だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十一  松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)


 松屋肩衝という大名物(注・おおめいぶつ)茶入は、もとは松本周室【あるいは松本珠報ともいう】が所持していたことから松本肩衝ともよばれていた。周室は、これを足利義政に献じ、義政がそれを珠光(注・村田珠光)に賜った。珠光はそれを、弟子の古市播磨守澄胤(注・ちょういん)に伝え、澄胤はそれを奈良の松屋源三郎久行に譲ったのである。
 それからは代々松屋に伝わり、松屋肩衝と呼ばれることになった。津田宗及の茶湯日記によると、永禄八(1565)年五月に松永久秀が南都焼き討ち(注・室町幕府13代将軍義輝を襲撃、殺害)の際に、あらかじめ松屋に内報して、徐熈(注・じょき。中国五代南唐の画家)の鷺の掛物と、この茶入を、よそに持ち出させたということである。
 その後、天正十五(1587)年十月の北野大茶の湯にも出陳された。また、霊元天皇の叡覧(注・天子が御覧になること)、将軍秀忠の上覧に供したこともあり、細川三斎、古田織部、小堀遠州、片桐石州といった大茶人からも多大な賞讃を博したものである。
 これより以前、利休がその袋を寄付し、三斎が象牙蓋と挽家(注・ひきや。仕覆に入れた茶入を収納する棗型の木の容器)の革袋と桐箱を寄進して、それらは今でもすべて付属している。
 この茶入は、徳川将軍家所蔵の初花肩衝と同種類の、漢作(注・唐物茶入のうちもっとも古い宋元時代のもの)で、こちらは少し背が低く胴まわりが大きいことが一風変わっているところである。
 もともと松屋では、久行、久好、久政、久重と、代々の数寄者が相続し、松屋三名物(注・徐熈筆の白鷺図、松屋肩衝、存星[ぞんせい]の長盆のこと。鷺図、存星長盆は現在所在不明)を持ち伝えた。歴代の主人たちは利休をはじめとする大宗匠のところに出入りしており、彼ら大宗匠の言行を記録したものとして「松屋会記(原文「松屋筆記」)」あるいは「四祖伝書」などといったものを残した。それらは広く京阪の茶人に知られ、松屋の三名物を見ざる者は、ほとんど茶人にあらざるがごとくに言われていた時代もあった。

 このように松屋は代々、これら名物を伝承してきたが、寛政年間(17891801年)に、松平不昧公は、いかにしても松屋肩衝を手に入れようと、お国入りの途中、伏見の旅館でこれを一覧することになり、実見が終って松屋主人が茶入を持って引き下がろうとしたとき、お供の家臣が進み出で次の間のふすまをあけると、千両箱が三個積み重ねられ置かれていた。懇望しているという内意を見せたわけだが、松屋は、これは先祖伝来の重宝なので金銭には替え難いとして最後まで応じなかった。
 当時、不昧公から松屋に送った礼状には、


 昨日は両種久々にて致一覧、大慶不過之候、別而肩衝如我等可賞品とは不被存候、不備               出羽一々
 土門源三郎様


とある。なんとなく、いやみを含んでいるように見受けられるのは、おそらく非常に失望されたからであろう。
 さて安政年間(185460年)になり、松屋の家政が傾いた(原文「不如意」)ため、これら三名物を、大阪の道具商である道勝、こと伊藤勝兵衛のところに質入れした。
 それを、島津公が一万両で買い上げられたという伝説は残っているのだが、このとき買われたのが、松屋肩衝だけだったのか、徐熈の鷺、存星長盆も一緒だったのか、その辺はさだかではない。
 私はそのことについて、以前、伊集院兼常翁を介して、島津家の方を調べてもらったことがあるが、西南戦争のときに焼失したものでもあろうか、とにかく、現存するのは茶入だけだということだった。
 さて、昭和三(1928)年の島津公爵家蔵器入札のとき、島津家の財政整理委員の樺山愛輔伯爵が、三井合名会社の理事である団琢磨男爵に、この入札の一切の世話を委託した続いて団男爵は、その宰領一切を私に依頼されたので、私は蔵器の中でもっとも高価なこの茶入の落ち着き先を探すため、まず根津青山、馬越化生の両翁を勧誘した。
 この両翁の入札の結果は、青山翁の力が勝っていた。軍配が青山にあがったとき、有力な札元であった戸田露朝が一曲の歌詞を作って私に送ってくれたので、ここに掲載しよう。


 

松屋潟月伊達引

 「むかしより、いまに常盤の色かへぬ、松の位の名物も、薩摩風に吹きよせられて、都のちまたくらぶにて、市に出でたるをりからに、引く手あまたのその中に、桜川(注・馬越のこと)とて今の世に、名うての大関力こぶ、入れて通ひし御成門、かたやは是も横綱の、緑も深き青山(注・根津のこと)と、互にきそふ土俵入、取組ありし其日には、四本柱もゆるぐ程、人気集るまつやがた、突合ふ手先、其内に、青山関の上手投、見事にきまり首尾よくも、勝星いただき帰り行く、げに勇ましきよそほひは、末の世までの語草、めでたかりける次第なり。」


 こうして、この茶入の噂は、一時はこの世界を賑わせた。(注・現在も根津美術館蔵)
 勝敗があるのは、戦う者の常、これ以上、気にするにも足らないことである。しかし、このような名器の争奪戦において、片方の大関であった化生翁が、今や、忽然として娑婆の土俵を引退された(注・亡くなられた)ということは、まことに残念きわまりないことである。



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二百九十二 三十六人集分譲(下巻525頁)


 西本願寺大谷伯爵家は昭和四(1929)年、武蔵野女学校建設資金の調達のため、その資金寄贈者に、同家に伝来する三十六人家集三十五帖のうちの二帖「伊勢集」と「貫之集、下」を分譲することになった。
 全部で二千七百四十四ページのなかから三百三十ページを割き、その各十ページを一口にし、資金となる二万円を寄贈した人々に抽選で頒布することになった。抽選は、七月二十七日、品川御殿山、碧雲台(注・益田鈍翁邸)で滞りなくおこなわれた。
 思いかえせば大正十四(1925)年のころだったか、当時の西本願寺法主摂理、大谷尊由師が、あるとき私に現在わが国には、まだ真正の日本女子教育を行う女学校がないが、そのなかで、やや目につくのがキリスト(原文「耶蘇」)教宣教師の経営するもので、日本の女子を薫陶するには精神的な面での欠陥が少なくない、もしも日本の国情にふさわしい淑女を養成し、将来、女子が参政権を持つようになったときに、穏健な素養で危険思想の緩和剤となるような役割を果たすことができるようになるためには、自分たち仏教者の手によって理想的な女子教育を行う学校を建設しなければならないのであると述べられたことがあった。
 その後私は、本願寺の教育事業について、尊由師と同志一体ともいえる高楠順次郎博士に面会したとき、博士も同じ問題について話され、本願寺が女子学校を建設するためには、少なくとも三百万円必要だが、どうやってその資金を得たらよいだろうかと言われた。そこでわたしは、今もしも三百万円集めるならば、本願寺自身がまず非常な決意を示して、宗祖である親鸞の一衣一鉢の昔に戻り、伝来の什器も処分して、少なくとも資金の半分でも調達すれば、世の人もその真摯な態度に同情して、必ずやあとの半分を寄付(原文「義捐」)してくれるだろう、と述べたことがあった。

