場合はそのことを自覚し、どうすればこれを補うことができるかを考えていた。梅川忠兵衛(注・「冥途の飛脚」の主人公名で、作品の通称)の浄瑠璃のなかにあらわれる老人、孫右衛門(注・忠兵衛の父親)を語るにあたっての苦心談などは、そのもっとも興味深いものであると思われる。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「私は三十代で延寿大夫を相続して間もなく、梅川忠兵衛の孫右衛門を語らんと思い、老人の気分を出すべく、その語り口を研究して、当時横浜に隠居していた、岡太夫(注・豊竹おかたゆうか?)という義太夫語りに相談した。彼は、そのころ、大分の老体であったが、その道にかけては、すこぶるつきの老練者で、団十郎、菊五郎のごときも、時代物のせりふまわしについては、彼の教えを乞うたことが度々あり、現に団十郎が妹背山(注・「妹背山婦女庭訓」いもせやまおんなていきん)の大判事を演じた時は、彼よりその口跡を習われたが、団十郎ほどの者でも、そのころまでは、未だ声を呑むということを会得しなかったので、なんびとにも遠慮せぬ岡太夫は、団十郎を子ども扱いにして『それじゃ、まるでなっていねえよ』といったような口調で、彼に種々の工夫を授けたので、団十郎もこのときより、口跡の緩急(注・メリハリ)に大進歩を示したということであった。
 私はかねてそのことを承知していたので、一日、岡太夫を訪い、今度私は、梅忠の孫右衛門を語ろうと思うが、そのせりふまわしを教えてくださいと申し出たところが、岡太夫はせせら笑って、『おまえは、五十を越えないうちに、孫右衛門を語ろうと思うのか、そんな心得なれば、清元の養子などはやめてしまうがよろしい』と、さんざんに度肝を抜かれたが、さて、やむにやまれぬ場合とて、彼の忠言もききいれず、とうとう孫右衛門を語ったところが、案の定、大失敗に終わったので、私はそれより五十を越えないうちは、断じて孫右衛門を語らぬ決心をしたのであります。」と述懐された。

 ところが延寿が五十六、七歳のころ、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の震災前で、まだ有楽町に有楽座があったときに、同座で行われた清元会で、清元梅吉の三味線で孫右衛門を語ったことがあった。
 延寿はもともと芸道熱心で、しかも非常に入念だった。毎日の芝居の出語りのときでも、登場前に必ず一回全曲をさらってから登場することにしているくらいだから、今回の孫右衛門についても非常に工夫をこらしたにちがいない。多少は美声が災いしたところはあったが、とにかく彼としては上々の出来で、観客からも好評を得たのである。
 しかし彼の得意は、累(注・かさね)、お俊伝兵衛(注・「近頃河原の達引ちかごろかわらのたてひき)で心中する男女)、三千歳(注・みちとせ。お葉作曲の清元)、十六夜清心(注・いざよいせいしん。歌舞伎)などである。その息の長い美声をじゅうぶんに発揮することができる曲において、他の追随を許さないものがある。
 とくに、彼は女性の声色を得意とし、江戸前の女気分をあらわす妙味は、どの流派を見まわしても当代に肩を並べる者はないだろう。そのような声の持ち主の太夫であるから、老人物を得意とするはずもなく、この点においては摂津大掾と同類である。
 私はかつて、越路太夫(注・三代目竹本越路太夫)から、梅川を語っては、摂津大掾が天下一品だが、孫右衛門はまだ不得意で、晩年になって美声が衰えてきたとき、はじめてこれを語れるようになりましたときかされたことがあったが、延寿もまた同じであろうと思う。
 彼は有楽座で孫右衛門を語った後、約十年間、これを出さなかった。昭和三(1928)年になり、三越会場での清元会で、めずらしくもこれを再び語ったが、古稀を過ぎてもなお枯渇していない彼の美声では、いくら苦心してもやはり難しいようであった(原文「終に其苦心に伴はざる憾なきに非ず。」)
 おそらく彼は、清調美音で成功する太夫であり、終生、老人物を得意にすることはなさそうだ。ただ、彼自身が、不得意であることを知りながら、あくまでもこれを研究する熱心さを持つことを、おおいに評価しなければなるまい。



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二百八十七 延寿達磨(下巻507頁)

