【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十四  益田紅艶冥土入り(下巻422頁)

 東都名物男の随一であった益田紅艶英作氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
 氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
 この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・
80・千葉勝と紅艶181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。

 紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
 その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
 明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、

    無惨やな兜の下のきりぎりす

という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。

 紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
 その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。

 紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
 彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざま奇談を残すことになった。
 彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
 さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
 今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
 紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は

    ステテコを地獄で踊れ円融院

と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
 朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
 この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
 史記に、滑稽列伝貨殖列伝というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
 


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