 このたび大谷光明師が新法主に就任されると(注・実際にはゴタゴタがあり、光明ではなく、光明の4歳の息子光照が就任している)、いよいよ武蔵野女子学校の建設に手されることになった。その資金に充てるために、当山第一の什器である三十六人集を分譲することを決心されたことは、宗教家の殉教的な事業に対する態度として至極当然のなりゆきであったと言わなくてはなるまい。
 そもそも三十六人集とは、今から九百三十年前、一条天皇の長保年間(9991004年)に納言藤原公任が撰した、人麻呂(原文「人麿」)」、赤人以下三十六歌仙の歌集を、当時の名筆家が尽善尽美(注・善と美を尽くした完璧な)の台紙に物し(注・書いて)、時の太政大臣道長の息女である彰子が一条天皇の中宮に入内するときに持参したものだと伝えられている。(注・現在は、天永31112318日の白河法皇六十賀贈り物として制作されたという説が有力)
 しかし現在大谷伯爵家に存在しているのは、その原本ではなくて、当時から、あまりはなれていない時代に複写したものであるというのが現代の古筆家の意見である。(注・現在は、大部分が原本で、天文18(1549)に、後奈良天皇より本願寺第10世の証如に下賜されたと見られている)

 しかし、その辺の説明はとりあえずおくとして、大谷家が今回、これを分譲することになったことについて世間には反対意見もあるようだが、とにかく、殉教的な目的達成のためには忍んでこれを分譲しなければならないのだという理由のもと、これを決行されることになったのである。ほかに適当な方法がないのに、いたずらにそれを止めさせようとするのは、非常に無理な注文だと言わなくてはなるまい。
 かつ、この歌集は、大谷家に伝来する以前、すでに世間に分散してしまったものもある。古筆鑑定の権威である田中親美氏の語るところによると、本帖は、その名のとおり、三十六人の歌集だが、そのなかで、一人で、上下二集あるのが二家あるため、もともと三十八帖あった。だが、人麻呂、業平、小町、兼輔の四帖が、すでに早くから散逸し、また、順(注・源順、みなもとのしたごう)集の一部も、すでに世間に出ている。
 このうち、兼輔集だけは、鎌倉初期の模写本があり、古筆家は、筆写したのは寂連法師と断定している。
 さて、これら世間に散逸した歌集切には、およそ四つの呼び名がある。
 順(注・したごう)集切は、「糟色紙(かすじきし)」と呼ばれ、現存するものが二ページあるのを、関戸守彦、池田成彬の両氏がそれぞれ一ページずつ所持している。
 また同集の「岡寺切」三ページは、古河虎之助家、根津嘉一郎家、および学士院が所持している。

 人麻呂集の「室町切」二ページは、近衛(注・文麿)公爵、古河(注・虎之助)男爵の所持であり、業平集の「尾形切」ページは、益田孝男爵二ページ、三井高精男爵、藤田平太郎男爵、原六郎氏、関戸守彦氏、安田善次郎氏が、それぞれ一ページずつ所持している。
 しかしながら、小町集は、現在、一ページも見当たらない。
 以上の歌切のなかで、これまでもっとも高かったのは、二万円三千円、もっとも安かったののでも一万五千円をくだらなかった。ところが今、にわかに、三百三十ページもの同歌切が世に出たのであるから、従来の所有者は大恐慌を起こしてもおかしくはなかった。しかし、今度の分譲を受けた者の中には、ひとりで一口、二口をまとめて、新たに手ごろな歌帖を調製する者もあるようだ。
 そのほか日本全国に、名古屋のように古筆愛好家が激増した地方もあるので、この歌切を所望する者は多く、争ってこれを得ようとした。したがって、これから古筆市場の市価が、従来に比べてひどく下落するといったことはなさそうだ。
 それはさておき、歌集二帖に六十万円余りの値がついたことは、維新以来の道具相場のレコード破りのことであった。日本もこれで、世界大国の仲間入りをしたような気持ちになる。これは、昭和年代におけるわが国の道具移動史上に、特筆されるべきことだろうと思う。

 


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二百九十三 現役大臣の茶の湯(下巻534頁)


 昭和六(1931)年四月初旬、司法大臣で子爵の渡辺千冬氏が、ある骨董商から偶然手に入れられた清朝御府(注・ぎょふ。皇帝の宝庫)伝来の茶碗は、口径四寸(注・一寸は約3センチ)、高さ一寸七、八分くらいで、春先専用の薄茶茶碗としては、このうえない寸法(注・サイズ)である。また内外は薄桃色で、ところどころに、いわゆる煎餅ぶくれがあり、口縁の外側から青釉がどろどろと一ナダレになっているのが、なんともいえない「景色」になっている。
 見込(注・茶碗内部の底)には黒金気釉で「花碗」の二大字が現れている。その筆づかいがすこぶる古雅で、古い法帖(注・ほうじょう=名筆鑑賞用の折り本)の文字を見るようなおもむきで、また、この茶碗を包んだ黄絹の風呂敷に、乾隆皇帝之章という大朱印が押されているところを見ると、あるいは幕府の什物であった可能性もある。
 ところで渡辺法相は、最近東京に「添光会」という茶会を設けて実物教育の宗匠を自任している加賀金沢の裏千家流茶人である越沢宗見と知り合いなので、彼にその茶碗を見せてみると、宗見は激賞し「閣下、もしこの茶碗がご不用なら、即座に拙者にお譲りあれ、もしまたご所蔵なさるるならば、ぜひとも、この茶碗びらき(注・披露)の一会を催さるべし」と言われたので、法相も非常にその気になり、では宗匠の才覚でその一会を催すことができるよう、それぞれの用意を整えるようにとの命令を下された。