 五世清元寿大夫、岡村庄吉翁は大器晩成で、古稀(注・数え年70歳)を過ぎても声量がそれほど衰えず、芸の技はますます老熟した。その凄艶秀絶な清調(注・澄んだ声)は、目下のところ、浄瑠璃界全体を見まわしても他の追随を許さないものがある。それはもちろん天性の才能(原文「天稟=てんぴん」)のなせるわざではあるが、翁は芸術にのみ忠実で、もっぱら自身の健康に留意し、ほかの音曲師匠のように多くの門弟に稽古をつけることがなく、つねに医戒(注・健康に関する教え)を厳守しているからである
 適度な睡眠と食事を守り、十数年前から伊豆の伊東に別荘(原文「別業」)を構え、一回の劇場出演が終るとすぐにそこに赴き、呼吸疾患に特効がある同地の温泉につかる。そして一切の俗用を避けて、おのれの至宝である音声の保養につとめるのである。だからこそ、その芸術が老衰をきたすということがないのであろう。
 このように翁は芸術本位で保養を大切にしているため、その余暇のなぐさみに(原文「消閑の為め」)、最近では絵画に指を染めている。ひまさえあれば一室に閉じこもり、さかんに揮毫を行っているようだが、これまで師について学んだということはなく、古画を研究したり実物を写生したりして、いつもの根気よさで熱心に続けている(原文「孜々として倦まぬ」)ので、上達もはやく、近作の中には一種独特の風格があらわれているものもあるそうだ。
 もっともはじめのうちは失敗だらけで、竹が芦に見えたり、虎が猫と間違えられてしまうくらいはまだよくて、あるときは、ひと刷毛描きの鷺を描いて、大自慢でそれを田舎出身の下働きの女(原文「下婢」かひ)に見せたところ、女は不思議そうな顔をして、「旦那様、これはおかめの面でござんすか」とききかえしたので、さすがの大画伯も答えにつまって、ただただ苦笑を洩らすばかりだったそうだ。
 しかしその後画題のうち、馬、うぐいすなどには、かなりの佳作もあった。とくに鰹(注・かつお)は、伊東滞在中に毎日漁場に出かけ、解剖するようにさまざまな写生を行い、独特な新感覚のあらわれた作品になっているものもあって、翁の新画の十八番物のなかでも随一だということだ。
 さらに最近は、だんだん人物画にも興味を持ち、鍾馗や達磨などを描き始めた。なかでも達磨はもっとも得意とするところだそうだ。
 その苦心談をきいてみると、達磨はインドで聖者であり、あの毛のちぢれた黒人ではなく、容貌はコケ―ジャン(原文「コーケシヤン」=白人のこと)系の北欧人に近いはずなので、描くときには、達磨の顔をいくぶん西洋顔にして、独特な風格を描き出したのだという。
  翁は、その絵画には必ず自讃をつけるが、書については、翁が明治九1876)年から十八(1885)年まで三井物産会社の少年書記時代に鍛えた腕前に、その後多年の修練が加わり、剛健で抜群(原文「勁抜」けいばつ)な筆づかいで、ほとんど作家の域に達している。
 昭和四(1929)年の一月に、翁の達磨の評判を耳にして、荊妻(注・けいさい=妻のことを謙遜していう表現)の柳舟(注・高橋楊子。東明柳舟)が、新年の試し書きを所望すると、翁はおおいに乗り気になって、描きも画いたり、二百余枚のその中から会心の一枚を選んで贈られたので、さっそく表装に取り掛かり、一月二十八日に赤坂伽藍洞(注・高橋箒庵邸)で達磨びらきの茶会を催すことになった。この達磨画讃は、次のようなものだった。

    心外無別法
   我影も動かぬさまや冬の月
         五世延寿並題印

 この延寿達磨画讃の表装は、上下が萌黄地丸龍紋緞子、一風(注・一文字と風帯)と中廻しが丹地金襴で、それを書院の九尺床にかけ、荊妻の柳舟主催の茶会に来洞した人々は、延寿、栄寿(注・清元栄寿太夫)の両夫婦、稀音家六四郎、清元栄治郎の面々で、達磨幅の前には時代物唐物黒塗卓に青磁四方香炉を置き、名香蘭奢待(注・らんじゃたい)を薫じた。書院には、青貝入波に片輪車蒔絵手箱、床脇棚には厳島経(注・平家納経)の写し二巻、琵琶棚には土佐光信の胴革絵の平家琵琶を飾り、私は床の中にいる達磨を礼讃するために、六四郎をワキとして、栄治郎の三味線で、平岡吟舟翁節付けの東明流「道八達磨」の一曲を演奏した。
 この道八達磨というのは、東福寺の兆殿司(注・室町時代の画僧、ちょうでんす)筆で、織田信長の実弟である有楽斎長益の子、左門頼長、俗称、道八の旧蔵であるために、この名称がある。道八は、飄逸奇抜な茶人で、この達磨をみずからの肖像とみなし、画像の上に虚空元年月日の日付で、

