二百五十二 有栖川宮家御蔵象墜(下巻379頁)
大正六(1917)年、私は西園寺陶庵(注・公望)公から、頼山陽が有栖川宮家の執事に宛てた書簡の張り交ぜ巻物二巻を拝借し、山陽と有栖川宮家の間にどのような交渉があったかということを詳しく調べ(原文「つまびらかにし」)、非常な興味を感じたことがあった。
その節に陶庵公から、「有栖川宮家に山陽筆の耶馬渓図巻があったように記憶している」ということを伺い、私はいかにしてもそれを拝見したいと思った。
その後、井上勝之助侯爵夫人末子の方を経て、有栖川宮大妃【故威仁親王妃】殿下に同巻拝見のことを願い出たところ、はたしてその巻物があるのかどうか家職に面会して詳しく聴き取るのがよいだろうという御回答があった。
そこで大正七(1918)年五月四日、麹町区三年町の有栖川宮家に伺候し、家職の武田尚氏に面会して、その耶馬渓図巻について質問した。すると、かつてそのような図巻を見受けたことはないが、山陽の筆蹟なら、同人筆の象墜記と、小島彤山(注・こじまとうざん・象牙彫刻家)作の象墜(注・しょうつい)があります、と言われたので、思いがけず、ここで象墜記と、象墜を拝見することができたのである。これは、蜀を望んで隴以上の大物を得たような感じであった。(注・慣用句は「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」=欲にきりがないことの意であるが、耶馬渓図巻を見ることができなかったことから、わざと逆に使用したものか)
さて象墜とは、象牙彫りの根付で、厚さが一寸(注・約3センチ)、横幅一寸五分、高さ一寸ほどの象牙に、小島彤山が、廬生邯鄲の夢の図を彫りつけたものである。彫られた人物は蟻よりも小さく、楼閣が十五、人物八百八十人、象、馬十二頭、その他の鳥獣が無数にいる。その面貌や動作が、それぞれ変化に富んでいることが実に驚くべき技巧だといえる。これを世界的な作品だと呼んだとしても、決してほめすぎではないだろう
また、この象墜に付属している山陽の記文は、どうやらその初稿であるらしく、山陽遺稿に載せてあるものよりも、一層、詳細なところもある。巻末には小石玄瑞の跋文まで載せてある。
私は少年のころ山陽遺稿の象墜記を読み、このような技巧が実際に存在するものだろうかと、驚きつつも怪しんだということがあったが、今日、図らずも象墜の実物と記文とを併観し、その疑念を一掃することができたということは、実に一生の中での大眼福というべきものであろう。
そこで私は、この大眼福を独占するに忍びず、当時、象墜拝観記を書いて新聞紙上に公表した。その後、昭和七(1932)年、日本美術協会第八十九回美術展覧会において、この象墜を高松宮家から拝借して同会場に出陳し、あまねく世間の公衆に展示したので、おそらく好事家は拝観したことと思う。
例の象墜記は山陽遺稿に掲載されており、よく知られているものなので今ここでは省略し、この象墜の作者である小島彤山という人について、その略歴を掲げることにしたい。
小島彤山は彫刻を専業とした人ではなく、天性器用だったので道楽でやっていたということのようである。
かの象墜の底面には、文政己未秋、彤山小島旭という彫名があるが、文政己未は同六年で、彤山が三十歳のときの作であるそうだ。山陽遺稿には、これを作るとき、年甫めて(注・=始めて)二十、とあるが、これは山陽の誤記ではなくて、多分、版下の誤写であろうということだった。
とにかく、このような根気のいる仕事は、二十代から三十前後の、いちばん元気な時に限るもので、聞くところによるとイタリアなどでも、彫刻で天下に名をあげるほどの人は、三十歳までに必ず一代の大作を作り上げるということだ。
小島彤山については、その子息である晩が作った碑文の中に、次のような一節がある。(注・旧字を新字になおした)
「先考諱は旭、字は子産、姓は源、小島彤山を以て行はる、丹後峰山の人、幼にして彫鐫(注・鐫=彫る)に巧なり、師承する所なし、而して製作超凡、細勁緻密、人其妙を賞す、生平京師(注・都)を愛し、遂に家事を弟に付して、往いて僑す、考又嘗て象墜を製し、盧生夢の図(注・「邯鄲の夢」の図)を鐫る、其径方寸、楼閣人馬悉く具はる、山陽先生記文中に詳かなり、又一谷合戦図の墜を製す、亦巧緻を極む、多作せず、但興到れば即ち刀を弄し、或は寝食を忘るるに至る、喜んで硯を製し、毎に西土妙作を見れば、輙ち(注・すなわち)意を極めて、模造殆ど真を乱る、且つ書画古玩器を嗜み、賞鑑頗る精、又琵琶を能くし、暇あれば即ち撫弾して自から娯む、性闊達にして気概あり、交る所皆一時の名流、流注病を得たり、然れども未だ嘗て此を以て意と為さず、後大阪に徒り、客至れば談諧各々歓心を尽す、此の如き者、十四年一日の如く、弘化乙巳七月十六日歿す、享年五十二、城南禅林寺に葬る、其略を碑陰に書すと云う【原漢文】」
以上が小島彤山の略歴である。昔から、彫刻家の余技として、米粒に大黒を彫るなどと言う話は聞いているが、象墜にいたっては、ほとんど人間業とも思われないものである。私は一生のうち、このような作品を再び見ることはできないだろうと思うので、世間の好事家のために私がこれを実見するにいたった経緯を示し、その参考にしてもらおうと思った次第である。(注・現在は三の丸尚蔵館所蔵になっている)
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