 宗見はおおいによろこび、さっそく私にその一部始終を語ってくれた。また、その茶碗も見せてくれたが、これこそ、それまでの茶人が絵高麗と言い慣わしているものであった。絵高麗とは、はじめシナで製造されていたが、朝鮮で模造されるようになり、そちらの模様のほうがかえって世間に知られるようになって、ついには絵高麗と呼ばれるようになったものであるがこの花碗は、まちがいなくシナの窯元の製造になるもののようで、古陶器研究のうえで絶好(原文「屈竟」)の資料になるばかりでなく、じっさいの茶事に使ってもまた、しごく面白いものなので、私は、かの有名な博多文琳茶入が楊貴妃の白粉壺だと言い伝えられている例にならい、この茶碗も、楊貴妃に縁故のある品であるとみなし、これに付属するのに適当な女性的な薄手の茶杓を作り、銘を紅唇とした。その筒には、

    楊貴妃の口やふれけむ花の碗

としたため、宗見に与えた。
 こうして、茶碗と茶杓はそろったが、茶入のほうはどうしたらよいかという問題が起こった。そのとき宗見が、「先日ある機会に、貴族院議員の伊東祐弘子爵が所蔵する茶器を拝見したが、そのなかに、徳川初期の、子爵家の主人だった人が作らせたという茶入が、いくつか裸のままで残っているのを見た」という。この主人は、小堀遠州らと茶交があったらしく、その指導によって帖佐、高取その他、九州の窯に製作させたものらしい。渡辺法相は伊東子爵と懇意なので、その茶入のなかの一個を分けてもらえないか頼んでみて、今度の茶会に組み合わせるのがよい考えではなかろうか、ということだった。
 そこで、そのことを宗見から法相に進言し、法相から伊東子爵に相談してみると、それはよい廃物利用になると子爵は非常によろこんで快諾してくれた。
 これで茶会の主要品である茶碗、茶杓、茶入の三点が、あっというまに顔を揃えたことは、宗見の才覚が抜群であったからではあるものの、これこそ、花碗が世に現れる不思議の因縁と言わなくてはならないだろう。

 このような次第で花碗茶会の主要品が揃うと、渡辺子爵は四月二十三日正午に、豊多摩郡府中町の加藤(注・昭和茶会記によると加藤辰弥)氏の鳩林庵荘不識庵にて、正式な茶会を催された。
 当日の掛物は、西園寺陶庵公揮毫の色紙の表装が間に合わなかったので、同公筆の発句短冊で代用することになったが、その後ほどなく、表具のできあがった一軸は、金地色紙に、


  一枝国艶 両腋清風 
        坐茅漁荘主人時年八十有三印


という文句であった。楊貴妃と廬同(注・唐詩人)の故典を対句にしたところ(注・白居易「長恨歌」のなかの「一枝紅艶」と、廬同「七碗茶詩」のなかの「唯覚両腋習習清風生」からとったものか)など、ぴったりの(原文「寸分動かぬ」)思いつきだった。
 そのほかも、どれもが花碗を盛り立てる気の利いた飾りつけだった。懐石のときに、広間の床に掛けられた二幅対は、会主の先君子(注・亡父)である、無辺居士国武翁(注・渡辺国武)愛蔵の、


  臨済喝得口破
  徳山捧得手穿


という、清巌和尚の墨蹟中、稀有の傑作と見受けられた。
 こうして、午後四時ごろ、花碗茶会は大成功のうちに終了した。これは、茶道にとりまことに喜ばしいことであった。
 そもそも維新前においては、徳川将軍家をはじめとして、国持大名、幕府老中らが茶会を催したという例は多い。京都においても、関白諸公が、みずから茶会を開かれたということも少なくない。しかし維新後には、山県含雪公爵、井上世外侯爵が、晩年にみずから茶事を行われたということはあっても、現役大臣という立場でそれを試みた人はいなかった。それが今回、花碗の因縁により、後代の語り草ともなるような会を渡辺法相が催されたということは、いろいろな意味において、真の快挙であり浄業(注・じょうごう=善い行い)であったと思う。
 私は、法相が、この茶会をきっかけに、さらに奥深く茶道に踏み入り、政界において、ある意味、出色の大臣となるだけでなく、茶界においても、今後、より大きな足跡を残されることを、ひとえに期待する次第である。

 


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二百九十四  隅田公園記念碑(下巻533頁)

 大正の癸亥(注・みずのとい=大正12年、1923年)の大震火災後に様々な場所で行われた復興事業により、世の中はまさに激変(原文「滄桑の変を出現」)した。
 向島の隅田公園など、その一番の例だといえよう。同公園の大部分は旧水戸徳川家の下屋敷、すなわち小梅邸であった。この地はそのむかし木母寺(注・もくぼじ)という寺があった場所で、また嬉森という大木の林もあったなど、昔からいろいろな歴史的由緒がある。
 私は大正の初年からその嬉森跡の椎林の中に嬉森庵という茶室を設計し、しばしば茶会を催してきたという縁故もあったので、この公園の過去の歴史がまったく忘れられてしまうことを残念に思うので、水戸徳川家で大正初年に編集された「梅邸史」の大要をここに摘録して、後日のために残そうと思う。(注・現代文になおした)

  〇維新前の小梅邸
 小梅邸の所在地は、もと西葛西小梅村といった。五代将軍常憲公(注・徳川綱吉)の時代の元禄六(1693)年癸酉(注・みずのととり)八月五日に、この地は、わが(注・水戸藩の)三代藩主、粛公(注・徳川綱條つなえだ)に下賜された。以来、水戸藩下屋敷となり、代々の藩公がここで鷹狩りを催した。
 藤田東湖が幕命によって幽閉されたのは、この邸内である。弘化二(1845)年二月に小石川邸からここに移され、ここで「常陸帯」を執筆し、「正気の歌」の詩を作ったのである。翌三年丙午(注・ひのえうま)十二月、東湖は蟄居を解かれ、遠慮(注・謹慎)小普請組となり、水戸に移される。

  〇維新後の小梅邸
 明治四(1871)年辛未(注・かのとひつじ)七月十四日に廃藩置県の令が出ると、わが(注・水戸藩の)十一代節公(注・徳川昭武)は、その翌日にここに転居した。
 その後、定公(注・水戸徳川家12代徳川篤敬あつよし)はイタリア風を採用して洋館を建設し、明治三十(1897)年に落成した。
 ところが、土地が低くしばしば洪水が起こるので、土を盛って屋敷も新築する必要が出てきた。そこで、当公(注・当代の当主である13代圀順くにゆき)の時代の明治四十五(1912)年五月に、それに着手し、大正二(1913)年九月に竣工した。今の日本館がそれにあたる。