     我影と眺めながらも余のうさを 知らぬ顔こそ羨ましけれ

と自讃して、終生これを秘蔵したそうである。
 この達磨を道八というならば、今度の達磨は、延寿達磨といってもよいだとうということで、私は延寿達磨という清元曲の新曲を作って翁に贈った。

 このようにして、和気あいあいの中に延寿達磨びらきの茶会は終わったが、この日、晩からの雪は鵞毛(注・ガチョウの毛)のようにひらひらと舞い、このまま降り続ければ、翌朝には庭に大きな雪だるまができそうに思われた。



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二百八十八 医茶一途論(下巻510頁)

 私は父母から健康な身体を恵まれたので、七十年あまりのあいだのうち医者の厄介になったことが非常に少ない。医者から見れば、むしろ「有り甲斐のない代物」だと言われてしまうだろうが、そのかわり、たまに病気にかかったときにはいつも当代一流の医家に診てもらっていた。
 明治十四(1881)年に上京してから八年間はほとんど無病であったが、明治二十二(1889)年秋に欧米の来遊から帰国したのち、すぐに腸チフスにかかり帝大病院に入院した。そのときにはベルツ博士の診断を受けた。
 その後数年して、はじめて丹毒を患い赤十字病院に入院した時には、院長である橋本綱常子爵の診断を受けた。
 また明治四十二(1909)年、前妻が腎臓病にかかったときには、青山胤通博士の治療を願い、大正四(1915)年、老母が郷里で患ったときには、木村徳衛博士に往診していただいた。

 私が当代の名医と接した経験は、おおよそ以上のような数回でしかなく、とくに明治末期から大正の末年にいたる二十年間にまったく無病であったのは、この間、毎年のように伊香保に避暑入浴に出かけたためであると思われる。そのため、伊香保温泉の効能の宣伝もかねて、同地の八千代公園に、奈良地方から持ち帰った一丈二尺(注・約3.6メートル)の古石灯を寄進して、その棹に次の一首を彫りつけた。

  銷夏上毛雲木区 温泉日々濯吾躯 山霊冥助人如問 二十年間一病無
  (銷=とける、けす)

 私はこのようにもともと長く健康状態を維持してきたが、大正末年から大正名器鑑の校正に従事して極度に視力を虐使したため、視神経の衰弱をきたした。さらに消化不良にもなってしまい、一時は十七貫八百目(注・一貫は3.75キロで、67キロ弱)に達していた体重が、ほとんど十三貫目(注・49キロ弱)に減ってしまった。
 この間、もちろん床に臥せっていたわけではないが、家人らも、もしや胃癌ではなかろうかと危ぶむほどになってしまったので、そこではじめて病人のような気分を味わうことになった。そして、当代抜群の国手(注・名医。医師の敬称)として知られていた、帝大の真鍋嘉一郎君の診断を乞うことになった。
 きくところによると、君は初診の人に接するとき簡単には診察にとりかからず、長時間患者と対座して、よもやまの談話をするなかで、その容態についての一般的な観察をすることを、ふだんからの診断法としていられるそうだ。私のときも、その診断前の談話が長かった。
 その話題はといえば、さきごろ九死一生の大患にかかった馬越恭平翁に関するもので、翁が茶人で、また私も茶人であることから、とうとう医茶一途論について話をされたのである。その主旨は、次のようなものだった。

