二百七十五 若州酒井家名器(下巻464頁)
若州(注・若狭、現福井県)酒井家、空印忠勝は、小堀遠州とのあいだに茶に関することでの交渉事が持ったことがある。遠州が茶器買収のために公用金を使い込んでしまったとき、三代将軍は国持大名に内命して援助させたかわりに、遠州からそれぞれの大名に茶器を分譲したのだそうで、このとき酒井家では、有名な飛鳥川の茶入を引き取ったという伝説が残っている。
そのように本来名器に富んだ家柄であるところにもってきて、安政年間に京都所司代を勤めた忠義公が有名な名器蒐集家で、当時、名器に関して「大鰐」の異名を持っていた。実際、柳営御物(注・幕府徳川家の所持する名物茶道具)中の名品である青磁吉野山花入を手に入れようとしたのであるが、幕府にあってはどうすることもできない。そこで、和宮降嫁の際に、幕府からこれを天朝(注・天皇家)に献納させ、天朝から所司代への周旋へのねぎらいとして、これを酒井家に下賜させたという逸話が残る。
そのほか、京都の本願寺、あるいは三井家から譲り受けた名器の数も少なくなく、維新の際には多数の蔵器を処分したけれども、名器に関してはそのまま保蔵されていたので、大正八、九(1919~20)年になって、同家旧臣のうちで、その処分論がなされたとき、和田維四郎(注・つなしろう)氏の提議で、家祖が家康公から拝領したというような伝来の名器は論外であるが、歴代主人が自己の嗜好で蒐集した道具に関しては、それを処分しても差し支えないだろう、たとえば、当家には、狩猟を好んで鹿の頭を多数収蔵された主人がいるが、その鹿の頭を永世保存しなくてはならないという理由はないのと同時に、後年になってから蒐集した茶器を処分してはならないという理由もないはずだ、という意見に賛成者が多かった。
そこで、大正十二(1923)年、益田鈍翁に宰領を委託することになり、最初は、大阪の戸田露朝を盟主とした道具商連合団体に対して、約百二十点を百二十万円で譲渡しようとした。しかし道具商団体のほうが尻込みして応じなかったため、同年六月中旬、とうとう入札売却することになったのである。
そうしたところが、この売上総高が、実に二百四十万円に達し、一品平均で二万円に相当したのであるから、これはまったく空前にして、おそらく絶後の道具入札会であったということができるだろう。
この入札会においては、五万円以上の名品が十三点の多数にのぼったが、その名称と落札価格を次に示しておく。
大名物国司茄子茶入 金二十万円
光長筆吉備大臣入唐絵巻物 金十八万八千九百円
大名物北野肩衝茶入 金十五万九千二百円
大名物角木花入 金九万八千円
名物玉柏茶入 金九万千百円
名物畠山茶入 金九万円
名物木下丸壺茶入 金八万三千九百円
名物二徳三島茶碗 金七万六千二百円
名物粉引三島茶碗 金七万六千二百円
名物橋姫茶入 金七万四千九百円
名物坂部井戸茶碗 金七万千九百十円
大名物寺沢丸壺茶入 金五万七千九百十円
名物割高台茶碗 金五万千九百十円
以上の入札では、最初に道具屋連合での買収をやろうとした大阪の戸田が、第一番の大手筋(注・大口落札者)となった。戸田は、土佐光長筆の吉備大臣入唐絵巻物や、名物橋姫茶入などを主なものとして、一手に、実に七十万円に達する落札を行ったということだ。これぞ、戸田露朝一代の晴れ業として、後日の語り草となるであろう。
また、紳士好事家の側では、北三井家が大手筋だったが、これは安政年間に酒井家から買い上げられた品々を、今回買い戻されたもので、大名物北野肩衝茶入(注・現国宝)、名物粉引茶碗、二徳三島茶碗などがそれである。(注・三点とも、現在も三井記念館蔵)
またこの入札会の宰領であった益田鈍翁は、名物玉柏茶入、梁楷筆鶏骨、名物夕陽天目などを買収され、大阪の藤田男爵(注・藤田平太郎、伝三郎の長男)は、大名物国司茄子茶入、同角木花入を買収されたが、この国司茄子は、実に茶入のレコード破りであった。(注・国司茄子茶入、古銅角木花入ともに、現在も藤田美術館蔵)
その他、横浜の原三渓氏が、名物畠山茶入を(注・現在は畠山記念館蔵)、名古屋の富田重助氏が、利休鶴首茶入を、岩原謙庵氏が大名物羽室文琳茶入を、馬越化生翁が瀬戸黄河茶入を、それぞれ落札されたので、この入札会は大成功をもって終局したのである。
それだけではなく、この入札代金が酒井家に収納されて間もなく、あの大震火災(注・関東大震災)が起こったので、道具社会が一時混乱状態に陥っても酒井家は取引上なんらの支障も蒙らなかったことは、くれぐれも同家の幸運であったということで、同家は震火災罹災者に対し、即時金三十万円の寄付を行われたということだ。
とかく道具入札売却には、その場合に応じて、非常な幸となる場合と、不幸となる場合があるものであるが、酒井家の場合は、もちろん無上の幸運だったといえよう。これは、単に同家にとってというばかりでなく、長年愛蔵されていた名器にとっても、しあわせなことだったのである。名器もまた格外に出世して、おおいに面目を施した。この入札会は、大正初年以来の幾多の大入札会の中において、長く記憶されることになるだろう。
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