 江東の周辺は、田畑が市街に変化してゆく時期にあたっており、(注・徳川邸においても)明治四十(1907)年から、邸内の田畑、鴨堀などを埋めて市街地として整備を行った。広さは一万坪余り、戸数は五百戸余り。

  〇歴代藩主ならびに夫人の廟所
 歴代の藩公、藩公夫人の尊霊を奉祀した御廟は、旧水戸藩城の中にあったものをここに移し、規模を四分の一に縮小して再建された。明治三十三(1900)年九月九日に落成した。
 廟の前にある、文明夫人(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭の夫人)による御碑は、もと駒籠(注・未詳。駒込別邸?)の庭内にあったものを、ここに移して建てられたものである。

  〇明治八年以降の行幸、行啓
 明治八(1875)年から明治二十九(1896)年までに、前後六回、行幸啓を仰ぎ奉る光栄を得た。
 明治八年四月四日、桜の花が咲き始めたころ、明治天皇が特別に御臨幸あらせられ、次のような勅語を賜る。
 「朕親臨シテ、光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ、其功業ヲ思フ、汝昭武遺志ヲ継ギ、其能ク益勉励セヨ」
 同時に、御製一首を賜る。


  花くはし桜もあれと此やとの 代々のこころを我はとひけり

 明治十五(1882)年十一月二十一日、同十六年六月三日には、天皇陛下が親しく臨幸あらせられ、隅田川における海軍端艇競漕(注・ボートレース)を御覧ぜさせ給う。
 同十七年四月二日には、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、同二十五年六月九日には、皇后陛下、皇太子殿下の行啓を拝し、同二十九年十二月十八日には、再度、天皇陛下の行幸を仰ぎ奉る機会を得た。このどちらも隅田川での海軍端艇競漕を御覧になった。」

 前述したとおり、隅田川公園は歴史的な由緒のある場所であるが、関東大震火災のとき、徳川邸が土蔵一戸のほかは、すべて烏有に帰してしまった。復興局では、この一万坪余りの土地を徳川家から買い取り、その他、付近の地所と合わせて新しく隅田公園を作ったのである。

 水戸家ではこのとき、明治八(1895)年の明治大帝の御臨幸の際、当主に陛下から下賜された御製の記念碑を建設することが決まり、当主の圀順公が碑面に御製を謹書し、背面にその事由を記して、これを後世に伝えることにした。今後、当園に足を運ぶ人は、この石碑によって、今昔を追懐することができるであろう。



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二百九十五  盛久能平家経(下巻536頁)

 昭和六(1931)年は、明治四十二(1909)年に亡くなった梅若実翁の二十三回忌に当たっていた。そこで梅若宗家の六郎氏(注・のちの二代梅若実)は、浅草厩橋の能舞台において一門の盛大な追善能楽会を催した。
 さらに素人演能会をも開かれた。生き残っている実翁の直接の門人が今では暁天の星のように少なくなっていることもあり、私にもぜひ一番出演してほしという勧誘があった。
 そこで、しまいにはそれを引き受けることになり、さて、何を演じようかと悩んだ末に「盛久」に決定した。

 その理由はこのようなものだった。私は以前、厳島神社の重宝である平家納経の副本調製を計画した。経巻模写にあたっては、その道で古今を通じて並ぶ者のいないとされていた田中親美に委嘱し、大正十四(1925)年に完成させ厳島神社に奉納した。その中には、もちろん観音経も含まれていたが、今、能楽二百番の中で、全体が経巻に関わり、とくに平家に縁故のある曲目としては、断じて「盛久」にまさるものはない。今回は追善でもあるので、それでは今度私が盛久を勤めて、平家経巻中の観音経を実際に使おうと思いついたのである。
 ところが、私が平家納経副本調製の記念として田中氏に依頼した模写経は、法華経二十八品中、厳王品、宝塔品、信解品の三巻、あいにく観音品はなかったのである。そこで仕方なく、この三品のうちの一巻を使用するほかはないと思っていた。
 さて、ここで不思議な因縁話が起こった。実翁の追善能は四月二十六日に挙行されることになっていたが、その一日前の二十五日に、品川御殿山碧雲台において、益田鈍翁が第三回遠州会を催した。そのとき、先年から翁が田中親美氏に模写してもらっていた平家経全部を披露することになった。当日私は同会場に行き、主人の鈍翁に面会して盛久の演能について話し、あいにく観音経を持ち合わせていないので、遺憾ではあるが他の経巻で代用するつもりだと言った。すると鈍翁は聞き終わりもしないうちに、能舞台で平家経を読もうとするなら本物でなければ十分に緊張した気分にならないだろうから、今日陳列している観音品をお持ちになったほうがよかろうと言われた。
 そこで私はおおいに喜び、これを借り受けたのである。そして翌日午後三時ごろ、梅若舞台で、この観音経を懐にいれるとき、巻の中のもっとも美麗な箇所を見せるように工夫した。この日は、経巻調製の本人である田中親美氏はもちろん、同の仰木魯堂、森川如春、横山雲泉、越沢宗見らの来観を願った。

 さていよいよ、観音経の一節の、

  或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壌

とよみあげたときには、われながら異常なまでに気分が張りつめた。また、太刀取りが私の後ろに立って「御経の光、眼に塞がり、取り落したる太刀を見れば、二つに折れて段々となる」というところに至って、燦爛たる経巻の色彩がその言葉とよく調和し、いっそうの効果を現わしたように思われた。

 また、盛久能のなかの、口伝とも言える

「吾等が為めの観世音、三世の利益同じくば、斯く刑戮(注・けいりく=刑罰、死刑)に近き身の、誓ひにいかで洩るべきや、盛久が終の道よも闇からじ頼母しや」

というところでは、少し睡眠中に、あらたなる霊夢を感じるところで、左手に持っていた経巻の巻軸が手の中からすこし滑り落ちることになるのだが、それが水晶軸の重みによって、非常にうまいぐあいに運んだ。これは、実物の経巻が生み出した自然の効能であると思われた。
 それにしても、益田邸で偶然に平家副本披露会があって、そこで陳列されていた観音品を、その翌日に梅若舞台で読誦するようなことになるとは、なんという奇遇だろうか。
 ここで私は、田中親美氏と相談し、能楽に適した平家経型の観音経を調製して、それを梅若家に寄贈しようと思いたった。すぐに六郎氏に話してみたところ、六郎氏は非常に喜び、それならば、今回の亡父の二十三回忌追善会を記念するために、今後、盛久能を演じるときには、かならずその経巻を使用することにいたしますと言われた。私も非常に感激して、田中親美に委嘱して、平家経のうちで、地紋色彩のもっとも優美な部分を写して、一巻を作り上げた。そして、田中氏の勧めにしたがい、拙筆で観音経を書写し、さらに腰折(注・自分の歌を謙遜する言い方)一首を白紙に物して、経巻とともに、梅若家に寄贈した。その一首は次のようなものだった。