 「自分は、茶人が恭謙の態度をもって懐石の給仕をつとめ、さらに濃茶手前にはいるや、自分等の目より見れば一本の竹べらにすぎない茶杓を丁重に取り扱い、また古ぼけた茶碗を重宝のようにみなして、これを運び、これを拭い、茶を点て、客に供するその間に、万々損傷なきよう始終注意して居るその精神は、われわれ医者にとってもまた、おおいに学ぶべきところあり、この点においては医道も茶道も、全然一途なるべしと思わるる。ところでこのごろ馬越翁の病状がようやく危険区域を脱し来たるや、翁はそろそろわがままを言い出し、看護婦らが、すこぶる難渋する由、訴え出られたから、自分は一日、馬越翁に向かい、君は大茶人であるそうだが、いつごろより茶事を始めたるや、と問えば、翁はたちまち大得意となり、入門以来、五十年の茶歴を語られたから、自分はさらに一歩を進め、茶人が竹べらやら、古茶碗やらを大切丁寧に取り扱う、その注意周到は、自分のおおいに感服するところであるが、およそ天下に、わが身体より大切なる器物があろうか、しかるに、貴老は、近頃看護婦の言葉を用いず、ややもすれば、病態を虐用するきらいありという。茶人はかの竹べらや古茶碗をさえ大切に取り扱う者なるに、今、天下第一貴重なる、わが身体を、貴老のごとく粗末に取り扱う者を称して、はたして大茶人ということをえべきやいかん、と詰問したるに、さすがの馬越翁も、これには閉口して、グーの音(注・ね)も出なかった。

 自分はかつて、井伊大老茶道論を読んで、茶道の精神が、わが医道に共通して居ることを知ったので、今後は、医茶一途論を唱えて、ただにわが医道のみならず、人間社会万般のことに茶道の精神を拡充しなくてはならぬと思って居る云々。」

 以上、真鍋国手の医茶一途論は、まさに近来の名説だが、茶道の門外漢から出た説だからこそ、ますますその真価があがるものだろうと思う。そこで私は、この論法を使って、しばしば老人の冷や水を戒めているのである。
 さきごろ、益田鈍翁が大患にかかり、やがて全快の間際になって馬越翁とほぼ同じようなわがままが出てきたということを耳にしたので、さっそく医茶一途論を令息の太郎君に伝え、これを利用して翁の不摂生を防止するように勧めておいた。ここでもきっと多少の効果はあったのではないかと思うが、世間のいたるところで医茶一途論が特効をあらわす機会がありそうだと信じるので、ここにその要点を披露する次第である。


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二百八十九 大正名器鑑の編著(下巻514頁)

 茶道が始まって以来四百五十年のあいだに、茶人によって賞玩された名物茶器の数は、ほとんど数え切れない。
 利休時代までの茶書に載せられたものを大名物(注・おおめいぶつ)といい、時代がくだって寛永時代(注・江戸時代初期162445年)にいたり、小堀遠州らがその鑑識眼で選んだ名器を、中興名物と呼ぶ。それらが代々伝えられて貴重な宝とされているのである。
 徳川時代においては、これらの名物が、将軍家、諸大名、あるいは民間の諸名家の宝蔵に秘蔵され、それらを簡単には見ることはできなかったので、数寄者の中には、なるべく広くこれらについて調査し、名物集を作ろうとするものも多かった。
 なかでも、享保時代(注・171636年、徳川吉宗の時代)には、松平左近将監乗邑(注・のりむら、のりさと。老中)が非常な努力(原文「丹精」)で「名物記」三冊(注・「乗邑名物記」)を編集し、続いて寛政年間(注・17891801年)には、松平出羽守宗納【不昧公】が九年を費やして「古今名物類聚」十八冊を編集し、その後、本屋了雲が「麟鳳亀龍」という名物記四冊を編集した。これらの名物記が、従来は名物茶器の記録として、茶人の金科玉条とするところであった。
 封建時代には、諸大名が名器を各自の藩地で保蔵しているだけでなく、いろいろな意味で極度に秘蔵する習慣があったので、松平乗邑が当時の幕府老中であったことが、その調査のうえで非常に役立った。松平不昧も、徳川の親藩であるうえに十八万石の資力があり、それを背景にして編集を行うことができた。
 にもかかわらず、実物を見ることができない場合もなきにしもあらずで、伝聞によって記録を作成したので、調査が正確を欠くだけでなく、写真のような実物を写すことができる便利なもののない時代だったので、読者が実物を思い描くことが難しいといううらみがあり、私はいつもそのことを残念に思っていた。

