二百五十三 土橋無声庵の奇骨(下巻382頁)
大正初年から関西道具商の世界に台頭して、持って生まれた奇骨と飛びぬけた機略でたちまちその名声(原文「声価」)をとどろかせた土橋嘉兵衛は、洛北鷹峯玄琢村の生まれで、十一歳のときから橘屋こと駒井卯八という道具商の丁稚になり、卯八の厳格な指導のもとでその少年時代を過ごした。
卯八は思慮深い人物で、嘉兵衛の将来を嘱望し、他の奉公人に対しては何事にも寛容を示して簡単には叱責することはなかったのに、嘉兵衛に対しては一歩たりとも仮借しなかった。
あるとき嘉兵衛少年が、主人の言いつけどおりに得意先への勘定書をしたため、宛名の「服部」を「八鳥」と書きつけた。すると卯八は「この馬鹿者め」といって少年の横っ面をいやというほど殴りつけたので、嘉兵衛は一時非常に憤慨したものの、これはみなすべて自分を思うためのことだと気づいて、それからというもの得意先の姓名はもちろん、その住宅の町所まで暗記するにいたったということだ。
こうして彼の年季が終わり独立して道具展を営むことになるやいなや、卯八は自家の商売の符牒である、
コヱナクテヒトヲヨブ
というのを嘉兵衛に譲り与えた。「およそ道具商たるものは、我よりすすんで売ることを求めず、客が来たりて自然に買うように心がけねばならぬ、これ我が主となるか、客となるかの境(原文「堺」)にして、道具商の秘訣は、全く此の間に存するのである。即ち我家の符牒の意味は、こちらより声を掛けざるに、人があちらから寄り来たるよう仕向くべしというものなれば、汝もよくよくその意味を会得して、終生これを服膺せざるべからず」と言われたそうだ。土橋の商売風は、ただしくこれを実行しているから、私は彼からその茶室の庵名を乞われたとき、一も二もなく無声庵と名づけ、その扁額に拙筆を揮った(注・ふるった)次第である。
土橋は、前述したとおり十一歳から橘屋卯八の薫陶を受け、丁稚から仕上げて、例の気性で根気強くその業界で訓練を積んでいたので、大正初年まではまだ頭角をあらわさなかったが、彼がいったん道具商界で活躍するようになるとその出世はきわめて早く、明治末期に東本願寺蔵器入札のとき、すすんでその札元になってから後はとんとん拍子で家業を振興し、大正七(1918)年十一月、京都四条通の円山応挙旧宅跡に堂々たる新道具店、仲選居を営んだ。その盛大な開業披露では、煎茶、抹茶の両方面にわたり多数の名器を陳列し東西の諸大家の来観を乞うたが、時も時、成金時代がまさに絶頂に達しようとしていた時だったので、光悦会に参会かたがた京阪、名古屋、東京、金沢から集まってきた人の数は知れず、文字通り門前市をなしたのである。
寄付十畳の床には応挙筆の蘆に三羽の鴨の一軸を掛け、その前に染付鯉耳の花入を置き、紅白牡丹を挿し、炉辺の遠州棚には唐津水指を載せ、釜は大西五郎左衛門作で萬歳樂のの文字がついていた。香合は伊賀伽藍で、いつの間に練習したのか、主人は遠州流の手前で、まず炭手前を行い、それから運ばれてきた懐石の道具は一々名品揃いで客の目を驚かせた。
懐石後には四畳台目席で濃茶の饗応があった。床には小大君の香紙切を掛け、唐物朱盆に唐津の香炉を置き、そのころ主人が某大名から取り出したという二百二十匁(注・825グラム)あまりもある芙蓉の名香を焚いた。
茶碗は遊撃呉器、茶入れは橋姫手銘一本、茶杓は遠州作歌銘、水指は南蛮編簾など、珍器揃いだった。
私がこの茶入を見て、もしや橋姫手ではなかろうか、と言うのきいて、主人は水屋から飛び出てきて、これまですでに百数十人の茶客を迎えたが、この茶入を橋姫手だと言い当てた人は、今日が初めてであります、といって、しきりに賞讃を辞を呈するなど、彼の正客に対する外交的茶略には他人の追随を許さぬものがあった。
この仲選居開きの道具売却高が一日で四、五十万円に達したというのは、いわゆる、声なくして人を呼ぶ、の商略がいかに巧妙であるかを推しはかれるというものだ。しかしながら、これはただ商略だけでできることではない。彼の人となりが、軽快脱俗の中に一種の機略と侠気とを秘め、京洛中の風流茶事には労費を厭わずに参加し、光悦会、松花堂会、洛東会、大徳寺三斎会、栂尾高山寺会、大仏桐蔭会などにおいて、いずれもなくてはならない人物、見なくてはならない顔役になっているがためなのである。
ひとたびこの人を失ったならば、京都の風雅界は、にわかに落莫(注・ものさびしいさま)の観を呈することになると思われるので、私はこの社会のために彼がその健康を良く保ち、長く活動を続けられることを希望してやまないのである。
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