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二百六十  武井守正男懐旧談(下巻408頁)


 武井守正男爵は旧姫路酒井家の家臣で、維新前に勤王論を唱え、反対党のために迫害されて六年間入牢の身となり、非常な困難をしのいで維新の際にはじめて天日を見ることを得たのである。
 私が大正九(1910)年十月下旬に、本郷湯島の武井邸で男爵と四方山(注・よもやま)話の雑談中に、男爵は八十一歳の老齢にもかかわらず、かくしゃくとして、壮健な者をもしのぐように滔々と自身のことや姫路藩に関する懐旧談を物語られた。後人の参考になるべきものも少なくないので、ここに大要を述べよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「自分は、維新前、姫路藩で勤王論を唱えたがため、執政より重譴(注・重いけん責)をこうむり、とうとう牢舎を申し付けられたが、その牢というのは、大阪にあった三重牢の模本によって建てられたもので、最後の一重は切り石を積み上げ、その石をはさんで栗の角材を組み合わせたものだから、その中は、ほとんど暗夜のように暗く、しかも三畳敷きに便所その他の設けがあるので、その長さ五尺(注・約150センチ)に足らず、平常精一杯に足を伸ばすあたわざるこの牢内に、仲間が三人同舎するので、背中を抱き合って臥するのほかなく、寝返りをなすときは、三人協議して、同じ方向に身体を転換する始末である。
 食事はひき割り(注・ひきわり麦の飯か?)の上に、たくあんの切れ端などを細く刻んで振りかけたくらいで、粗食きわまったものであるが、その粗食ならざれば、六年間もこの牢内に生存することはできぬのである。
 しかし自分等は、孟子のいわゆる浩然の気が満身に充溢して、文天祥(注・宋末の政治家。征服者の元からの出仕勧誘に従わず処刑される)気取りで、意気揚々としていたので、壮年の時でもあり、まったく気をもって生命を取りとめたものである。
 しかるにかかる悲惨事に遭遇した自分が、兄弟等のあとまで生き残って今年八十一歳の長寿を保っているのは、考えてみれば実に不思議なものではある。
 自分は性来、道具(注・骨董品)が好きなので、姫路酒井家が、いかにしてかがごとく多数の道具を集められたかにつき、しばしば古老の説をきいたが、同家は文化文政時代、かの抱一上人の令兄に、宗雅(注・そうが=忠以ただざね)公という君公あり、松平不昧公などの茶友で名器を愛好せられたためでもあるが、その実は、当時の一家老であった河合隼之介が、一見識をもって名器買収の藩是を立てたがためである。

 彼は学者政治家肌で、姫路藩執政らと意見を異にし、しばらく京都に潜匿していたが、君公が彼を呼び返して一家老となるに及んで、財政上に大手腕を振るい、種々の物産を興して、いまだ数年ならざるに酒井を富裕の大名となした。
 ところで彼は、一策を献じ、いたずらに金銀を後代にのこせば、馬鹿者が出で来たりて、これを浪費するのおそれあり、ためにかえって酒井家の安泰を害するべければ、この金をもって、ことごとく名器を買い置くにしかずとて、ここの名器買収の方針を定め、酒井家においては世間相場の倍額をもって、さかんに名器を買い入るるべしと触れまわったので、現今内務省になって居る、かの酒井家の通用門は、毎日道具屋の市をなし、当時の風説に、雲州家(注・出雲松平家)は金を吝(注・おし)むがため道具屋の方に人気なく、第一流の品物は金放れよき酒井家の方に集まったという。
 かくて、当時もし月並み的に藩庫に金銀を保蔵しておいたならば、とうてい永続するあたわず、元も子もなくなってあろうに、幸い名器を買っておいたので、今なお酒井家の宝庫に残って居るのは、まったく河合の卓識と言わずばなるまい。
 河合については、さまざまの事蹟が残っているその中で、彼は姫路の城下をへだたる一里ばかりなる仁寿山に学校を設け、そのかたわらに水楼と号する文人風の瀟洒なる住居を構造し、なお少しく離れて、風景絶佳なる高所に、六一亭といえる遊覧所をも備え、すべてこれを貴賓接待用に供されたが、この六一亭というのは、一望中に十一箇国を見渡すことができるので、日本六十六州の六分の一を眺望しうるという意味で、かく名づけたのである。
 また水楼には、河合と最も懇親であった頼山陽が長時日寄宿していて、姫路藩書生のために縷々(注・るる)講義をなしたこともあるので、同楼中には頼山陽の間と名づくる一室がある。
 また河合の自宅には竹楼という書斎があって、一切竹をもって構造したものだが、その記文は山陽遺稿に載せられてある。
 河合は右のごとく、学問好きの苦労人であったから、江戸においてもすこぶる高名で、水野出羽守の土方縫殿介ぬいのすけ、二本松丹羽家の丹羽粂之介と、あわせて、天下の三介と呼ばれたということである云々」

 武井男爵は書画骨董を好み、ことに印籠収蔵家として名高かった。酒井家から拝領品中には名品も少なくなく、中でも、銘「夏山」という伊羅保片身替茶碗は、茶人間には非常によく知られている。
 とにかく、維新の前後の国難にあたって鍛錬した気魄は老年にいたるまで衰えず、なんとなくドッシリとして、古武士の風格を備えた人物であった。


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