二百六十二 名笛大獅子(下巻416頁)
私は大正九(1920)年十二月、梅若舞台で井筒の能を勤めた。この能は、九番習い物(注・修得のために特別な伝授が必要なもの)で、きわめて静かな序の舞がある。
舞はもちろん笛で舞うものであるから、笛方が上手でないと区切れ目がはっきりしなくて、足拍子が非常に踏みにくくなってしまう。私はいつも笛を杉山立枝翁に依頼しており、今回もまた翁にやっていただいた。翁は元福岡藩士で、千石を領した大身なので、旧藩時代には、あるところで隊長となって金子堅太郎なども配下について調練を行ったことがあったそうだ。
能管(注・能楽などに用いられる横笛)については、もちろん余技として習われたわけだが、体格が頑丈で、息が非常に長く強い人だったので、黒田家の名笛である大獅子を吹きこなすほどの力量があった。明治後半から昭和六(1931)年にいたるまで、東都の能舞台において、翁と肩を並べられる笛師はきわめて少なかっただろうと思う。
さて翁は十二月三日に拙宅にみえ、例の大獅子で序の舞一段を吹奏し、初段卸しの左右二つ拍子などについてそれぞれ打合せが済んだあと、一場の芸談をされたのである。その大要を述べてみよう。(注・旧字を新字になおした)
「私は福岡藩の士族で、明治二十九(1896)年上京するや、黒田家先代長知侯が、能の太鼓に堪能なので、時々お相手をしましたが、長知侯薨去後、飯田巽氏等の発起で、その追悼能を催したとき、かつて中村三右衛門といえる笛師が持っていた天下の名笛大獅子が黒田家にあることを知り、これを拝借して、古市公威、三井元之助連獅子の、石橋(注・しゃっきょう)を勤めようと思いました。この中村という者の子は三四郎と申し、父にも劣らぬ名人でありましたが、不良性を帯びた人物とみえ、あるとき炬燵にあたりながら、大獅子を吹いていたのを、父が見とがめて小言を言ったところが、彼は怒ってその笛を柱に投げつけて、歌口を二つに打ち折ってしまいました。
しかるに、その後、折れたところが継ぎ合わされ、黒田家の御所蔵となっていたので、私は今度追善能を勤むるに、これを拝借せんとしましたが、いずれにしまいこんだやら、いかに宝蔵内を捜しても、その笛が見当たらぬというので、私は非常に残念がっておりましたが、しあわせのことには、演能間際にいたって笛が宝庫中より発見されたという報告を聞き、長知侯の御霊のお引き合わせかと思いて、それより非常に勇み立ち、その笛で無事に追善能を勤めました後、一時この笛を私が拝借することとなりました。
ところが、ほどなくこの笛が、黒田家の世襲財産に編入されたから返上せよという命令がありましたので、私は我が子に別るるよりも悲しき思いで返上しましたが、私はなんとしてもその笛に別れて居ることができず、あるとき金子子爵にお目にかかって、このことを嘆願すると、黒田家の宝庫にしまっておいても、なんの役にも立つまいから、自分が黒田家に談判して、再びその方に貸し渡さるるようにしようとて、いろいろご尽力の結果、またまたこれを拝借することを得て、大よろこびでありましたが、あるとき舞台で、力強くヒシギ(注・高く鋭く強い音)を吹いたところが、最初折れたところより、またまたポッキと折れてしまったので、にわかに人を楽屋につかわして、同業者の笛を借り受け、かろうじてその場は間に合わせましたが、この笛は自分の体格と相応したものとみえ、普通の笛よりも少しく大きく、同業者などにてこれを吹きこなすものはありませぬが、自分としては、他の笛ではとても大獅子のごとき音色を出すことができないのであります。
名笛というものは不思議なもので、私にはほとんど生命のごとくに思わるるので、平常懐中して肌身離さず、寝るときは枕元に置いて、何か変事があったら、自身が携帯して立ち退くよう、一夜たりともこれを離したことはありませぬ云々」
杉山翁は、以上のように語り終え、私に大獅子の笛を見せてくれた。その笛は、普通のものより大型で、一見したところ五百年からたったもののように思われた。寂味十分で、歌口のところで二つに折れたところを、漆で継ぎ合わせた痕跡がある。笛の頭の凹部に、後藤祐乗の作だという金彫の獅子が張り付けてあるので、大獅子の銘があるのだろう。
すばらしい金蒔絵の筒に納めてあったが、杉山翁が私の家の十二畳半の座敷でこれを吹くと、場所が狭いだけに、笛の音は一段と強く、ふすま越しに聞いていた荊妻(注・けいさい=自分の妻をへりくだった言い方)などは、呂(注・りょう)の音(注・低音域)になんとも言われぬ妙味があると、非常に感服していた。
杉山翁は昭和七(1932)年に永眠したが、大獅子を一代の間拝借しつづけ、生前にその由来書をしたため、死後、黒田家に返納するつもりであると語っていたから、笛は、今では黒田家に返納されたことだろう。
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