第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百六十六 山県有朋公の薨去(下巻433頁)
大勲位元帥山県有朋公は、大正十一(1922)年二月一日をもって、その八十五年にわたる国家奉仕の大生涯を終えられた。
公は天保九(1838)年に生まれ、明治元(1868)年が三十一歳、大正元(1912)年が七十五歳で、幕末、明治大正の両時代にまたがって、開国維新から西南、日清、日露の戦役のような日本未曾有の大事変に際会し、艱難のためにますます玉成されたという大人豪である。
公は、毛利家の最下級士族の山県三郎有稔(注・ありとし)の長子で、家格がきわめて低かったにもかかわらず、厳父が国学者で気概のある人物であったので、幼い時から経史(注・四書五経など儒教の経典と史書)を授かり、また厳父が好んだ和歌、謡曲なども仕込まれた。また少年のころから撃剣、柔術を習い、ことに槍術は、岡部半蔵について免許皆伝を得られたそうだ。
幼名を辰之助といい、長じて小助と改め、ついで狂介、あるいは素狂と称した。一時変名して、萩原鹿之助と名乗ったこともあったが、維新の際から有朋と改めた。後年には、さらに含雪と号し、その居所にちなんで、椿山荘主、芽城【目白】山人、古稀庵主人などの雅号を持っていた。
二十歳ごろから、国事多端(注・国に関する事件が多発するようす)になったので、同藩の志士、高杉晋作らと計画して、有名な奇兵隊を組織した。それを率いて藩中の俗論党を制圧したり、長州征伐にやってきた幕府軍に対抗したりして武将としての名声をあげたばかりでなく、長州藩の勤王の使命を帯びて、しばしばあちこちに奔走し、当時の同藩の多士済々の間にあって、きわだった頭角をあらわされた。
維新の皇謨(注・こうぼ。天皇が国家を統治する計画)が決定するや、藩兵を率いて東北に出陣し、越後口においては、頑強な敵兵との難戦苦闘が数か月にわたり、ついには掃蕩(注・敵を完全に除き去ること)の功を全うした。
明治政府が成立すると、引き続き軍政の局に当たった。大輔、卿となり、徴兵制度を確立し、わが国の陸軍の創設者となったのである。
明治十八(1985)年に内務大臣に任ぜられると、孜々として(注・ししとして=熱心に)市町村自治制の制定に尽力し、次いで欧米視察を終えて帰朝してすぐに、明治二十二(1889)年末に第一次帝国議会の総理大臣になった。それから間もなく日清戦争となって第一軍司令官になった。その半ばで病気で帰国されされたが、帷幕(注・いばく。司令部)に参画した功は非常に大きく、その後、遣露の使命を帯びてロシアの首都(注・サンクトペテルブルク)に赴いた。
次いで明治三十一(1898)年、再び山県内閣を組織し、日露戦争が起きると参謀総長として帷幕の大任に当たることになった。
平和回復後には要職を後進に譲り、みずからは政局には当たらなかったものの、枢密院議長として至尊(注・しそん。天皇のこと)の輔弼の任を果たした。ここでも老来倍々蹇蹇匪躬(注・けんけんひきゅう。自分のことは後回しにして苦労を重ね主人に尽くすこと)の節を通したので、ふだんは謙抑(注・へりくだって控えめにすること)しているにもかかわらず、国家の大事にいたっては公の一断を待つ者は多く、威望隆々としていた。人は時に、それを徳川家康になぞらえ、あるいは大御所などと称するようになったのである。
文武の両面において非常にすぐれた人物であった。世界にその比類を求めるならば、厳毅誠忠の武人にして文勲もあった、かの蘇轍(注・北宋の文人)に、「入っては即ち周公、召公(注・ともに西周の功臣)、出ては即ち方叔、召虎(注・ともに西周の功臣)」と讃嘆された宋朝の韓魏公(注・韓琦[かんき])、北宋の政治家)、もしくは、ワーテルロー(原文「オートルロー」)でナポレオン一世を打ち破り武勲の名声高く、しかも経綸の才幹も備えて国政の料理に任じたイギリスのウェリントン公などが、ほぼこれに相当する人格であろう。
私は明治二十三(1890)年に井上世外侯爵の紹介で初めて山県公に謁見したが、その時は丁度二年間の欧米視察を終えて帰国したときだったので、一夕、公と相会して、欧米見聞談を披歴したところ、公はその翌日に井上侯爵に面会のときに、「昨夜、高橋と会見したが、一見、旧のごとくであった」と言われたそうで、私は井上侯爵からそのことを伝聞して身にしみじみと知己の感を抱くことになったのである。
その後私は、三井家に奉公していたので別段公と交渉するという要務もなかったし、自分からも進んで公を訪問するということはなかったのに、公は、何かの機会があるごとに私を招いて共に語り、また他から招かれたときに私を誘引して同席させることも少なくなかった。
公は、職務その他に何らの利害関係のない私を常にその身辺から離さず、以来三十年余りのあいだ、台閣と江湖(注・政府と民間)、大官と処士(注・政府高官と民間人)という立場で、出処進退がまったく没交渉である私と公が、なぜともなく始終相接近したのである。公はその都度、胸襟を開いて、なにくれとなくその感想を洩らされたということは、世に言う相性(原文「合性」)というものであろうか。私はこのような公の知遇に対し、心から感謝の念に満ちているので、公の三回忌に当たって「山公遺烈」と題する一書を著述し、私と公との遭遇について叙述した。ここでは紙面を割くことをしないが、そのとき、私は同書のうしろに、七絶一首を題して、いささかの知遇の感を述べたので、ここにそれを掲げることにしよう。
江海雅懐容我狂 卅年知遇感平生 悲風颯入一枝筆 泣写名公憐士情
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