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二百五十六  信実歌仙断巻式(下巻394頁)

 大正七(1918)年一月、松昌洋行の山本唯三郎氏の使者が突然私の家に、佐竹侯爵家旧蔵の信実筆三十六歌仙二巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる「佐竹本三十六歌仙絵巻」)を持参し、今度この二巻を買収するつもりであるが、付属品その他に間違いはなかろうか、貴下の一覧を乞うた上で、いよいよ決定するつもりなので、委細ご意見、この者に伝言していただきたいということであった。
 そこですぐに、これを披見(注・開いて見る)してみた。実物はもちろん、付属品一切、まったく間違いはなかったので、山本氏がこれを買収するのは国宝保存のために結構な考えで、さっそく実行していただきたいと回答しておいた。
 山本氏は、曩に(注・さきに)征虎軍を組織して朝鮮に赴き、帰ってくるや虎肉試食会を催して、朝野の紳士を招待したりするなど、その行動にはすこぶる小気味よい趣味がある。(注・238「虎肉試食会」を参照のこと)
 今回はまた、危うくばらばらに分離されそうになった国宝の三十六歌仙を、一手に買収したことは、まことに当代の船成金たるに背かず、私はその後、書簡の末尾に次の一首を書き添えて同氏に送った。

   風雲意気欲衝天 万里打囲鞭着先 昨日韓山擒虎手 更収三十六歌仙  

   (注・擒=とりこ)

 さて、人事齟齬多く(注・人のやることにはうまくいかないことも多く)、その後、二年もたたないうちに山本氏がだんだんと左前(注・経済的苦境に陥る)になり、にわかに歌仙絵巻を処分しようとしたがひとりでこれを買収する者がいなかった。
 そこで最初のときからの世話人であった服部七兵衛(注・道具商)が委託を受け、同業の土橋嘉兵衛を仲間にひきこんで(原文「語らいて」)、結局、各歌仙を分断して、一枚ずつ抽籤で全国の数寄者に分配するということで評議一決したのである。
 それにつき、是非、行司役を引き受けてほしいといって、私と益田鈍翁、野崎幻庵の三人に依頼があった。今や絵巻をどうすることもできず、かくなる上は数寄者冥利として、むしろ潔くこれを引き受け、歌仙のために安住の嫁入り先を斡旋するしかないということになり、当代の古筆道の権威である田中親美氏をその評議委員長とし、尾州(注・尾張国、現愛知県西部)の森山勘一郎氏をその補助として、大正八(1919)年十二月二十日、品川御殿山(注・益田鈍翁邸)の応挙館において、いよいよ断巻式を挙行することになった。
 この三十六歌仙は、山本氏が三十五万五千円で買収後に約二年間所有していたので、同氏には、この歌仙の中から宗于朝臣(注・源宗于むねゆき)を贈呈することになった。その代わりに住吉明神を一枚加えて、やはり三十六枚になるようにして、原価に二万三千円を足した三十七万八千円を、その三十六枚に割り振ることにした。

 ところで、この分断にあたっては、歌仙の中に人気者と不人気者とがあったり、完全なものと汚損したものとがあったり、住吉明神のように、ただ住吉の景色とその歌だけが描かれたものがあったり、貫之のように、狩野探幽がその詞書を書き添えたものがあったり、あるいは躬恒(注・凡河内躬恒おおしこうちのみつね)のように、歌仙も詞書も共に探幽の補筆がなされているものもあって、それらを評価するのは至難中の至難だった。そこは、田中、森川らが厳密な格付け比較会議を開いて、三十六歌仙を、横綱、三役、幕内、二段目、三段目(注・三段目のほうが格上だが、原文通り)と分類し、四万円を最高額、三千円を最低額にして、その平準価格となる一万円より高いものが九枚となった。それ以下のものは、九千円、八千円と、千円ずつ下げてゆき、三千円を最低額と定めたのである。
 さて、その分断の当日、すなわち十二月二十日は、午前十時が定刻で、抽籤の権利者自身が出席する場合もあれば、代理の人間を差し向ける場合もあった。
 青竹の筒に納めた銅製の香箸のような籤(注・くじ)に各歌仙の名を彫りつけてあるものを、予定した席順に順次降り出していったが、その籤の当たりはずれは、神ではない身にはどうすることもできず、最高額の品を望んでいた者に最低額のものが当たり、坊主は嫌っていた者に、あいにくその坊主が来てしまったりした。歌仙の人柄と、それが当たった人のあいだに面白い対照が見られる場合があったときなどは、拍手喝采してそれを祝するなど、一座の五十名ほどの諸大家が、この日ばかりは子供のようになって、お祭り騒ぎを演じたのであった。
 なかでも、第四番籤の業平(注・在原業平)が馬越恭平氏に当たったときなどは、ご本人はグッと脂下がって(注・やにさがって=いい気分でにたにたする)当代の色男は拙者でげす、と言わんばかりの面持ちをしているところに、一同が急霰(注・きゅうさん=いわかに降るあられ)のような大喝采を浴びせかけたなどは、この日最大の愛嬌であった。
 信実三十六歌仙断巻式は、以上のような次第で行われ、二巻は分かれて三十七幅の掛物となり変わったのである。しかし、このように分断することが余儀なくなってしまってから考えてみると、この巻物は他の絵巻物とは違って、歌仙とその詞書とが一枚一個ずつになっているので、連続している他の絵巻物を切ってしまうのとは、だいぶ趣を異にしているため、あきらめがつかないことがないでもないのである。
 ただ、当日に三好大経師が鋏を手に取って、この巻物を切断するときには、角力の横綱の断髪式に臨むのと同様、なんとなく愛惜の感を抱かずにいられなかったので、私は古歌をもじって次のような狂態一首を物し、当日列席した同行の一笑に供したのである。

    切るはうし切らねば金がまとまらぬ 捨つべきものは鋏なりけり

(注・戦国時代の武将の古歌に「取るも憂し取らぬは物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」=人の首を取るのはいやだ、かといって取らないと半人前と言われる。ああ弓矢を捨てたいものだ、がある)


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