 ひとりの研究者の力(原文「一学究の独力」)では、満足な名物記を完成することは、いかに便利な世の中でも簡単なことではないと思いつつも、なんとか奮闘して、この事業をやりとげてみたいと私は思ったのである。私が五十一歳で実業界を引退したのも、半分はこれを実現させるためだった。
 こうして、私は実業界を引退した大正元(1921)年から、どのような順序で着手すればよいかいろいろ研究し、大正六(1917)年にはほぼその方針を決めることができたので、それからすぐに名器の検覧、そして写真撮影にとりかかった。
 しかし、一度にたくさんのことを網羅しようとすると調査に滞り(原文「不手廻り」)が生じ、あれこれやるべきことが増えて、どっちつかずの中途半端になりそうだったので(原文「共に疎漏に陥るべきを悟り」)、第一期計画として、まずは茶器の代表(原文「儀表」=模範)である、茶入、茶碗、を調査し、その全力をこの二種類のものに集中することにしたのである。
 そこで、天下の名物茶入と茶碗の七分の一を所有されている松平直亮伯爵の四谷元町邸を訪問し、私が今度名器鑑を編集しようとしているのは、寛政年間に伯爵の高祖である松平不昧公が「古今名物類聚」を編述されたのと同様に、今日の聖代の余陰によって(注・「この平和な大正の御代(みよ)に」ほどの意味か)、さらに一層精密な図録を調製しようという趣旨であると、ひたすらに伯爵の援助を懇請した。

 すると伯爵はよろこんでこれを承諾され、不昧の時代は名器を検覧することは難しく、撮影技術もなかったために、その調査を入念にきわめることはできなかったが、今日、貴下が一層綿密な名器鑑を編集しようとするのは、茶道のためにもまことに有益な企画になるので、自分は貴下の目的が果たされるようにできる限りの協力をしようと、私のことを非常に励ましてくださった。私は、伯爵のそのひと言で、百万の援軍を得るよりも力づけられ、大正七(1918)年の五月に、伯爵の東京邸に所蔵されている三十八点を検覧した。

 続いて、松江市の宝蔵にある五十五点も調査し終えることで、名器鑑の中核となる部分を構成することができた。これは、私にとってこのうえないよろこびだった。
 次いで、同年十一月には、幕府伝来の御物を保蔵されている徳川家達公爵を訪問し、本編集の趣旨を説明した。公爵もその計画に賛成してくださり、所蔵の大名物茶入十三点、茶碗六点の検覧と撮影を許可されただけでなく、同族諸家に対しても、私が、その所蔵名器を検覧できるように親切にも取りはからってくださったので、私は引き続き、徳川三家の名器を拝見することができた。その後、島津、毛利、前田、浅野、細川をはじめとする旧大名家や、民間の大家を歴訪した。
 茶入については、持ち主が百人で、品数は四百三十六点、茶碗は、持ち主が百十八人、品数は四百三十九点というところで、調査を終了した。
 大正六(1917)年から実編集の時期にはいった。それから足かけ十年を費やして、大正十五(1926)年十二月、全国に現存する名物茶入、茶碗の編集を完了した。
 「茶入之部」五編、「茶碗之部」四編を印刷にまわし、これを「大正名器鑑」と名づけた。
 この事業の遂行には、物質的にも精神的にも想像をこえる困難に遭遇したが、時勢のおかげで、かつての故人がひとりなしとげることができなかったことを成就した。さらに手前味噌の点を挙げるなら、天下の諸名家を歴訪し、茶事始まって以来の誰よりも一番多くの名器を実見することができたことは、この事業から生まれた役得だったといえよう。

 


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二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)

 私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
 その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
 実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
 さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
 さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・173641年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
 寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
 その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
 

  伊予簾  横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬

   走井   山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
   橋立   中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
   花橘   近藤其日庵(注・廉平)
   春雨   加藤犀水(注・正治、正義の養子)
   思河   熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
   大津   根津青山(注・嘉一郎)
   唐琴   林楽庵(注・新助、京都道具商)
   合甫   富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
   玉川   野崎幻庵(注・広太)
   玉柳   金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
   太郎坊  川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
   茄子   益田無塵(注・益田多喜子)
   呉竹   伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
   山雀   団狸山(注・琢磨)
   破衣   原三渓(注・富太郎)
   升    磯野丹庵(注・良吉)
   松島   八田円斎(注・道具商)
   猿若   益田鈍翁(注・孝)
   サビ助  仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
   笹枕   田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
   面壁   山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
   宮島   田中親美
   箕面   戸田露朝(注・道具商)
   三笠山  土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)

   四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
   時雨   森川如春(注・勘一郎)
   白菊   越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
   勢至   馬越化生(注・恭平)
   関寺   山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)

 私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
 そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
 その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
 茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
 その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
 であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。

 私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
 よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。


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