二百九十六 日本一の勉強家(下巻540頁)
大正八、九(1919~20)年ごろであったろうか、東京のある実業雑誌が「日本一の百家」選を行った。このとき、徳富蘇峰翁を「勉強家の日本一」、私を「怠け者の日本一」と発表したのであった。近頃では人間の働き盛りといわれている五十一歳で風来坊の仲間入りをした私をこのように見立てたことは、あながち無理もないことだと思われたが、日本一の勉強家として蘇峰翁を推したことは、さらに一層、適切な人物評(原文「月旦」)であったといわねばなるまい。
翁は、青年時代から東京の文壇に立ち、まず雑誌社を始めた。ついで新聞社をおこし、さらには政治界にも出入りし、時には大官のブレーン(原文「幕賓」)となった。あるときには朝鮮にまで出向き、人民の文化や知識を開発する機関(注・朝鮮総督府の機関新聞社だった日本語新聞の京城日報社のことであろう)の監督の仕事をしたこともある。
またあるときには世界各国を遍歴し、執筆の英気を養ったこともある。その間も常に健筆をふるって、その所見や感想の執筆を続けた。まさに、飲食と睡眠の時間以外に翁が筆を手にしていなかった時間はなかったであろう。
また読書にしても、五行を一度に読むような勢いで(原文「五行並下るの概あり」)和洋の新刊書をひもとき、絶え間なく新しい知識を取り入れて新聞紙上にその所見を発表する。まさに世の中の指導者(原文「一世の木鐸」)であった。
ほかにも、出版事業、教育事業にも関与し、特に、全国各地に旅行して、いたるところで講演をやるときにも紙と筆を持ち歩くのであるから、普通の勉強家の二、三人分の働きをしていることになる。
年齢がいってからも、その活動は衰えることなく、近年には「近世日本国民史」を著述しながらも、言論の文章も書いて、諸般の問題をあまねく料理しているという精力絶倫ぶりを発揮し、とても人間業とは思えない。
翁が、文筆(原文「操觚」)をなりわいとして世に出られてから今日にいたるまでに著作した文字は、おそらく膨大になるはずで、日本開闢以来、たとえ絶無とは言わないまでも、きわめて稀有なことであるだろう。
近世の文豪中に似たような存在を探したら、誰がいるだろうか。その時勢に通じ、事務にも通じ、政治的活動力を備えているとともに歴史家として秀でているという点で、この三百年では、ただ新井白石を挙げることしかできない。
私が蘇峰翁と知り合ったのは、大正初年からのことである。あるときは私の伽藍洞にやってこられ、一木庵茶席にはいり、ともに一碗の茶をすすったこともある。あるいは山県含雪公について、上野の表慶館で十大仏画を一緒に観覧したこともある。あるいは、大倉聴松(注・大倉喜七郎)男爵の招待でシナ料理の相客になり、その健啖ぶりに驚かされたこともある。あるいは、水戸義公(注・水戸徳川家二代藩主光圀)の生誕三百年記念展覧会を青山会館(注・徳富蘇峰旧宅)で開くにあたり、翁のために材料集めを手伝ったこともあった。このように、各方面において、いわゆる「日本一の勉強家」である翁の勉強ぶりを目撃する機会を得たのである。これは、非常にありがたくうれしいことだった。
さて翁は、昭和七(1932)年に、古稀の寿を迎えられたので、門下の人々で相談して、蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会というものを組織し、各方面からの寄稿を集めた。そのとき私は、「作文趣味」と題する拙文一篇を寄せた。その内容の一部には次のように書いた(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)。
「蘇峰先生が東都の文壇に立たれたのは、余よりも四、五年後のことであろう。余は明治十九年ごろ、始(注・ママ)めて先生の書かれた「将来之日本」という題する一篇を見たが、蘇山秀霊の気を帯びたる文彩は、忽ち時人の眼に反射し、彼の蘇東坡が京師(注・みやこ)に出でて、始めて其文章を発表した時の如く、当時東都の文壇に、欧陽永叔(注・欧陽脩)の如き者があったらば、今より数年、人亦老夫を説かざるべしと、嗟嘆した事であろう。(注・欧陽脩は、若い蘇東坡の才能を高く評価した)
徳富氏は恰も蘇氏の如く、父に老蘇に似たる淇水翁(注・徳富一敬)あり、弟に小蘇に類する蘆花子(注・徳富蘆花)あり、而して蘇峰先生は能く家学を伝えて、之に加うるには洋学を以てし、識見文章共に我が文壇を圧して、政治、宗教、文芸、紀行、随筆等、行く所として可ならざるなく、文情双絶、波瀾独り老成の観あり、殊に目下著作中の近世日本国民史に至っては、千載不朽の大文字で、聞く所に拠れば、毎日暁起、浄几に向かって執筆せらるるそうだが、時に会心の文字を獲るや、其苦心に酬ゆべき作文趣味の愉悦は、果して如何であろう。余は往時頼山陽が彼の「通議」を書き終わって、
一窓風雪妻児臥 揮筆灯前紙有声
と口吟した時は、王侯の栄爵を受けたるよりも、連城の趙璧を獲たよりも、数倍の趣味的愉快を感じたであろうと思うが、我が蘇峰先生の如き、此点に於いて、或いは遥かに山陽に勝る者があるかも知らぬ。且つ又文筆の士は、兎角薄倖ならざれば短命であるのに反し、蘇峰先生が精力絶倫で、今や古稀の寿域に躋(注・のぼ)らんとするに拘わらず、老健壮者を凌ぐの概あるは、文徳寿福、共に円満なる者と謂うべく、天此文豪に余年を仮して、其の修史の大業を完成せしむべきは、余の固信して疑わざる所である。終わりに臨み拙吟一首を掲げ、我が蘇峰先生景仰の誠を表せんと欲す。
奉似蘇峰先生
一家史論挟風雲 三長如今独属君 筆底有時飜学浪 東瀛復見大蘇文 (注・瀛=うみ)
蘇峰翁の勉強ぶりは、今もなおまったく衰えず、近世日本国民史も、間もなく明治期にはいろうとしている。これはまことに喜ばしい限りである。
人間のならいとして、古人を偉大に見過ぎるかわりに当代の人物を軽視するという傾向がある。古歌にも、
来て見れば左程にもなし富士の山 昔も人も斯くやありけん
というのがあるが、翁のような人は、同時代の私たちから見ても非常に偉大であるから、今後百年、二百年を経過したならば、いっそう偉大に見えることであろう、この偉大な勉強家と時を同じくして生まれ、かつ知り合うこともできた私は、まことにしあわせ者であったと思う。
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