 梅若実翁二十三回忌追善能に盛久を勤め、其折読誦したる平家経一巻を、同家に参らすとて

  うれしくも盛り久しき梅若の 家にとどめむ法華経の声

 この和歌中の「盛り久しき」は、いうまでもなく盛久のことで「法華経の声」は、梅若に、鶯を利かせたのである。
 ところで、梅若六郎【のちに実邦と改める】氏は、翌昭和七(1932)年四月十四日、厩橋舞台で、みずから盛久を勤めた。貴賓席の床には、私の贈歌の一軸を掛け、このとき、例の平家経形観音経をはじめて舞台で読誦された。
 終演後、六郎氏は、「経巻がみごとなので、一層気分が緊張しました」と、その感想を洩らされた。こうして、今回を始めとして、梅若舞台の盛久能に、ながくこの経巻が使用されるということは、私のもっとも満足するところである。


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二百九十六  日本一の勉強家(下巻540頁)


 大正八、九(191920)年ごろであったろうか、東京のある実業雑誌が「日本一の百家」選を行った。このとき、徳富蘇峰翁を勉強家の日本一、私を怠け者の日本一と発表したのであった。近頃では人間の働き盛りといわれている五十一歳で風来坊の仲間入りをした私をこのように見立てたことは、あながち無理もないことだと思われたが、日本一の勉強家として蘇峰翁を推したことは、さらに一層、適切な人物評(原文「月旦」)であったといわねばなるまい。
 翁は、青年時代から東京の文壇に立ち、まず雑誌社を始めた。ついで新聞社をおこし、さらには政治界にも出入りし、時には大官のブレーン(原文「幕賓」)となった。あるときには朝鮮にまで出向き、人民の文化や知識を開発する機関(注・朝鮮総督府の機関新聞社だった日本語新聞の京城日報社のことであろう)の監督の仕事をしたこともある。
 またあるときには世界各国を遍歴し、執筆の英気を養ったこともある。その間も常に健筆をふるって、その所見や感想の執筆を続けた。まさに、飲食と睡眠の時間以外に翁が筆を手にしていなかった時間はなかったであろう。
 また読書にしても、五行を一度に読むような勢いで(原文「五行並下るの概あり」)和洋の新刊書をひもとき、絶え間なく新しい知識を取り入れて新聞紙上にその所見を発表する。まさに世の中の指導者(原文「一世の木鐸」)であった。
 ほかにも、出版事業、教育事業にも関与し、特に、全国各地に旅行して、いたるところで講演をやるときにも紙と筆を持ち歩くのであるから、普通の勉強家の二、三人分の働きをしていることになる。

 年齢がいってからも、その活動は衰えることなく、近年には「近世日本国民史」を著述しながらも、言論の文章も書いて、諸般の問題をあまねく料理しているという精力絶倫ぶりを発揮し、とても人間業とは思えない。

 翁が、文筆(原文「操觚」)をなりわいとして世に出られてから今日にいたるまでに著作した文字は、おそらく膨大になるはずで、日本開闢以来、たとえ絶無とは言わないまでも、きわめて稀有なことであるだろう。
 近世の文豪中に似たような存在を探したら、誰がいるだろうか。その時勢に通じ、事務にも通じ、政治的活動力を備えているとともに歴史家として秀でているという点で、この三百年では、ただ新井白石を挙げることしかできない。


 私が蘇峰翁と知り合ったのは、大正初年からのことである。あるときは私の伽藍洞にやってこられ、一木庵茶席にはいり、ともに一碗の茶をすすったこともある。あるいは山県含雪公について、上野の表慶館で十大仏画を一緒に観覧したこともある。あるいは、大倉聴松(注・大倉喜七郎)男爵の招待でシナ料理の相客になり、その健啖ぶりに驚かされたこともある。あるいは、水戸義公(注・水戸徳川家二代藩主光圀)の生誕三百年記念展覧会を青山会館(注・徳富蘇峰旧宅)で開くにあたり、翁のために材料集めを手伝ったこともあった。このように、各方面において、いわゆる「日本一の勉強家」である翁の勉強ぶりを目撃する機会を得たのである。これは、非常にありがたくうれしいことだった。
 さて翁は、昭和七(1932)年に、古稀の寿を迎えられたので、門下の人々で相談して、蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会というものを組織し、各方面からの寄稿を集めた。そのとき私は、「作文趣味」と題する拙文一篇を寄せた。その内容の一部には次のように書いた(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)。


「蘇峰先生が東都の文壇に立たれたのは、余よりも四、五年後のことであろう。余は明治十九年ごろ、始(注・ママ)めて先生の書かれた「将来之日本」という題する一篇を見たが、蘇山秀霊の気を帯びたる文彩は、忽ち時人の眼に反射し、彼の蘇東坡が京師(注・みやこ)に出でて、始めて其文章を発表した時の如く、当時東都の文壇に、欧陽永叔(注・欧陽脩)の如き者があったらば、今より数年、人亦老夫を説かざるべしと、嗟嘆した事であろう。(注・欧陽脩は、若い蘇東坡の才能を高く評価した)

 徳富氏は恰も蘇氏の如く、父に老蘇に似たる淇水翁(注・徳富一敬)あり、弟に小蘇に類する蘆花子(注・徳富蘆花)あり、而して蘇峰先生は能く家学を伝えて、之に加うるには洋学を以てし、識見文章共に我が文壇を圧して、政治、宗教、文芸、紀行、随筆等、行く所として可ならざるなく、文情双絶、波瀾独り老成の観あり、殊に目下著作中の近世日本国民史に至っては、千載不朽の大文字で、聞く所に拠れば、毎日暁起、浄几に向かって執筆せらるるそうだが、時に会心の文字を獲るや、其苦心に酬ゆべき作文趣味の愉悦は、果して如何であろう。余は往時頼山陽が彼の「通議」を書き終わって、


