二百六十八 伏見大宮御殿の一夕(下)(下巻439頁)(注・(上)にもどる)
伏見大宮殿下は、前項の岐阜震災(注・濃尾地震)の御物語に引き続き、その地震のときも危険であったが、それよりも一層危険だったのに不思議にもそれを免れたことがあった時のことを物語られた。
「西南戦争の時であった。田原坂の戦いに、敵味方の間隔はなはだ接近し、あるときは塁壁の上より互いに悪口を交換するような場合もあったが、壁上に首を出せば、たちまち鉄砲で撃たれるので、初めは用心して首を出さなかったが、時日を重ねるにしたがって、だんだん危険に慣れ、敵をからかってみようと帽子だけを壁上に出すと、すぐそれを射撃するのをおもしろがったこともあった。
しかるにその後、敵兵が退却してしまったので、自分らは従来潜んでおった塁壁より現れ出で、もはや居残る者はあるまいと思って、伊藤大尉という者と並んで敵塁の方へ進んで行ったところが、いまだ敵兵が残っておって、自分らの近づくのを見てこれを狙撃したから、伊藤は横腹を打ち貫かれて即死してしまった。
その他だいぶ当方に負傷があったが、自分は幸いにその弾丸にあたらなかった。敵塁間近で狙いを定めて撃ったのだから、これに当たらぬというのはよほどの幸運と思われた。
自分は当時、中尉であったが、西南戦争のころは日本の軍事もいたって幼稚で、衛生の組織など皆無であったから、大尉くらいの将校が戦死したのを、獣類を運搬するように縄で手と足をくくって、青竹の棒を突きさして、これをかついで多数の屍体とともに、ひとつ穴にほおりこんで埋めるという悲惨な状況であった。
また鉄砲などもいたって不完全なもので、あまり遠方に達しなかったので、鹿児島に近づいた時、敵兵は高い山の上にいて、当方の鉄砲の届かぬことを知って、毎日相撲を取ってたわむれていたが、そのころ日本に渡ってきたクルップ砲をもって、これを追い払わんと思ったところが、将校中にこのクルップを射撃しうる者がなかったのでも、当時、軍事の幼稚なことがわかるであろう。
しかるに両三日かかって、どうやらこれを撃つことを発見し、かの山上に向かって発砲し始めたので、敵兵もさだめて驚いたであろう。その後、相撲など取る者がなくなったのはおかしかった。」
伏見大宮殿下は、このように西南戦争の際に起きた御身上の危険を語り終えられ、微笑を洩らされた。そのとき私は、殿下のような高貴な御方でも、このような危地に立たれることがあるのかと思い、なるほど皇族方が陸海軍籍に入って御修養あらせられることは、まことにありがたいことだと思った。軍隊にあっては、高貴な身分でも、軍規によって進退せられるからこそ、規律を守り、下情(注・しもじもの様子)を知り、困難に耐えることができるのであって、他の職務にあっては、このような実体験を積まれることは、とうていできないであろうと深く感銘したのである。
こうして、殿下の御物語をうかがった玉突場から、何部屋かを隔てた日本座敷に通された。ここは、上段が八畳、次の間が十畳で、一間(注・約1.8メートル)の入側(注・いりがわ。座敷と濡れ縁との間の細長い通路)がめぐらされた書院の中央に、大卓が置かれていた。私たちは殿下と相対して、毛皮を張った座布団に座し、御陪食を仰せつけられた。
その際にも、囲碁、盆栽、乗馬その他数々の御趣味についての御物語があった。
中でも音曲については、御幼少より御家芸として御修得あらせられたそうで、それに関する御物語は次のようなものであった。
「自分は音曲が大好きであるが、なんの音曲についても、調子だけは確かに聞き分けることができると思う。そのいわれは、宮家において、有栖川は書道および和歌のことを司どり、伏見は音律を司る家柄で、何事をおいても、その本役を練習するのが、往時、自分らの勤めであった。
それで自分は、六歳の時より琵琶を習い始めて、十四歳の時まで間断なくこれを継続したが、この琵琶には、いたって無意味でしかも文句の相類似して居る曲が八十八曲もあるのを、ことごとく暗記しなくてはならぬので非常に困難を感じたのである。これが、何か意味でもあれば、それにすがって記憶しやすいのであるが、同じような文句で無意味であるから、これを記憶する困難は非常なものであった。
それで自分はもっぱら琵琶を習ったが、これと同時に、笙、篳篥(注・ひちりき。縦笛)、琴も習い、特に好んで尺八を習ったのである。それゆえ、他の俗曲などを聞いても、子供の時より習い覚えた音律の耳は確かであるあら、調子を聞き違えることはないのである。」
大宮殿下はこのように物語られたあと、私に向かって、かねてから茶の湯が好きだと聞いているが、自分の父もまた非常に茶を好み、茶器も相当に集めたようだが、自分は今まで研究する機会がなかったので、持ち合わせの茶器も今は物置の中にしまいこんだままで、虫干しすらもしていない、しかし、今、茶杓を一本取り出してあるので、せっかくの幸いなので、ひとつ鑑定してもらいたい、ということで、侍女に命じて持ってこさせた。
見ると、桐木地の箱の中を二つに仕切り、一方に利休作の茶杓を入れ、一方に宗旦(注・千利休の孫)がこれに命名した由来書を入れてあった。
そこで、仔細にこれを点検してみると、筒書付は宗旦で、上に「上京」、下に「利休」とあり、十善具足(注・よいものが揃っている)したものであったので、「このような茶杓を御所持せられているからには、御茶入、御茶碗などにも必ずや名品がございましょう」と申し上げたところ、そのうちに一度参邸して、とくと検査してもらいたいと仰せられた。
よって私は、他日に御蔵器拝見させていただきたい、などと言上し、当夕のお召し寄せの光栄を拝謝し、御玄関まで退出した。
このとき藤田氏(注・藤田彦三郎)が私の袖を引いて、「殿下が御見送りである」と言った声に驚き、振り返ってみると、間近に、にこにこされた殿下が立っていらしたので、破格の御待遇をおそれかしこみ、重ねて御礼を言上して退出したのである。これは私の一代の中で、またと得難き光栄であった。
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