【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十四  正倉院拝観新例(下巻386頁)

 奈良の正倉院は世界に無比の奇跡的な一大宝庫である。好古鑑賞家は必ず、まずはこれを拝観しなくてはならないはずなのに、これまで秋季の御虫干しの際に、相当の位階勲などのある者でなければその拝観が許可されていなかった。私なども、しばしば拝観を希望したけれども、大正八(1919)年になるまで、ついにその目的を果たすことはできなかった。
 そこで、私は同年九月、山県老公(注・山県有朋)を小田原の古稀庵に訪問したとき、正倉院拝観を位階勲などを有する者だけに限られることは、帝室の民間美術工芸文学家に対する一視同人の思し召しとは相いれないと述べた。今もし、宮内大臣か帝室博物館総長などの奏請で、長年この道に篤志を持つ者に拝観の機会を与えられることになったら、大正聖代において、もっとも有難い新しい一例となるはずだと述べると、公爵は同感として傾聴せられたのである。
 そして「いかにももっともの次第なれば、なんとか尽力してみましょう」といって、ほどなく宮内大臣(注・波多野敬直)に懇談されたところ、この方面の慣例を改めることは非常に億劫(注・一劫の一億倍。非常に長い時間)なことのようで、宮内大臣は公爵に「御趣意は了承いたしたれども、それぞれ手続きを要すべきにつき、とにかく、来年までお待ちくだされたし」と回答された。
 このとき公爵は、「来年まで自分が生きて居るや否やも分からぬから、善は急げでぜひとも実行せられたし」と希望したところ、廷議(注・朝廷の論議)はにわかに進行して、本年から帝室博物館総長の奏請によって、位階勲がない者でも特別に御倉拝観を許可してもらえることになった。

 最初に約十人ほどが、この特別許可を受けられることになったので、丸腰無冠太夫の私が、いの一番にこの恩典にあずかり(原文「霑(うるお)ひて」、多年の宿望を果たすことができたのである。
 前述した篤志の人々に対しては、早晩、御倉拝観が許可されることになるらしいが、その時機を幾年か早めてくれた山県公爵の尽力に対しては、私ひとりでなく、多数の篤志者もまた感謝せねばなるまい。
 このような次第で、私は十一月十四日に、田中親美氏を同伴して午前十時前、正倉院の事務所に到着し、勅封庫開扉のために当地に出張中の帝室博物館総長、森林太郎(注・森鴎外)氏に面会した。その後、案内され、事務所から数十間(注・一間は約180センチ)ほどはなれた正倉院の正面に進み、眼前に千百余年を経た(原文「閲(けみ)した」、世界無比の宝庫を仰ぎ見た時には、わけもなく(原文「何かは知らず」)ただ、かたじけなさに涙がこぼれるばかりだった。
 そもそもこの正倉院は、天平勝宝八(756)年、光明皇后が、先帝の御遺物を奉納しようと建造された宝庫である。幅六間、奥行き五間一尺の倉庫が二戸、約六間の間隔で南北に相対して建てられたもので、その後、収蔵品の品類が増加したので、この南北二つの倉の間に新たに一倉を増築し、内部ではつながっていないが、三倉を一棟の下に連結したものである。
 床下は漆喰で固められ、その上に直径二尺(注・一尺は約30センチ)、高さ九尺の円柱を立て、そのまた上に約三尺ほどの框縁板を張ってあるので、空気の流通に申し分ないだけでなく、地面から倉庫扉の下端まで約一丈二尺(注・一丈は約3メートル)の高さがあって、簡単に近づくことができない。かつ、普段ははしごを設けず、御虫干し開扉の時だけ東面に回廊を作り、ここに段はしごをかけて昇降用とするのである。

 今、この段はしごを踏み、まず北倉の入り口まで登っていくと、千年余りの風雨にさらされた校倉あぜくらの古色が蒼然として、掬す(注・きくす=味わう)べきなのは倉庫そのものであり、これが、すでに無上の国宝なのである。
 正倉院の宝物は聖武天皇の御遺物を主として、その他、当時の尊貴なる方がたの献納品が収蔵されたものなので、朝廷、もしくは上流社会に関係するものが多数であることはもちろん、その種類は、当時の社会百般の物類をあますところなく含み、美術、工芸、歴史、風俗、宗教、政治、文学の各方面の資料を宝物によって拝覧者に供する。それらが、いろいろな意味において無類の貴重品であるということは、いまさら私の多言を要しない。私は拝観後、正倉院拝観記を新聞紙上に掲載したことがあるので今またここでは繰り返さないが、千余年を経た木造の宝庫が、そのまま今日に現存するということは、万世一系の皇室をいただく、わが国体が尊厳であるためで、非常に小さな(原文「爾たる」)一倉庫であるが、見にきてみれば、有形の国宝とともに精神的な無形の国宝も包蔵するもので、わが歴朝列聖の遺烈余沢が、いかに深く、かつ広いかを如実に現わしている。 
 ことに、当院に収蔵してある薬草、薬品などは、最初は庶民救済のために供せられたもので、わが歴代天皇の、民を憐れみ世を救う聖慮をうかがい知ることができるので、私は日本国民になるべく広くこの宝庫を拝観してもらい、そのありがたさを知ってもらいたいと思っている。だからといって、宝物保存上、開扉期間を長くするわけにもいかないならば、同じ品が多数あるものに限り、それぞれ見本を分類して、別に展観館を設けるなどといった工夫をしてはどうかと希望してやまないものである。
 私は御倉宝物がいかに貴重で、いかにのちの人々に利益になるかということを、ここに細記する余裕がないことが残念だが、私が拝観したときに、聖武天皇の御製に、

   青丹よし奈良の都の黒木もて 造れる宿は居れとあかぬかも

とあったことにちなみ、

   青丹よし奈良の都に千とせ経し 御倉のたから見れどあかぬかも

とたたえて奉った。そのことから、これがいかに豊富偉麗なものであったかということを推察していただければと思う。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