  一窓風雪妻児臥 揮筆灯前紙有声


と口吟した時は、王侯の栄爵を受けたるよりも、連城の趙璧を獲たよりも、数倍の趣味的愉快を感じたであろうと思うが、我が蘇峰先生の如き、此点に於いて、或いは遥かに山陽に勝る者があるかも知らぬ。且つ又文筆の士は、兎角薄倖ならざれば短命であるのに反し、蘇峰先生が精力絶倫で、今や古稀の寿域に躋(注・のぼ)らんとするに拘わらず、老健壮者を凌ぐの概あるは、文徳寿福、共に円満なる者と謂うべく、天此文豪に余年を仮して、其の修史の大業を完成せしむべきは、余の固信して疑わざる所である。終わりに臨み拙吟一首を掲げ、我が蘇峰先生景仰の誠を表せんと欲す。


    奉似蘇峰先生
  一家史論挟風雲 三長如今独属君 筆底有時飜学浪 東瀛復見大蘇文 (注・瀛=うみ)


 蘇峰翁の勉強ぶりは、今もなおまったく衰えず、近世日本国民史も、間もなく明治期にはいろうとしている。これはまことに喜ばしい限りである。
 人間のならいとして、古人を偉大に見過ぎるかわりに当代の人物を軽視するという傾向がある。古歌にも、


 来て見れば左程にもなし富士の山 昔も人も斯くやありけん


というのがあるが、翁のような人は、同時代の私たちから見ても非常に偉大であるから、今後百年、二百年を経過したならば、いっそう偉大に見えることであろう、この偉大な勉強家と時を同じくして生まれ、かつ知り合うこともできた私は、まことにしあわせ者であったと思う。



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二百九十七  栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)

 明治六(1931)年は、栂尾【とがのお】高山寺開祖の明恵(注・みょうえ)上人の七百年遠忌に当たっていた。上人は、建仁寺を開山した栄西禅師から三個の茶の実を贈られらたのを、まず栂尾の三本木に植えた。以来、その茶樹が非常に繁殖し、栂尾では狭く感じられるようになったので、上人みずからが宇治に出向き、茶園に適当な地所を視察し、駒の蹄影【あしかげ】という場所をよしとされた。その時の歌がある。

    栂山の尾上の茶の木わけ植ゑて あとぞ生ふべし駒の蹄影

 宇治の茶園がさらにふえるにつれ、それがだんだん日本全国に広がっていった。今では内地の供給を満たすだけでなく、国産品の主要品として年々海外に輸出されるようにまでなったのであるから、上人は、実に日本茶の大恩人といわざるを得ない。
 そこで、京都、大阪、宇治などの茶人、茶商らが、報恩のために、今度の遠忌に際しそれ相応の記念事業を行いたいと希望した。そして、結局、明恵上人遠忌記念(注・記念会?)というものを組織し、大久保利武侯爵を会長に推した。
 その会では一、二年前から資金募集に着手していたが、昭和五(1930)年十一月上旬に、大久保侯爵がわざわざ私の伽藍洞を訪問され次のように言われた。
「自分は先ごろ京都に滞在中、同地の有志者から、明恵上人七百年遠忌事業に関して相談を受けた。上人は島津公爵家の祖先、忠久と旧縁があり、長く栂尾高山寺に納めてあった忠久の肖像を、先年、島津家に譲り受けたことなどもある。そして自分もひごろから、上人の学徳を欽慕している。この事業が順調に進行することを希望しているので、今日は、貴下にも何分の援助を乞うために突然来訪した次第である。」
このように言われたので、私はよろこんでこの勧誘に応じた。

 そして、十一月中旬、入洛のついでに高山寺を訪問し、宮内省図書量御用掛の猪隈信男、光悦会世話役の土橋嘉兵衛の両老を同伴し、当山第一の保護建造物である石水院、そして、鎌倉初期の経巻、什器などを多数収蔵している宝庫などを巡覧した。

 今度の遠忌記念事業において、どのようなものを提供するのがいちばんふさわしいかを相談したところ、同山景勝の地に一棟の茶室を寄進するのがもっともよい計画であると思いついた。そこで、遠忌記念会とは別に茶室寄進会というものを組織し、京阪、名古屋、東京、金沢の道具商諸氏に世話人になってもらい、私が発起人総代、土橋老が世話人総代になり、ひとり百円の茶室寄進者を百三人募集することができた。
 昭和六(1931)年六月から、京都の数寄屋大工の木村清兵衛に命じて、高山寺本坊庫裡の横手に適当な場所を決め、四畳台目茶席、八畳広間の一棟と、別に待合兼用の鐘楼を建築した。また新たに、合図用も兼ねた梵鐘を鋳造した。それを茶恩鐘と名づけ、遺香庵寄進者である百三人の姓名をその周囲に鐫り(注・彫り)、その由来をのちの人に知らせる目的で、次の文句も鋳出しておいたのである。
 
今茲栂尾高山寺開基明恵上人七百年遠忌に当り、平常上人の高徳を慕ひ、其茶恩を感ずる者一百三人相謀りて、一宇の茶室を此地に寄進し、名付けて遺香庵と云ふ。聊か報謝の微志を表せんが為なり。乃ち新に梵鐘を鋳て、寄進者の姓名を其上に鐫り、以て後日の記念と為す。

   昭和六年初冬
       遺香庵寄進者総代 高橋義雄」

 また露地の築造は、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老に依頼した。そして茶室、露地に、万端の準備がすべて整ったので、遠忌法要に先立つこと数日、十一月十一日に遺香庵びらきの茶会を行った。

 当日は秋天快晴の上々吉の茶会日和であった。本坊正面前に受付を設け、そこで芳名録に記名をすませた賓客は、小高い丘の上に立てられた腰掛待合にはいり、自分の名前が彫り出されている、直径一尺六寸(注・一尺は約30センチ)、高さ二尺六寸の梵鐘を打ち鳴らした。すると、満山に響き渡るその音は、明恵上人の茶恩を讃嘆する声と聞こえなくもなく、まことに恰好の供養となった。
 それから順次、遺香庵にはいり、まず私の濃茶飾りつけを一覧し、次に石水院に座を移し、野村得庵君(注・野村徳七)の心のこもった薄茶席でうちくつろいだ。
 午後二時から、山腹にる開山堂で、遺香庵の引き渡し式に参列した。ここに、日本茶の大恩人である明恵上人の本山に、その茶恩を味わうべき茶室が築造されたので、来年からは京都の各茶道宗匠家が順番を決めて毎年献茶会を開くことになった。いささかなりとも遠忌への記念をとどめることができたことは、私たちにとって茶人冥利につきることだった。
 その日私は、即興の二首ができたので、末尾に蛇足として添えておく。


    高山寺
  橋似長虹飲澗横 清流聞做誦経声 白雲黄葉高山寺 人帯斜陽画裡行


    遺香庵
  扶桑到処慕遺香 渇仰上人功徳長 今日新庵修遠忌 満山茶樹是甘棠


 


