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二百七十三  吉住小三郎芸談(下)(下巻457頁)(注・上にもどる

 二代目小三郎は目に一丁字がなかった(注・字を知らなかった、無学だった)が記憶力がよく、芸道熱心で音曲に関してはなんでも研究していた。
 そのころ岡安喜三郎が、小三郎とは互角の長唄語りで、彼のほうが家格が優れているため、あるとき小三郎が常勤していた芝居小屋で勧進帳をやるというとき(注・天保111840)年江戸河原崎座で勧進帳初演)、喜三郎がタテ唄(注・長唄の首席の唄い手)をやるらしいとい聞いた小三郎はそれを承知せず、自分の芸が、もしも彼よりも劣るというならば、自分は甘んじて彼の下に就くべきだろうが、そうとは思われない、自分の持ち場で、彼がタテ唄になるということは、はなはだ当を得ていないと言い出した。
 それならば、甲乙なく、両床で語らせようということになり、このときから芝居の長唄地語りに両床ということが始まったのだそうだ。
 小三郎と喜三郎は、このようなライバル(原文「競争者」)でありながら、芸道に対する小三郎の熱心さは、見栄も外聞も顧みることはなく、喜三郎の長所については彼から習うことを恥とはしなかった。
 あるとき喜三郎が、吾妻八景の「ふくむ矢立の隅田川」というところを唄うのを聞いて、それを真似しようとしたが、それが簡単にはできないことを知って、みずから喜三郎のところにのこのこと出かけ、彼の細君に面会し、「隅田川の一節は、われ、喜三郎殿に及ばざれば、謹んでその教えを乞わんとて、今日、罷り出でたるなり」と告げたところ、喜三郎の女房は、そのような奇特な心掛けがあったとは気づかずに、「あれは当流の秘伝でありますから、御伝授はできませぬ」と断ったので、小三郎は本意なくも引き取り、ならば、自分で工夫してみようということで、今日の吉住流で唄っている通り、「すみだがは」の五文字を、三味線の切れ目切れ目にはさんで唄うということにしたのだそうだ。
 小三郎はこのほかにも、唄いぶりにおいて、いろいろな考案を凝らして、その芸風が今に残っているものも少なくない。
 越後獅子の「そこなおけさに異なこと言はれ」という文句の中の「異な」の上に、「ン」という間を置くのも、この人の語り方で、現に今日でも吉住流で行われ、この一段に一種の風雅を添えていることなどもその一例であるそうだ。
 二代目小三郎は芸道熱心で、すこしでも自分の芸に勝るものがあれば、恥も外聞もなく自分を曲げて屈服するかわりに、江戸っ児の負けじ魂で、相手が強ければ強いほど一歩も後には引かないという勝気の持ち主だった。だから、この人の逸事は数々あるが、そのなかでも一番おもしろいのは次のようなものだ。
 あるとき三島神社の祭礼に江戸から長唄連中を迎えることになり、小三郎が招かれた。そこで、そこに赴く途中に箱根の関所を通りがかったときのこと、そのころ関所の役人は、徒然のあまり、芸人などが通りがかれば、慰み半分にその芸を演じさせるということがあったそうで、小三郎にも長唄を一曲演じてみよと命じたのである。そこで小三郎は望まれるままに、正式に一段を語り聴かせたそうだ。すると名人の芸であるので、関所の役人もことのほか感服して、続いてもう一曲、と所望した。そこで小三郎はもう一曲演じ終えたのであるが、そこで関所役人に向かって、「さて最初の一曲は長唄芸人のお調べのためなれば、無料にてよろしけれども、その後の一曲は御所望にて演じたるものなれば、なにとぞ御祝儀を頂戴いたしたし」と申し出た。しかし関所役人がこれに取り合う様子がないため、小三郎は彼らに向かって、「さらば、われわれは小田原に引き返し、大久保加賀守殿(注・小田原城主)まで願い出でて、御祝儀の埒(注・らち)明け申すべきに就き、左様御承知相成りたし」と申したので、彼らも非常に閉口して、とうとう、いくばくかの祝儀を奮発したのだそうだ。小三郎のこのような機転胆略は、この逸話からもほぼうかがい知ることができるであろう。
 さて、この小三郎に師事し、堅実な芸風でおりおり芝居などに現れたのが、三代目小三郎である。今の六四郎(注・杵屋六四郎、のちの稀音家六四郎)がまだ若年のころに、その三味線を弾いている左手がよく利くのを見込んで今の小三郎と提携させたのが、この人であったことからもわかるように、芸道には一見識あった人物だと思う。
 また、この晩に六四郎が語った芸談の中に、幕末の長唄界における大作曲家である杵屋勝三郎についての話があった。
 杵屋勝三郎は、有名な芸道熱心の奇人である。ある日外出中に、それまで近づきのなかった長唄師匠の門前を通り過ぎた。そのときちょうど、自分が作った「鞍馬山」を、師匠がその弟子に稽古している最中であった。聞いていると、だいぶ違っているところがあるので、彼は見も知らぬ師匠の家に飛び込み、自分は杵屋勝三郎でその曲を作った者であるが、ただ今のは少し間違っているところがあります、と言って、師匠の手から三味線を引き取って鞍馬山を一段弾き終え、これからはこんな風に教えてください、と言って平気で去ったということだ。
 このような熱心さを持っていたからこそ、その作曲した曲も後世に伝わり、今日までさかんに行われているのであろう、云々、という話であったが、これなども、大いに味わうべき名人の逸話であろうと思う。



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