二百七十七 嬉森庵の命拾い(下巻472頁)
大正五(1916)年、私は名古屋の旧家、牧野作兵衛氏から京都表千家の不審庵写しの古茶室を譲り受け、向島水戸徳川邸の東南に位置する大椎樹の森の中に移築し、これを嬉森庵と名づけた。(注・221「松方公爵の大師流」を参照のこと)
牧野家は、当主から五代前の主人が非常な好事家で、表千家の不審庵の写しを作るにあたり、ただ茶室だけでなく、露地の樹木、飛石、石灯籠などの大小や位置までをも、ことごとく模倣したのだそうだが、それは今から約二百年前のことである。不審庵は維新後に火災にあっており、同庵の写しの中で非常に古いものは全国でもこの一席だけだということだ。
この席は長三畳台目で、台目畳の脇に、幅四寸(注・一寸は約3センチ)ほどの長板があり、茶道口は太鼓張りの片びらきになっているのが珍しい。東京には、それまでのこれを写した茶席がなかったので、向島徳川邸の東南方に、もともと嬉森という名前の椎の大木が林立している一画があったことを幸いに、その中にこの茶室を建てたらよいと思い、とうとうこれを譲り受け、徳川家の許可を得て名古屋から本席を移したのである。
これに五畳一間床付の広間を付属して、露地を広々ととり、曳舟通りから入って突き当りに三畳の寄付を設けた。そして、不審庵と語呂が似ていることから、嬉森庵と名づけ、扁額に松方老公(注・松方正義)の揮毫を乞い、同年末に完成を告げた。
それ以来七年間というもの、この席においてしばしば茶会を催し、山県含雪公、徳川家達公、井上勝之助公爵らの来臨をいただいたこともあった。
とくに山県公を招請したときには、老公が水戸徳川庭内に来られるということは今後おそらくないと思われた(原文「二度と容易にある間敷ければ」)ため、当主の徳川濤山侯爵【のち公爵】(注・水戸徳川家13代当主圀順くにゆき)に頼み、本館客間に明治天皇の「花くはし」の御宸翰(注・しんかん。天皇直筆の文書)をはじめ、霊元天皇ほか歴代天皇から水戸家に下賜された数々の宸翰を飾り、茶会のあと、公爵を庭園伝いにその陳列室に案内して縦覧に供したのである。
公爵は敬虔な態度でそれらを仔細に拝観された。水戸徳川家の勤王の事蹟については天下に顕著であるが、今日数々の文献を拝見してみると、聞きしにまさる盛観で、水戸家歴代の君臣の勤王に対して、おおいに敬意を払わずにはいられないと非常に感激された。私は、水戸家の背景によって大いにこの茶会の威厳を高めたことを、まことに望外の光栄としたのである。
さて、この嬉森庵は、建築されてから二百年たっているもので、古茶室の少ない東都(注・東京)においては、古さにおいてまちがいなく十指のうちに数えられるものだろう。今、東都の古茶室を挙げてみるならば、内田山井上侯爵邸の八窓庵、麻布今井町三井男爵(注・三井高棟)邸の如庵、上野博物館構内の六窓庵であり、その次にはこの嬉森庵を推さなくてはなるまい。
この嬉森庵が、さいわいなことに大正十二(1923)年の震災を免れた。それはほかでもない、次のような事情によるものだった。
そのころ向島付近がだんだんに工場地帯になり、煙突の煙が邸内を襲うようになって、邸宅地として次第に不適当になってきたので、山の手あたりにそれに替わる土地を見つけ次第、移転を断行するという意見が水戸徳川家において台頭していた。私は、この嬉森庵が長くこの場所に安住できないということを知り、どこかにこれを移転する必要を感じていた折柄、上目黒に広大な住宅を有する津村重舎翁が邸内に茶席を設けようとしているということを聞き、同翁と相談の結果、庭石もろとも嬉森庵を譲渡することになったのである。その移築工事も着々と進行して、ほどなく全部引き移った直後に九月一日の震火災があり、徳川邸は新設した土蔵一戸だけを残してすべて烏有に帰したのである。嬉森庵が、あとすこしでもこの地にとどまっていたならば無論焼失してしまったであろうに、その前に津村邸に移転したので危ういところでその厄を免れたというのは、まったく天佑と言わざるを得ないのである。
そこで、その後津村翁から庵名を求められた時、私は、もっともありきたりに(原文「通俗に」)天佑庵と命名し、扁額に拙筆をふるったのであったが、古茶室が稀有といえる東都において、この庵がその原形を全うすることができたのは、もちろん天佑のなせるわざであったとはいえ、津村翁が折よくも、これを引き受けてくださったおかげであると言わなくてはなるまい。
津村翁はこの茶室の移築後、その開席披露をするために数々の名器、名幅を蒐集されたばかりでなく、最初は故藤谷宗仁について裏千家の手前を習い、ついで同後継者の森谷宗勇を招いて夫婦ともに茶道を練習されながら、いまだこれを決行されていない。あるいは謙遜の結果かもしれないが、私は以上のような次第で、嬉森庵の天佑をよろこんでいる者なので、なるべくはやく開庵茶会を催して、同庵の中にはいって、その幸運を祝するという光栄を与えていただきたいものだと、(原文「得しめられんことを」)、あえて希望する次第である。
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