二百五十八 鴻池家名器(下巻401頁)
私は大正元(1912)年に大正名器鑑の編集を思い立ってから、その下準備には数年間を要したが、その後いよいよ目算も立ったので大正六(1917)年から実物の検覧や撮影などに着手し、日本全国いたるところの諸名家を歴訪した。
大阪の鴻池善右衛門家は、二百年来の自家の道具を他人に見せたことがなく、ことに、維新後には、お出入り道具商といえども、ほとんどこれを見た者がないという噂を耳にしていた。だから、今回これを拝見しようとするなら、頭を使った臨機応変な調整(原文「大いに手加減」)が必要だろうと、百方考慮の末に、鴻池家の大番頭であった蘆田順三郎氏に頼み、まず大正名器鑑の目的を説明してもらうことにし、もしも鴻池家の名器を収録することができないようなことがあると、名器鑑の編纂そのものが、ほとんど無意味になってしまうので、本事業のために、是非とも男爵の援助を乞いたい旨を申し出た。
すると善右衛門男爵は乗り気になり、「さらば、これが名器の国勢調査であるな」と戯れ(注・ざれ)つつ、快く承諾された。そこで大正九(1910)年五月四日午前九時から、大阪市瓦屋橋鴻池別荘において同家の名器を拝見する段取りとなり、私は、名器鑑編集員および写真班一行の四人を帯同して同別荘に出かけた。
男爵はいたって綿密な人で、前日にはみずから出向いて展観する名器はもちろんのこと、接待方面にまで万端の指揮をされていた。当日の接待は蘆田氏に命じ、内事係の草間繁三と、お出入り茶器商の砂元吉老を接伴役にして、私たちをまず唐子の間に案内された。
この唐子の間というのは、六畳敷きの広間で、これに続いて四畳に三尺四方床付(注・一尺は約30センチ)の茶室がある。その間のふすまの腰張りが、足利末期の名家によって描かれた極彩色唐子遊びの図なので、当家ではこのように呼んでいるのだそうだ。(注・唐子とは、唐風の服装と髪型のこども)
さて案内にしたがい、この四畳茶席にはいり、その三尺四方床を見ると、珍しいことに寸松庵色紙がかかっていた。
その歌は、
色も香もおなじ昔にさくらめと 年ふる人そあらたまりける
というもので、私は今日はじめて当家にこの色紙があることを発見した。
そして、その下に置かれた花入は、高さ尺二寸ほど(注・約36センチ)、底の方がやや張っており、轆轤(注・ろくろ)のあとがキリキリとねじ上がり口縁のあたりにまで達している。その口縁の一端から一端まで、反橋(注・そりはし=太鼓橋)のような取っ手がついているという極めて珍しい(原文「異常なる」)伊賀焼である。そこに、純白の大山蓮花(注・オオヤマレンゲ)を活け、根〆(注・生け花で挿した花や枝の根本を整える花材)に、都忘れという紫色の花を添えてある。その風情は、なんとも筆舌に尽くしがたいものであった。
こうして、御道具拝見の前に、炭手前から始まり、正式の懐石ならびに濃茶の御馳走があり、そのあとにいよいよ展観席に入り名物の拝見となった。
その日拝見したものは三十点を数えたので、そのひとつひとつについて今述べることができない。よって、その中で、もっとも高名な古田高麗茶碗に関する挿話だけを紹介することにしよう。
鴻池家所蔵の古田高麗茶碗は、昔から最も有名なものであるが、この茶碗が当家に伝来した逸話についてきくことになった。
それは、天明年間(注・1782年-1788年)のことで、この茶碗を買い入れた主人は、当男爵の曽祖父で、炉雪と号した数寄者であった。そのころ大阪の加島屋(原文「鹿島屋」)広岡家に、紅葉呉須と称する茶碗【昭和三年、広岡家蔵器入札売却の節、十八万九千九百円で落札、維新後に売買された茶碗の最高額である】があって、関西第一という評判であったが、炉雪翁はあるとき、お出入り道具商の加賀屋作左衛門に、「方今(注・ほうこん=現在)、世間に、広岡の紅葉呉須に勝る茶碗があるか」と問うたところ、加賀作は一議に及ばず(注・議論するまでもなく)「古田織部所持の古田高麗茶碗は、只今江戸吉原、扇屋宇右衛門が所持しておりますが、かの茶碗ならば、たしかに紅葉呉須に勝っております」と答えたので、炉雪翁の喜びは並ではなく、「さらば、代価にかかわらず、その茶碗を買い取り来たれ」と、加賀作に申し付けた。
さてその茶碗は、天明のころ、古筆了泉の所蔵だったが、了泉が廓通いの金に窮して、当時、吉原の見番、大黒屋に質入れし、ほどなく扇屋宇右衛門の手に渡ったのである。
加賀作は、上方の物持ち主人のような扮装で扇屋に乗り込み、花扇という傾城(注・おいらん)を揚げ詰めにして、一か月ほど流連(注・いつづけ)する間に、持参の茶箱を開いて主人を招き、次第に接近して、ある日、扇屋の田中の茶寮で、古田高麗を実見する機会を得た。
その時は、あたかも年末で、扇屋に金の入用があったので、折よくだんだんと相談を進め、古田高麗を千二百両、ノンコウ(注・楽家三代目道入)の初雪茶碗を八百両、あわせて二千両で譲り受けるという相談をまとめた。これが決定するやいなや、加賀作は、あらかじめ用意してあった小判二箱を扇屋に運び込み、その二茶碗を受け取るとすぐ、炉雪翁が首を長くして江戸の吉左右(注・きっそう=知らせ)を待ち受けているに違いないと、東海道五十三次を早駕籠で突きぬけ、身請けの茶碗を恋焦がれている炉雪翁の見参に供え、首尾よく、手活けの花(注・身請けして自分のものにした遊女のこと)としたのである。その後、この一部始終を聞き込んだ江戸の金持ち十人衆は、鳶に油揚げをさらわれたような気分になり、おおいに残念がったということだ。
炉雪翁がこれほどまでに執心したこの茶碗は、白地御所丸手に属し、小堀遠州筆の箱書きに、古田高麗とあり、関西ではこの茶碗の上をいくものがないので、この一点を加えた鴻池家の宝蔵は、このこのときからさらに一段の権威を持つようになったということである。
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