二百七十二 吉住小三郎芸談(上)(下巻454頁)
大正十一(1922)年十二月二十三日夕刻より、わが国の長唄界の双璧である吉住小三郎と稀音家六四郎(注・大正時代は杵屋六四郎)が私の伽藍洞に揃ってやって来られ、晩餐ののち、ふたりともくつろいで芸談に耽られた。小三郎が古今の芸人の逸事について、こんこんと話を進めると、六四郎もまた例の洒落まじりに種々の思い出話を織り込んで、深更まで語り続けたのであった。
そのなかで小三郎が語った、吉住流の起源についての話が非常に興味深かった。昔の名人のおもかげをしのび、後進の者の奮起を促すに足る内容であったので、このような伝説が、もしもすっかり消えてしまっては惜しいので、ここにその大要を書き留めておこうと思う。 (注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「天保時代を中心とし、その前後にわたって、江戸の長唄界に名人の名をとどめた者は少なくないが、吉住流の開祖で綽名を『芋ころ』と言われた、二代小三郎などは、そのもっとも著しい者である。
この芋ころ小三郎は吉住流二代目であるが、その実は開祖であって、古名人風の奇行に富んだ人であったそうだ。元は芋屋で、青物市場から芋を買い出して市中を売り歩いていたが、生来、音曲好きで、長唄師匠の門前に立ってその稽古を立ち聞きするようなことさえあった。
ある時、芋の荷をかついで、当時、桜田門外にあった葭簀(注・よしず)張りの掛茶屋に憩んで居る前を通ったのが、そのころ番町に住んでいた旗本(原文「旗下」)で吉村幸次郎という長唄の上手で、頭を奴のように剃り落としていたため、世人呼んで『奴の幸次』といった者であった。
この人は旗本でありながら猿若町の芝居に出で、その美声を轟かし、当時長唄の名人という評判が高かったから、芋屋の小三郎は、彼があたかもその目前を通り過ぐるのを見て、芋をかついでも一代なり、長唄を唄っても一代なり、俺は今より芋屋をやめて、かの幸次の門弟となり、長唄語りとなって一生を送ろうと、ここに一念発起して、それより番町の吉村方に赴き、ついに彼の弟子となったが、その時の名を五郎次といったので、吉村の門弟になってより、吉村五郎次と称せしにかかわらず、彼が元、芋屋なりしため仲間では芋ころ五郎次と呼んだが、彼はむしろこれを得意としていたそうである。
芋ころ五郎次は、吉村幸次郎、あだ名『奴の幸次』の門下となって一心に長唄を勉強していたが、好きこそ物の上手なれで、暫時の間にめきめきと上達したので、当時、斯界に高名であった杵屋六左衛門の知るところとなり、芸名を吉村伊十郎(注・芳村が正しいか?)と名乗ったところが、この芸名について種々の苦情が持ち上がった。そのとき五郎次は人に向かって、『俺は芸をもって立つのであるから、名などはどうでも構うものか、吉村伊十郎が悪いなら、元の芋ころ五郎次でたくさんである』と言い放ったが、六左衛門が、それではあまりに体裁が悪かろうとて、元禄ごろの長唄語りで、吉住小三郎と名乗り、その芸風も伝わらず、ただ一代で中絶した者があった、その跡を相続せしむることとなり、これより、芋ころ五郎次は、二代目吉住小三郎と称したが、その次が、今の小三郎の親、三代目小三郎で、当代は、すなわち四代目である。
かくて、二代目小三郎は芋屋出身なれば、もとより文字もなかったが、江戸児風の負け嫌いで、思い立ったことは一気にこれを貫かねばやまぬという気性であったから、さまざまの面白い逸話をとどめた、そのなかでもっとも名高いのは、かの長唄の『角兵衛』が、杵屋六左衛門によって節付けせられ、猿若町の芝居で初めてこれを上演した時、小三郎は、そのころ六左衛門の引き立てで、ようやく三枚目に列することができたばかりなのに、この『角兵衛』中の山というべき『新発田五万石荒さうとままよ』という一節を語らせてもらいたいと申し出たそうである。
しかるにここは、すでに他の太夫に語らせてみたが、なにぶん六左衛門の気にかなわないので、はなはだ不快に思っていた折柄なれば、小三郎が自ら唄わんと申し出たのをきいて、六左衛門もその気になり、さらば、いつより試むるかと聞けば、小三郎は明日より語らんと言うにぞ、六左衛門はすこぶるこれを危ぶんだが、かつて小三郎の気性を知って居るので、よしそれならば、勝手に語ってみろと言い渡すや、小三郎は自身大酒家であったから、たちまち一升徳利を提げて、そのころ越後より出てきた米搗き男のいる米屋に赴き、持参の酒を米搗き等に振舞って、しきりに新発田五万石を唄わせたが、彼はこの間において、おおいに自得するところあり、翌日芝居においてこれを唄い出づるや、見物の評判は言うに及ばず、六左衛門も大いに感服したので、吉住流は今日まで、その唄いぶりを伝えて居るそうだ。」(次ページへ「下」に続く)
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