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   二百七十八

中京の茶風一変(下巻475頁)

 大正癸亥(注・みずのとい。大正12年。1923年)の大震災は、単に罹災地だけでなく、はるかに距離を隔てた名古屋、すなわち中京の茶界にまでも思いも寄らない影響を及ぼした。その次第は次のようなものである。
 今や茶道の第一人者と言われている益田鈍翁が、震災直後に家族の一部とともにしばらく避難していた。そのとき同地方の数寄者連は、鈍翁慰安のために争って茶会を催し翁を招いた。その数は多く、翁はひっぱり凧となり、一日に五、六回の茶会に出席したことさえあったという。
 そのうちに、ようやく物情がおさまってくると、鈍翁は、さいわいに無難だった品川御殿山、相州(注・現神奈川)小田原の両方の宝蔵から茶器を取り寄せて、返茶(注・返礼の茶事)を催し、かたっぱしから中京の数寄者を招待したので、同地方の人びとは、はじめて東京の茶事に触れることになったのである。
 それまでの中京の茶事がどのようなものであったかというと、その多くは同地方で勢力をもっていた久田流ないしは松尾流の宗匠の指導を受けていた。掛物には、それら流祖の筆跡を珍重し、久田宗全作の楽茶碗などをこの上ない名品として満足していた。茶席において、宋元の書画や上代の古筆を用いる者はなく、すべてが地方の低級な田舎茶に過ぎなかったのである。
 それが今や、天下の大宗匠が主人になり東京の茶風を煽揚したので、同地方は、関東大震火災によって経済的にも膨張発展した事情ともあいまって、たちまちのうちに茶風が一変し、それまでの低級な茶流から脱皮し、一躍、東京流に同化することになったのである。これは不慮の震災から生じた鈍翁の感化だといえよう。
 このときから、中京と鈍翁のあいだには親密な茶的関係が生じ、中京の数寄者が東京や小田原の鈍翁の茶会に間断なく参加するようになった。そしていよいよその流風に感化された。もしも普通の経路をたどっていたならば、何十年かけても到達することは難しかったに違いないような進境を示したのである。中京茶人は、ながく鈍翁の感化が偉大であったことを忘れてはならないであろう。


京の古筆流行(下巻476頁)

 前述したように、名古屋地方においては茶風が一変したが、それとともに、ここで非常に注目すべきことには、同地方において上代古筆物の流行をきたしたという事実がある。もともと同地には関戸家という旧大家があった。主人は守彦といって、伝来の名物茶器も少なくなかったのであるが、とりわけ知名な古筆物を豊富に収蔵していることでも、天下のなんびとにも劣らないほどの大家だった。だが大正初年までは土地に古筆物を賞玩する者がなかったために、所蔵品を見せようというような意志もなく、誰言うともなく、「関戸家の天の岩戸は、なんびともこれを開くことを得ず」という評判だった。
 私は大正名器鑑の編纂のために、いかにしても同家の名品を検覧しなくてはならないと思っていたので、あるとき関戸主人に懇請し、ついに初めてその所蔵品を拝見することができた。それで、同地の人々のなかには私のことを、関戸の岩戸を開いたタヂカラオ(原文「手力雄命」)であるという者さえいた。
 このころから、同地の森川如春勘一郎氏が、年若いのに似ず、田中親美氏について古筆物を研究し、頭脳明哲で一を聞いて十を悟り、短い間に(原文「未だ幾ならず)立派な鑑識家となったので、中京茶人の組織である敬和会という順回茶会(注・各家で持ち回りの茶会)の先導役となり(原文「牛耳を執り」)、大いに古筆熱をあおった。
 その結果、関戸家を中心に、同地には多数の古筆研究家が誕生し、にわかに蒐集者の増加を見たのである。
 そこで、大正十四(1926)年五月、名古屋市立図書館長の阪谷俊作氏を催主にして、十七、八、九の三日間、同市立図書館で上代仮名展覧会を開催することになった。これには、中京側では関戸、森川の両氏、東京側では益田孝男爵、田中親美氏が賛助した。
 同図書館では、新館の階上全部を展覧会場とし、壁に掛物を列掲し、陳列箱に、帖、巻および残片を披陳(注・ひらいて陳列)した。
 その数といい品質といい、これほどの有名な古筆物を一堂に集めたことはかつてないことであった。東京、中京の諸大家から出品されたものを挙げてみると、井上勝之助侯爵の藻塩草、三井八郎右衛門男爵(注・三井北家10代高棟たかみね)の高松帖、益田孝男爵の翰墨城、原富太郎氏の落葉帖、岡谷清治朗氏の鳳台帖といったもので、天下有数の古筆手鑑を展観したのである。
 このことで、いっそう古筆愛好者が増え、それ以来、東京や京阪の入札会においても、めぼしい古筆物は、往々にして名古屋地方にさらわれるという傾向が見られるようになった。古筆物の相場が維新以降に騰貴した書画骨董の中にあって、きわだって群を抜いているが、それは、中京における古筆の流行が、その原因の一半をなしたようである。
 これが全国の好事家の間にも波及し、近年では古筆物の価格はうなぎのぼりで、貫之の高野切が、一行二千円するというのが常識になり、歌柄によっては、あるいは三千円の値がつくものすらあるのである。
 このような流行は、東京側からの益田男爵や田中氏の声援にあずかったという力が大きかったこともあるにせよ、古筆鑑定において、はやくから一隻眼をそなえていたばかりでなく口も八丁、手も八丁で中京一帯に好事家を勧誘した、森川如春の功労が大きかったといわねばならない。
 茶事と古筆が関連しあって、ともに大いに向上し、中京が、西の京阪や東の東京と、対抗しうる位置につけるほどになったことは、同地のためには、おおいに祝福すべきことであっただろうと思う。
 


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