二百八十一 護国寺境内の茶化(下巻485頁)
関東大震災(原文「癸亥大震災」)ののち東京市内を見渡すと、どこもかしこも荒涼(原文「満目荒涼」)として廃墟の感があった。神社仏閣も多くは烏有に帰して、東京の人々の信仰にも多少の影響を及ぼしかねないというおそれもあったことから、私は、京都の金閣や銀閣のような、参詣者に一種の清浄な気分を与えるような場所を提供する必要があるのではないかと思った。
市内を見回しても、音羽護国寺以外にはほとんどそれに該当するところがないように思われたので、私は護国寺をそのような目的の浄境にしたいものだと思い、京都方面の実例にならって、同寺の境内を茶化する(注・茶の湯の影響を持たせる)必要があると思っていた。
震災後のそのようなとき、麻布の天徳寺にあった松平不昧公の墓地が、道路改正のために別の場所に移転することになった。松平家では、それを旧藩地である松江の廟所に改葬する意向であるということを聞き、私は松平直亮伯爵を訪問して、その移転先の墓地を音羽護国寺にしていただけないかと乞うてみた。すると幸いにそれが承諾されたので、今度は護国寺の執事に相談し、三条公(注・三条実美)の塋域の隣地の三十坪余りの土地を提供し、これを松平家の墓域とし、その一角に不昧公ならびに、?(靜の左側に彡)楽院夫人の墓碑を、移建することになった。護国寺はここに、茶道の本尊を迎え、境内の茶化の端緒を開くことになったのである。
さて私は、大正十四(1925)年の井上侯爵家蔵器入札会で、馬越化生翁らとともに同会の札元に対して、不昧公のために護国寺境内に茶室を寄進することを勧告し、西南にある景勝の地を選んで不昧軒、円成庵の広間と茶室を建造するということになった。これについては松平家もとても喜び、天徳寺の墓所にあった不昧公筆塚石、つくばい、石灯籠ならびに、不昧公の師家(注・禅僧の師)にあたる鎌倉円覚寺の誠拙禅師【のち大用国師】筆の「弾指円成」の四字を彫りつけた門扉までをも寄贈していただいた。そこで茶室を円成と名づけ、広間を不昧とすることにした。円成庵には、護国寺貫主の小野方良行師の、不昧軒には、松平直亮伯爵揮毫の扁額を掲げ、大正十五(1926)年十月十七日に開庵茶会を催した。
そのとき、松平伯爵家が不昧軒広間の飾りつけを引き受けてくださり、床には牧谿筆の松に叭々鳥幅を掛け、その前に中興名物の古銅象耳花入を置いて白玉椿をはさみ、床脇棚には時代片輪車手箱を飾った。また展観品として、加賀光悦茶碗を出陳してくださったばかりでなく、護国寺に対しても、不昧公の肖像ならびに同公筆による枕流の二大字幅を寄進してくださったことはまことに望外の好都合であった。
その後、山澄静斎(注・山澄力太郎=力蔵の子)が、先祖の宗澄の追福(注・追善)のために宗澄庵を寄納し、これに先立ち私が寄進した仲麿堂、三笠亭とともに三席の茶室が並んだので、いよいよ境内に茶気分をただよわすことになった。
私はこのほか、さらに大規模な茶事公会に使用するための大広間の必要を感じ、原六郎翁の品川御殿山邸内にあった慶長館に目をつけ、嗣子の邦造君を通じて寄進してもらえるよう懇望した。というのも、原翁は私の墓所の北隣りに終焉の地を所有し、百年の後には私らとともにこの地に永眠する人であるからで、翁の記念物として慶長館を寄進してもらえるよう願ったのである。
すると原翁は喜んでこれを承諾され私たちの希望を叶えてくださったので、護国寺のほうでもとてもよろこんだ。さっそく仰木魯堂に委嘱して、慶長館を護国寺境内の西側の薬師堂の裏手に移建することになった。
この慶長館というのは、もともと江州(注・近江)三井寺境内の一塔頭だった月光院というもので、現存する円満院よりも比叡山寄りの高地にあった。表十八畳二間、裏十畳二間が連続しており、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間にある一間幅の通路)もいれると約七十畳にもなる。ふすまの張り付けは狩野元信筆で、有名な水呑虎の図も、このなかにあるものである。
明治二十(1887)年ごろに、三井寺でこのふすまだけを売却したいという相談があったとき、井上世外侯爵の勧めに従って原翁が買収されたものであった。しかし原翁は、このふすまがいかなる座敷にあったのかということを一応、実地検分しようということで、その後三井寺に赴き、とうとうその建物までも引き受けることになったのである。
ところで、これを慶長館と呼ぶのは、慶長年間において当館に大修復を加えたためで、創立の年代は鎌倉時代か足利時代であるといわれ、まだ一定の説はない。とにかく、五百年をこえる古建築であることは疑いなく、護国寺に移建してほどなく保護建造物に指定された。護国寺ではこれを月光殿と名づけ、小野方貫主がその扁額を揮毫した。
今では、法要や茶事などのときに、護国寺にとっては非常に大切な建物になり、大師会をはじめ、その他の茶事のためにも使用することになったので、客殿、庵室もようやく備わって、護国寺境内の茶化の理想が実現されることになったのは、私たちのおおいに満足するところである。
この際にあって、執事として内外の交渉にあたり、これらの事業を進めたのは佐々木教純師であるが、師が小野方良行大僧正のあとをうけて最近貫主に栄進されたことは、本寺にとって、まことに幸慶のいたりだった。今後建設の必要がある多宝塔、宝物館なども、この貫主在職中に必ず完成されるに違いないと、私は注意深く観察(原文「刮目」)しながら期待している。