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二百八十七 延寿達磨(下巻507頁)

 五世清元寿大夫、岡村庄吉翁は大器晩成で、古稀(注・数え年70歳)を過ぎても声量がそれほど衰えず、芸の技はますます老熟した。その凄艶秀絶な清調(注・澄んだ声)は、目下のところ、浄瑠璃界全体を見まわしても他の追随を許さないものがある。それはもちろん天性の才能(原文「天稟=てんぴん」)のなせるわざではあるが、翁は芸術にのみ忠実で、もっぱら自身の健康に留意し、ほかの音曲師匠のように多くの門弟に稽古をつけることがなく、つねに医戒(注・健康に関する教え)を厳守しているからである
 適度な睡眠と食事を守り、十数年前から伊豆の伊東に別荘(原文「別業」)を構え、一回の劇場出演が終るとすぐにそこに赴き、呼吸疾患に特効がある同地の温泉につかる。そして一切の俗用を避けて、おのれの至宝である音声の保養につとめるのである。だからこそ、その芸術が老衰をきたすということがないのであろう。
 このように翁は芸術本位で保養を大切にしているため、その余暇のなぐさみに(原文「消閑の為め」)、最近では絵画に指を染めている。ひまさえあれば一室に閉じこもり、さかんに揮毫を行っているようだが、これまで師について学んだということはなく、古画を研究したり実物を写生したりして、いつもの根気よさで熱心に続けている(原文「孜々として倦まぬ」)ので、上達もはやく、近作の中には一種独特の風格があらわれているものもあるそうだ。
 もっともはじめのうちは失敗だらけで、竹が芦に見えたり、虎が猫と間違えられてしまうくらいはまだよくて、あるときは、ひと刷毛描きの鷺を描いて、大自慢でそれを田舎出身の下働きの女(原文「下婢」かひ)に見せたところ、女は不思議そうな顔をして、「旦那様、これはおかめの面でござんすか」とききかえしたので、さすがの大画伯も答えにつまって、ただただ苦笑を洩らすばかりだったそうだ。
 しかしその後画題のうち、馬、うぐいすなどには、かなりの佳作もあった。とくに鰹(注・かつお)は、伊東滞在中に毎日漁場に出かけ、解剖するようにさまざまな写生を行い、独特な新感覚のあらわれた作品になっているものもあって、翁の新画の十八番物のなかでも随一だということだ。
 さらに最近は、だんだん人物画にも興味を持ち、鍾馗や達磨などを描き始めた。なかでも達磨はもっとも得意とするところだそうだ。
 その苦心談をきいてみると、達磨はインドで聖者であり、あの毛のちぢれた黒人ではなく、容貌はコケ―ジャン(原文「コーケシヤン」=白人のこと)系の北欧人に近いはずなので、描くときには、達磨の顔をいくぶん西洋顔にして、独特な風格を描き出したのだという。
  翁は、その絵画には必ず自讃をつけるが、書については、翁が明治九1876)年から十八(1885)年まで三井物産会社の少年書記時代に鍛えた腕前に、その後多年の修練が加わり、剛健で抜群(原文「勁抜」けいばつ)な筆づかいで、ほとんど作家の域に達している。
 昭和四(1929)年の一月に、翁の達磨の評判を耳にして、荊妻(注・けいさい=妻のことを謙遜していう表現)の柳舟(注・高橋楊子。東明柳舟)が、新年の試し書きを所望すると、翁はおおいに乗り気になって、描きも画いたり、二百余枚のその中から会心の一枚を選んで贈られたので、さっそく表装に取り掛かり、一月二十八日に赤坂伽藍洞(注・高橋箒庵邸)で達磨びらきの茶会を催すことになった。この達磨画讃は、次のようなものだった。

    心外無別法
   我影も動かぬさまや冬の月
         五世延寿並題印

 この延寿達磨画讃の表装は、上下が萌黄地丸龍紋緞子、一風(注・一文字と風帯)と中廻しが丹地金襴で、それを書院の九尺床にかけ、荊妻の柳舟主催の茶会に来洞した人々は、延寿、栄寿(注・清元栄寿太夫)の両夫婦、稀音家六四郎、清元栄治郎の面々で、達磨幅の前には時代物唐物黒塗卓に青磁四方香炉を置き、名香蘭奢待(注・らんじゃたい)を薫じた。書院には、青貝入波に片輪車蒔絵手箱、床脇棚には厳島経(注・平家納経)の写し二巻、琵琶棚には土佐光信の胴革絵の平家琵琶を飾り、私は床の中にいる達磨を礼讃するために、六四郎をワキとして、栄治郎の三味線で、平岡吟舟翁節付けの東明流「道八達磨」の一曲を演奏した。
 この道八達磨というのは、東福寺の兆殿司(注・室町時代の画僧、ちょうでんす)筆で、織田信長の実弟である有楽斎長益の子、左門頼長、俗称、道八の旧蔵であるために、この名称がある。道八は、飄逸奇抜な茶人で、この達磨をみずからの肖像とみなし、画像の上に虚空元年月日の日付で、

     我影と眺めながらも余のうさを 知らぬ顔こそ羨ましけれ

と自讃して、終生これを秘蔵したそうである。
 この達磨を道八というならば、今度の達磨は、延寿達磨といってもよいだとうということで、私は延寿達磨という清元曲の新曲を作って翁に贈った。

 このようにして、和気あいあいの中に延寿達磨びらきの茶会は終わったが、この日、晩からの雪は鵞毛(注・ガチョウの毛)のようにひらひらと舞い、このまま降り続ければ、翌朝には庭に大きな雪だるまができそうに思われた。



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