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二百八十三  平家納経副本完成(下)(下巻492頁)

 前項(注・282平家納経副本完成(上)を参照)に記述したように、平家納経は田中親美氏の五か年半の丹精によって原本にも劣らない副本ができあがった。そこで、清盛の願文に記載されている仁安元(1166)年十一月十八日という月日にちなみ、大正十四(1925)年の同月同日に、この副本を厳島神社に奉納することが決まった。
 その奉納前に、副本寄進者や一般の同好者に展示したいと思い、まず上野帝室博物館の許可を得て、十一月十一、二、三の三日間、原本と副本をあわせて同館の表慶館に展陳する運びになった。
 ところがその前日の九日に、皇后陛下(注・貞明皇后)が帝室博物館に行啓あらせられたので、原本十巻と副本全部とを御覧にいれたところ陛下はたいへんに御感心なさり(原文「御感 斜ならず」)、破格なこととして田中氏を召し出され、「さぞご苦労であったろうが、大層好く出来ました」というありがたい御言葉を賜ったのである。田中氏は、光栄身に余る思いで、陛下の美術奨励の思し召しの深いことに感泣したのであるが、これは、田中氏ひとりの光栄であるばかりでなく、寄進者一同にとってもまことにありがたいことだった。
 こうして表慶館における三日間の展観が大盛況のうちに終了すると、今度はこれを京都恩賜博物館に陳列して、十五、六の両日に東京でと同じように一般(原文「衆庶」)の観覧に供した。 
 そしていよいよ十一月十八日、午前十時に厳島神社に奉納するという段取りなので、私たちは、馬越恭平、野崎広太、田中親美、森川勘一郎、吉田丹左衛門、その他東京、京阪の道具商連中といっしょに神殿に参列した。
 御戸帳の内検に一段高く金幣を立て、その両側に供物を供えて、菊地宮司以下、神職が列座したうえで、馬越恭平翁が寄進者総代として例の奉納文を朗読し、これから一同で玉串を神前に捧げ奉納式は終了した。
 私は欣喜のあまり、次の一首を口ずさんだ。

    年を経て写し終へたる法の巻 神に捧ぐる今日の嬉しさ

 前述したように、平家納経は、まず経巻だけを奉納し、次いで原物どおりの金銅篋(注・はこ)を奉納して、はじめて国宝中の国宝たる平家納経の副本が完成したのであった。
 この副本調整には五年半を費やした。その間に、大正十二(1923)年の大震災があったので、私にとっては思い出しても身の毛がよだつような事件があった。れは次のようなできごとだった。
 副本の調整中、私と益田孝男爵が、文部省からの命令でそのその保管者となっていたので、神社から十巻ずつ東京に持ってきて、それを品川御殿山の益田男爵の倉庫に保管し、田中親美氏が必要に応じて二、三巻ずつ渋谷の自邸に持ち帰って順次模写をしていた。しかし渋谷と品川を往復するのが、あまりに遠くてたいへんなので、もう少し近場に移転してもらいたいという請求があった。そこで、私は、当時赤坂山王台下にあった平岡吟舟翁の倉庫が、翁の秘蔵の袋物類を保蔵するために、この上なく堅牢な石造りの建築になっていることを知り、納経の一部をこの倉庫に移すことを決定した。大正十二年八月二十八日にそれを決行しようとしたところ、平岡翁が国府津の別荘に行って不在であったため、翁が帰宅するまでしばらく猶予しているあいだに、例の震火災が起こったのである。
 平岡翁の倉庫は無類に堅固なものであったが、石造りだったため地震によって壁間に亀裂が生じ、その隙間から侵入した猛火の舐めつくすところとなったのである。もし平岡翁が在京していたならば、少なくとも納経の三、四巻は、この倉庫の中にあって焼失したであろう。それは思うだけでも恐ろしい危険なことだった。それが、偶然のおかげで危険を免れたのは、このような名宝に対しては不思議な神明の加護があるからなのである。
 私はこれに先立ち厳島に赴いたとき、納経を保管していた倉庫を見せていたいただいたが、その倉庫は木造で、しかもかなり粗末なものであった。そして、いつのことだか、放火によって半焼したことさえあったのである。
 さて、菊地宮司らも、厳島神社の什宝の数が非常に多いにもかかわらず、宝庫がきわめて粗末であることから、当社にもっとも関係の深い毛利公爵、浅野侯爵の両家をはじめ、その他一般の篤志家の援助を請うて、完全な宝庫と、宝物陳列館を建設しようとされている。そのために目下、熱心に勧化(注・かんげ=寺のための寄付集め)を行っておられることは、まことに時宜を得た盛挙であろう。
 およそ古代の宝物というものは、人為的であれ、自然的であれ、さまざまな障害に出遭って、破損したり、散逸したりして、完全に伝存しているものは非常に少ないものだ。にもかかわらず、平家納経は、七百年余りもの前に平家一門が奉納したときのままに、経巻、容器ともに完全に保存されてきた。このことはまさに、平家納経が国宝中の国宝であることの理由なのである。
 だから私は、前述した危険を追懐するたびに、慄然として、鳥肌が立つ(原文「肌に粟する」)思いをせざるを得ない。これこそが、私の一生のうちで、もっとも恐ろしかった思い出であるので、ついでのことながら、ここにそれを告白する次第である。



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