二百五十五 犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)
犬養木堂翁(注・犬養毅)に関する二、三の遺事についてはすでに叙述してきたが、翁の余技のなかでも抜群であった刀剣鑑賞のことにはまだ触れていなかったから、京極正宗を同観したときに翁が洩らされた刀剣談義について、ここに紹介することにしよう。
それは大正八(1919)年四月二十七日のことだった。京極高徳子爵は、当時、刀剣鑑定で有名であった松平頼平子爵の勧誘で、京極家伝来の正宗在銘の短刀を、内幸町の華族会館に陳列し、愛刀家の一覧に供せられた。私は松平子爵の案内により、午後一時ごろから同館に推参した。
その日、日本座敷に飾られていた銘刀は、例の京極正宗のほかには、青江定次(注・正しくは青江貞次か)大脇差と、吉光短刀の二点で、その付箋には次のように書かれていた。
正宗短刀 長さ七寸五分強(注・約23センチ)
豊臣秀吉より京極高次拝領
ニツカリ(注・にっかり)青江大脇差 長さ一尺九寸九分(注・約60センチ)
豊臣秀頼より京極高次拝領
吉光短刀 長さ七寸八分(注・約24センチ)
徳川家康より京極高次拝領
この三点中、まず正宗短刀を拝見した。多年のうちに、しばしば研磨したためだろうか、その身が細くすり減って、鍔元に少し詰め上げがあり、目貫孔にかけて、温和な字体の正宗の二字がある。短刀の両側には、刃から身全体にわたって、螭龍(注・みずち=雨龍)が雲に浮かぶような、あるいは白糸が風に乱れるような光線を反射してちらちらと変化する焼刃の乱れがある。一見して非凡の名作と思われたが、そのとき同席の木堂翁は、私や浅田徳則氏などに向かって、ここに、一場の刀剣談をされたのである。その説は次のようなものであった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「拙者は多年、多数の刀剣を見たが、今日拝見するがごとき在銘正宗を見たことがない。先年、刀剣鑑定家、今村長賀、別役正義等が、正宗は自ら刀剣を打ちたるにあらず、彼は刀工の総元締めで、多くの職人を支配したるまでなり、その証拠には、正確なる正宗在銘の刀剣がないではないかと主張した。
そのとき拙者はこれに反対して、正宗は普通の刀工にあらず、関東足利の命を受け、諸国を遍歴して名刀を調べ、また名工を抱えて、これを我が門下に拉致し、さかんに刀剣を作りたる(原文「作りにる」誤植か)ものにて、世に相州十哲と云えるは、すなわち彼の門下中、優秀なる者を称したのである。
此の時にあたり、正宗在銘の刀剣は、いまだ世に出でなかったかも知らぬが、相州刀中に、一種非凡な作物があるのを、もし正宗でないとすれば、果してなんびとの作であろうか、たとえば、井上侯爵家の秘蔵、包丁正宗のごとき、正宗の銘こそなけれ、その作行きは、かの十哲輩の及ぶところにあらず、これらは正宗が自ら鍛えたもので、かの正宗に自作なしというのは、はなはだ不当の説なりと抗論したことがあったが、今日この短刀を見るに及んで、はじめて前説の正確なるを証明することを得た。
もしかの議論のあった時、この短刀を発見していたらば、無論、議論などあるべきはずがなかったのに、これが今日まで世に知られなかったのは、必ず相当の理由があろう。けだし徳川時代においては、名刀を秘蔵して、容易に世に発表せざるを常とした。ことに徳川四代将軍家綱時代、明暦の大火で、幕府が所蔵の名刀を焼失せしにより、諸大名より、しきりに名刀を徴発せしことあり、その後八代吉宗将軍時代にも、また同様のことがあったので、京極家にても、かの正宗を極秘したのであろう。そのため正宗に関して、種々の説が行われたのであろうが、今日この短刀が世に知られた以上は、正宗論はもはや確定したるものと言ってもよかろう。
またニッカリ青江大脇差は、青江定次(注・貞次か)の作である。彼は元暦年中、後鳥羽天皇がさかんに全国の刀鍛冶を招集せられたときの名工で、青江は備前の地名である。この地は砂鉄の流れ出る川筋なれば、備前物の名工は、多くは根拠をここに置いて、さかんに名刀を製作したのである。
しかして、この青江脇差は、古刀に似合わず、毫も(注・ごうも=少しも)疲れたる痕跡がないので、実に稀有の名刀なのである。またニッカリというのは、ニッコリのことで、ある人がこの刀をもって道行く人を斬ったところが、あまりによく斬れたので、斬られた者もみずから気づかず、顧みてニッコリ笑いたり、という伝説があるので、この名を得たということである。
しかしてその小身に、羽柴五郎左衛門長とあって、その下の秀の字は見えないが、これは丹羽長秀が、その差料(注・さしりょう=自分がさすための刀)を豊臣家に献じ、豊臣秀頼がさらにこれを、京極高次に与えたのである。
高次は、関ケ原戦争の節、大津城にあって、非常に重要の地を占めていたので、大阪方も、徳川方も、しきりにこれを味方にせんと苦労し、徳川家康が吉光の短刀を高次に与えたのも、このときであった。
すなわち、今日陳列の三名刀は、京極家と最も歴史的関係のある名品で、中にも正宗在銘の短刀は、刀剣界の疑問を一掃すべき名品なれば、お互いに、近来容易に得べからざる眼福を得たのである云々」
以上、犬養木堂翁の談話は、その普段の刀剣に対する蘊蓄(注・うんちく)を発揮したものである。よって私は、これを同好の知友に知らせるために、ここにそれを記述した次第である。
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