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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百九十九  故犬養首相遺事(下巻551頁) 

 犬養木堂翁が昭和七(1932)年五月十五日に永田町の首相官邸で青天白日のもと兇徒の毒手にたおれたことは、日本開闢以来の大椿事であった。これに関して世相の批判をすることは歴史的な意味からも重要なことではあるが、そのことについては他日に譲る。
 私はこの兇変により五十年の知己を突然失うことになった。驚愕哀傷、まことに言語道断のできごとだった。
 大政治家である以外に、書道、刀剣、古硯、筆、墨など、幅広い趣味を持っておられたこの翁との交遊を、今、回顧すると、数々の追懐が湧き起こってくる。私は、先輩に対する哀悼の情を慰めるため、ここでその想い出の二、三を記し読者の同情にうったえようと思う。
 木堂翁の余技の中で、もっとも得意としたのは書道だろう。かつて、何流を究められたのかと聞いても、「我に師承なし、ただ古法帖を研究したのみだ」と言われていたが、その書体は、木堂その人のように、痩硬勁抜(注・けいばつ=抜きん出ている)としていた。これは、翁が非常に精通していた刀剣の鑑定からヒントを得たのではないかという感じがしたものだ。
 翁は親友の榊原鉄硯君のために、その文人画を世間に紹介するために、みずからがその讃を書かれたことがあった。私も翁の墨蹟をひとつ持っておきたいと思い、あるとき八木岡春山に孤舟独釣図を描かせて、翁にその讃を乞うたことがあった。翁は、長上幅の上方に、


  雲水平生一釣綸 扁舟来往楚江浜 自焼緑竹炊新飯 誰道煙消不見人
       是徐幼文詩也 木堂散人書


としたため、さらにこれに添えて、次の一書を送ってくださった。


 「敬啓、字がユガミ甚だ見苦し、御勘弁可被下候、此詩は明初の徐賁(注・じょほん。元末明初の文人画家)の作、柳子厚の日出煙消不見人 乃一声山水緑』の翻案にして、尤も傑作と存候に付、認め候。」


 翁がみずから詩作をされたのかどうか、私はついにこれを見たことがなかったが、榊原鉄硯君の画に讃するときは、図柄に応じて、たいてい古人の詩を書かれていたようなので、ふだん好んで唐宋時代以降の諸大家の詩集を読破されていたのだろう。 
 さて画讃についてであるが、これは翁のもっとも苦心するところで、その布置按配の妙は専門家といえども遠く及ばないほどだった。
 翁は書道に深く通じていたので、古硯、筆、墨などについても非常に精密な研究を重ねられていた。例の、直截で簡明な毒舌で滔々と説明されるところには、おおいに傾聴する価値があった。
 翁はもともと皮肉屋で、相手の急所を突くのがうまく、ウイットに富んだ批評で相手を一言で降伏させる技量を持っていた。これは、長年政壇の勇将として攻勢弁論に当たった鍛錬から来たものであろう。時に友人と会って談話をすると、翁はたちまちその中心になり、その話の中には、必ず何か人を驚かすようなことがなければ気が済まないというところがあった。時として悪ふざけが混じることもあったが、どこか独特な愛嬌があって、毒舌の毒を、その後に残さないところに木堂一流の特長が見受けられたのである。
 たとえばある人が老大政治家を指して、「某氏も近頃少し箍(注・たが)が弛んだようだね」と言うのを聞くなり、翁は口元に微笑を浮かべて、「某氏に箍があったのかね」と反問した、などというのはいちばんの例である。
 また翁が大茶目を発揮した一例は、親友の朝吹柴庵【英二】翁が、以前親しくしていた婦人に大阪で旅館を開かせた時、翁は軽石を奉書に包み、水引をかけて、うやうやしくこれをその婦人に贈り、暗に柴庵翁のあばた面を諷したというものだ。これなどは、すこし薬が強すぎた感じがあった。

 私は、翁が首相になってから、ある日翁に会ってゆるゆると談話する機会があったので、次のように言ってみたことがある。「貴下はシナの要人の中に、年来懇意にしている人が多いようだが、彼らと親しく胸襟を開いて、日支の親善の気運を盛り上げるのは、今日、貴下のほかにはいないと思われる、むかし、伊藤公、大久保侯らが李鴻章と会見して直接意見交換をし、その都度、東洋の平和が破綻せずにすんだことがあったが、その後の日支交渉は、いつも公使や領事任せで、大官が直接交渉をするのを避ける傾向があるが、これは全くそうする必要がないことである。貴下は、今や、我が国内閣の首班であるのだから、それを利用して、蒋介石その他のシナ大官と会見して、おおいに東洋問題について論じ、これ以上事態を悪化させないように懇談してみてはどうだろう」と。

 すると木堂翁は、「貴説はいかにもごもっともであると思うが、いかんせん、今日のシナには、時局について懇談をする相手がいないということが困りものである。といって、心ある者は、今日の事態が最上策だとは考えているわけもないだろう。彼らの勢力は、今ではどれも小さな部分に限られており、しかも対内関係を重視し、衆愚に媚びつつ、一時的な安楽(原文「一日の苟安[こうあん]」)をむさぼっているありさまだ。よって今はその時機ではない、もし近い将来、せめてシナの半分だけでも背負って立つほどの人物が出て来たならば、胸襟を開いて、その人とともに東洋百年の長計を熟議したいものである」と述べられた。
 今や、日本側で、この会談の適役を勤めるべき木堂翁を失ったことは、まことに千載の恨事である。私は、翁の長逝に対し、挽歌一首を詠じたので、これを掲げて、哀悼の微志を表することにしよう。


  大丈夫児鉄石膓 稜々気節挟風霜 天皇賜誄哀長逝 死有余栄老木堂

 


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三百  和製張子房(下巻
555頁)


 後藤新平伯爵のことを、ひところ世間で和製ルーズヴェルトと言いはやした例にならい、私は、久原房之助君に、和製張子房(注・張良=秦末前漢の政治家、軍師。劉邦に仕える)の尊称を贈ろうと思う。
 後藤伯爵は元気はつらつで、その言動が果敢であることと、鼻眼鏡がルーズヴェルトに似ていたことからその異称がついたのであろうが、私は、司馬遷が張子房を評して「籌策(注・ちゅうさく=計略)を帷幕の中に運(注・めぐ)らして、勝を千里の外に決し、而してその状婦人女子のごとし」と言ったのを、久原君になぞらえて、この尊称を贈呈したのである。
 久原君が大正初年に日立鉱山を手に入れ、その祝宴を築地の瓢家に張ったとき、田中銀之助氏が同席者に、「僕は久原君の事業の成功をうらやましいとは思わぬが、その状貌婦人のごとく、人に接して温容靄々たる(注・容貌が女性的で、人当たりが温かさとやさしさに満ち溢れている)ところが、実に健羨(注・けんせん=うらやましいこと)に堪えないよ」と言われたのが、まさに適評であると思う。
 久原君の父である庄三郎翁は、藤田鹿太郎翁を兄とし、同伝三郎男爵を弟として、三人共同して藤田組を経営された。翁は一見、好々爺のようで、いかにもおだやかで人当たりがよいため、藤田組においても常に外交方面に当たっておられた。 
 私が明治中期に大阪に滞在していたときは、しばしば翁に会う機会があったが、翁は書画什器を愛し、ことに四条派のものについては当時の鑑識者のひとりであった。

