二百五十九 大口御歌所寄人(下巻404頁)
明治時代から大正時代にかけて、わが国に和歌界の重鎮であった御歌所寄人の大口鯛二氏が、大正九(1910)年八月中旬に、信州山田温泉風景館に避暑中に脳溢血にかかり長野病院に入院し、十月十三日に病勢が急変して享年五十七歳で溘焉(注・こうえん=死が急であること)白玉楼中の人となった(注・文人が死ぬこと)ことは、惜しんでも惜しみきれないものがある。
氏は名古屋出身で、通称、鯛二の鯛の字を分けて、周魚といい、また旅師、あるいは多比之と称した。また、住居は白檮舎【しらかしのや】と号した。
はじめ伊東祐命翁に学び、のちに御歌所にはいり高崎正風翁に親炙した。和歌に堪能で、勅題の「寄山祝」の一首は、当時、入選の光栄にあずかった。
和歌に堪能な者は、概して歌学にくわしくないものであるが、氏は博覧強記で、歌学の知識がきわめて広汎なうえに、詠歌もまたうまかった。
さらにその他にも、書道は嶄然として(注・ひときわ目立って)一家をなしていた。ふだんは、行成(注・藤原行成)風の書体を好まれたが、その源流を同じくすることから、近衛予楽院(注・このえよらくいん=近衛家煕いえひろ)の筆跡を愛重した。その書翰(注・書簡)などは、往々にして、本物に迫るほどで、このように書道に堪能であるために、平素からあまねく古筆物の研究をして、その鑑識眼は並々ならず(原文「凡を超え」)、歌人として、才、学、識の三長をほとんど兼ね備えていた点、近来稀にみる大家であった。
氏は名古屋出身であるがため、さまざまな風流趣味を解し、みずから茶会を催したことはないようだが、茶客になると巧妙な辞令で書画器具を品評したものだった。その会の趣向を観察しては、それに対する臨機の挨拶をするその客ぶりの殊勝であるところなどは、ほとんど専門家をしのぐものがあった。
氏はまた、すこぶる勉強家で孜々(注・しし=熱心に、せっせと)として後進を誘掖(注・ゆうえき=導き助ける)したので、全国にわたって和歌の門弟が非常に多く、「ちくさの花」という雑誌を通じて、間接直接に、天下の歌学者を薫陶したその数は、幾万人になるか知れない。
近年、御歌所を辞して門下の教導に専念しようとしたとき、明治天皇の御歌集編纂委員を命じられ、その編纂が終わるというときに、今度は昭憲皇太后御歌集編纂委員に取り掛かることになった。それでその前に、来年が十回忌に当たる高崎正風男爵の歌集の手写をして、それを今年中に完成しようとして、七月ごろから習字を始め、山田温泉で心静かに歌集の手書きに着手しようとして同地に滞在中に脳溢血にかかり、ついに易簀(注・えきさく=学徳ある人が死ぬこと)するに至ったのである。
大口氏は、行成流の書道に深く通じ、好んで古筆物を研究していたため、京都西本願寺において、あの有名な三十六人家集(原文「歌集」)を発見した大功績を持つ。
明治二十九(1896)年八月、大口氏は西本願寺法主、大谷光尊伯爵の依頼を受け、同寺の古文書類の整理のため、約一週間を費やして、くまなく宝庫を捜索したのであるが、古筆物としては、わずかに藍紙万葉の一片を発見しただけだったので、失望のあまり、まだ何かほかに見つけようと根気よく探索している最中に、古ぼけた小箱の中から、思いがけなく天下の名宝、三十六人家集が光明赫燿(注・かくやく=光り輝いて)として出現したので、大口氏は夢ではないかと驚き、早速、光尊伯に見せ、この名宝の発見を祝したのである。そして許可を得てその一部を東京に持ち帰り、同行者を自宅に集めこれを展示せられたが、私はこのときはじめてその古筆帖を一覧したのであった。
その三十六人家集が、いかにして本願寺に伝来したかを取り調べたところ、これは後奈良天皇御即位のとき、当時の王室は式微の極み(注・非常に衰えていること)で、その費用を用立てることができなかったため、本願寺が見るに見兼ねて、献金を申し出たので、その御会釈(注・天皇のあいさつ)として、当時の門主である証如上人に天皇から下賜されたものである。
女房奉書ならびに付属の目録があり、さらに証如上人の日記、天文十八(1549)年正月の条にこの歌集拝領の文言があり、古筆物として天下第一と称せられたにもかかわらず、久しく本願寺の倉庫中に埋没して誰もこれに気づかずに、大口氏が発見しなかったならばどうなっていたのかもわからなかったのであるから、この歌集が存在する限り、大口氏の発見の功績は決して没却してはならないのである。
大口氏は能書であるうえに筆まめで、私などが作歌の添削を頼むと、長文の手紙で諄々としてお返事くださるということを常とした。また詠歌は多作なほうだったので、その一代の和歌は、おそらく幾万首かに達していたであろう。
その歌風は人物、気質ともに、温雅流暢であった。その一例を挙げる。
春朝
窓の戸をあけはなちても寒からぬ あしたとおもへば鶯のなく
春雨
庭見れば松のかげまでぬれたれど いまだ音せぬ春の雨かな
松間の月
山松のかけふむみちのつづらをり をりをり月にそむきけるかな
魚
いくそたびおしながされて山川の はやせを魚ののぼりゆくらむ
大口氏は、詠歌と書道に堪能であったほかに、歌学の講義もまた決して人後に落ちず、大正初年に私の一番町邸で源氏講義を開かれたときには、山県老公、同夫人らも参聴され、永眠の際には、公爵も非常にその歌才能を痛惜された。氏が比較的短命で逝去されたことは、歌道のために、まことに惜しむべきことであった。
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