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二百六十九  大倉翁の値切じまひ(下巻444頁)

 大倉鶴彦翁(注・大倉喜八郎)は越後(注・現新潟)新発田の出身で、その祖父なる人の碑文は頼山陽が書いたものであるということだから、土地に知られた名家だったのだろう。
 維新前に志を立てて江戸に出て、戊辰戦争の前後に銃砲を幕府軍に売ったことで官軍の詰責に合ったとき、自分は商人である、商人が商品を売るのに、朝幕(注・朝廷と幕府)の区別はつけない、という大気焔を吐き、その豪胆ぶりの発揮したという伝説さえある。
 後年になって日清、日露の戦争などの機運に乗じて、実業のうえでの大発展をとげ、勲功をもって男爵に叙せられたころから次第に人格を高め、光悦流の書を習い、あるいは天才的な狂歌を口ずさんだ。     
 還暦以後、古稀(注・70歳)、喜字(注・喜寿=77歳)、八十(注・傘寿)、米(注・米寿=88歳)の祝寿会ごとに、公共的な記念となるものを残し、福禄寿(注・幸福、俸禄、長寿)を一身に集めた。
 九十二歳の高齢を保たれたが、その大胆率直にして辺幅(注・うわべ)を飾らない様子や、かたわらに人なきがごとき豪快さにいたっては、ほとんど他人の追随を許さないものがある。
 さて大正十一(1922)年は、翁が八十五歳の時だったが、同年の二月、山県有朋公が薨去し、音羽護国寺で国葬があった。そのとき、その墓地に隣接して六十坪ほどの空き地があるのを見るや、翁はそれを買収し、わが墳墓となさんとしたのであった。
 私が音羽護国寺財団維持会の理事長であるのを見込み、二女の時子さん(原文「時子夫人」)を通じて同墓地買収について依頼されたので、私はさっそく当時の護国寺執事のち貫主であった佐々木教純師に諮った。すると相手が知名の大家なので、特に一坪三百円として、一万八千円にて譲渡しようということであった。
 このとき翁は、私の方には回答をせずに、秘書某を直接佐々木執事のもとに差し向けて一万八千円を一万五千円に値切られたので、佐々木執事は非常に驚き、その旨を私の方に通知してきた。 
 私はただ打ち笑って、しばらくそのままにしておいた。するとそのことが、時子さんの耳にはいったので、彼女はさっそく父翁に向かって、墓地というものは最後の別荘ではないか、最後の別荘を買うというときに、それを値切るということがありますか、と正面から突っ込んだところ、翁は一向に平気で、俺は商人だ、商人がものを買うのに値切らないでそのまま買うということはない、なるほど墓地は別荘の買いじまいだから、俺は値切りじまいをしたのである、と一笑して取り合わなかったそうだ。
 このあたりが大倉翁の大倉翁たるところで、三つ子の商魂百まで変わらず、洒々楽々、露骨にそれを表白して少しも取り繕うところがないのが、いかにも翁のおもしろいところである。
 昔聞いた話だが、維新前の吉原に桜川善幸という幇間がいて、いつも「俺は若干の金を遺して死ぬから、死後に改めてみるがよい」と公言していた。臨終のとき病床に仰臥し、無言で天井を指さしたので、さては前々から言っていた通りに遺金を隠し置いてあるに違いないと、やがて天井を改めたところ、はたして手箱のようなものがあったので、家人で寄り合って開いてみた。すると小判形の石を包んだ封の上に「嘘の吐きじまひ」と書いてあったということである。
 大倉翁が、商人として、墓地の値切りじまいと言われたことは、その幇間の、嘘の吐きじまいと似通っていて、いかにもおもしろい逸話であると思う。
 大倉翁の墓地値切り事件は、もともと些細な問題で、翁にしてみても我意を通そうとしたわけではなかったので、その後、墓地は翁の言い分どおり一万五千円としたうえに、別に祠堂金の名目で三千円を寄付することになり、ほどなく問題が解決した。
 翁は、このような経緯があったことなど、ほとんど忘れたかのように洒々楽々として、私に次のような礼状を送ってこられた。

 「此頃御手数被成下候音羽墓地の儀、取引等円満に相済み、護国寺より寄付の礼状も相届候次第に付、不取敢拝謝申述度、此書状したため候うち、腰をれ一首うかみ候まま、備貴覧候、御一笑々々
     儒者捨場近き音羽の墓地なれば世を而して後に往くべし
                        鶴彦
   高橋大人

 この書状の中の狂歌に、儒者捨場とあるのは、旧幕時代に、聖堂(注・湯島聖堂。昌平坂学問所)の老儒官たちが、その住まいを山の手に構え、閑静な音羽護国寺のあたりには特におおぜい住んでいたので、当時の世の人々が姨捨山になぞらえて、これを儒者捨場と呼んだのだそうだ。
 私は明治四十二(1909)年の前妻死去のときから護国寺境内に墓地を営んだばかりでなく、すでに自分の寿碑(注・功績を記した碑)までも建ててある次第なので、さっそく返書をしたため大倉翁に送り、末尾には次の一首を書き添えて翁の一笑に供したのである。

    つひにゆく処はおなじ音羽山 寝ながら娑婆の物語せむ



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