 ある日私が、翁の京都知恩院(原文「智恩院」)そばの別荘を訪ねたとき、翁は、「およそ別荘というものは、便利と閑静とを兼ねあわせていなくてはならない、どんなに静かでも、それが不便な場所にあったのでは、用をなさないではないか」と言われたが、たしかにこの別荘は、知恩院のそばの袋町にあり、門を出れば祇園、四条の繁華街に接し、門をはいれば華頂山寺の閑寂を占める景勝の地であることに感心したことがあった。
 久原君は少年時代、慶應義塾幼稚舎から進んで本科にはいり、卒業後間もなく藤田組経営の小坂銅山にはいって十三年間実地研究を積んだ。一時は非常に悲観的状況に陥った小坂銅山で、ドイツで発明された新しい精錬法を試みて、あっという間にこれを復活させた。日露戦争前後の藤田組の社運隆々なのは、久原君の鉱業での新しい工夫が成功への原動力になったそうだ。しかし、「蛟龍(雲雨を得れば)ついに池中の物にあらず(注・池に住む蛟(みずち)もチャンスをつかめば天に飛翔する)」というように、ほどなく藤田組から離れ、大正初年に日立鉱山を手に入れた。日立鉱山は時勢の運にも恵まれ、あっという間に大きな発展を遂げ、一躍、三千万円の大会社に成長した。その豪勢さに人々はやがて目を見張った(原文「瞠若(どうじゃく)たらしむ」)
 久原君は、見た目が柔和であると同時に、非常に人情味に富んでいた。とくに、母堂に対する孝養は人がうらやむほどだった。こんなこともあった。大正初年に、君が母堂に東京見物をさせようとしたとき、東京の宿を必死で探しておられた。私は、実業界から隠退後で、ちょうどこの時、一番町邸から四谷伝馬町の新宅に移ろうとしていた。それで久原君に一番町邸のほうを母堂の宿として提供したのである。このとき母堂は風邪気味で、結局、上京されなかったが、こんなことからも、ひごろの孝心がいかに深く厚かったかを知ることができるだろう。
 さて、私と久原君の間には、とてもおもしろい口約束が交わされているので、そのいきさつをここに記しておく。
 大正五年ごろであった。私は京都鷹峯の光悦寺境内に、本阿弥庵という五畳床付の一庵室を寄進した(注・223・鷹峯光悦会発端を参照のこと)。その工事の片がついたので、検分のために出かけようとすると、ちょうど久原君も京都に滞在中だったので、君を誘って光悦寺に赴いた。そこで、紙屋川をへだてて鷲ヶ峰に対面し、竹林の上に現れた比叡山を左にして、蒲団を着て寝ているような姿の東山をはるかに望見しながら、ふたり並んで腰掛けに座った。そのとき久原君が私のほうを見て、「君が林泉の間に悠遊して、茶事三昧にはいっている生涯は、まことにうらやましいものである」と言われた。そこで、私はすかさず、「さらば、君と僕と、身分を取り換えようではないか」と言った。すると、久原君も、勢い余った行きがかり上(原文「騎虎の勢いで」)、いやだとも言えず、では取り換えよう、という言質(注・誓約)を与えてくださったのである。
 私は、この言質を取ったからには、今すぐに実行する必要もないので、実行の時機については私に一任してほしいと言って、そのときはそのまま笑って別れた。
 その後、昭和三(1928)年、私が帝国ホテルで大正名器鑑の出版記念会(原文「告成式)」を開催し朝野の名士を招待したときに、君は威望隆々たる逓信大臣で、田中首相(注・田中義一)とともに来臨された。その帰途、君は私に向かって「いつぞやの約束を、この辺で決行してはどうですか」と言われたので私は首を左右に振り、「いやいや、まだその時機ではありますまい」と答えておいた。
 続いて昭和七(1932)年末、井上侯爵家に仏事があったとき同邸で君に偶然出会い、連れ立って玄関から出ていこうとしたとき、君は私に「例の約束はまだかいな」と言われたので、「だんだん近づいてきたようだが、ここまで来た以上はもうすこし辛抱したほうがよいと思う」と一笑して別れた。
 最近、君の姻戚の鮎川義介(注・鮎川の妹と久原が結婚していた)君に会った時、たわむれにこの話をすると、君は大笑して、「その約束は、この世ではとうてい果たされないでしょう」と言われた。
 しかし私は、この先に、まだおおいに期待している。久原君に、いつこの約束履行を申し込むか知れないので、君もこれ以上出世するのは、チト考えものであるかもしれない。



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「箒のあと」を書き終りて(下巻559頁)
(注・旧字を新字になおした。旧仮名遣いはそのまま、途中の漢詩は省略した)

                
                 箒庵 高橋義雄

 昨年六月十八日を以て、都新聞に掲げ始めた「箒のあと」は、今や満一年を過ぎて、予定の三百篇を載せ終つた。最初都新聞整理部長渡部英夫君が、我が伽藍洞を訪ひて、同新聞に「箒のあと」を掲載すべく請求せられた時、私は渡部君に向ひ、我が作つた文は、恰も我が子の如く思はるるから、精々可愛がつて下さいと希望して置いた処が、其後同新聞写真部長中村長作君が、非常の丹精を以て、諸方より図画写真を取り集め、之を篇中に挿入して、記事に一段の興味を添へられたので、不肖の子も、幸ひ読者諸君の愛顧を辱うする事を得たのは、私の深く感銘するところである。

(漢詩中略)

 私は右様の次第で、首尾よく「箒のあと」を書き終つたので、

  まばらにも掃きあつめけり花紅葉 ふりたる筆を箒とはして

と口吟んだが、振り返つて見れば、書くべき事が、猶ほ数多く残つて居るから、追て標題を改めて、更に散りたる花紅葉を掃き尽くす事としやう。




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