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二百五十一  角田竹冷宗匠(下巻375頁)


 角田竹冷(注・かくたちくれい)氏は静岡県の出身である。角田真平と称して明治の後年から大正時代にかけ政治、経済の両方面で活動し若干の功績を残されたが、竹冷宗匠として俳諧道に遺された足跡は、それよりはるかに大きかったのではなかろうか。
 大正七(1918)年一月六日のことであった。私が避寒していた大磯の長生館に、同地に滞在中の安田善次郎氏と角田真平氏が突然訪問されたので、とりあえず持参の茶箱をひらいて、大阪鶴屋の羊羹で薄茶一服をすすめつつ、三人で鼎座して、暫時、風流談にふけった。
 このとき角田氏は、今、安田翁を訪問して、新作の狂歌を頂戴してきましたといって、絹地に今年の干支である馬二疋が描かれた上に書きつけてある狂歌を見せてくれた。その文句は、


  さちあれと振る塞翁の馬の年 世はかけくらのまはり双六


とあり、また、他の一枚には、大黒が俵の上に立って、小づちを振っている図に、


  槌の柄をあげてさづくる福の神 打出のたから得るもうま年


とあった。
 竹冷氏はさかんに「さちあれ」の狂歌をほめて、これは近来の名吟だと思います、などと、おおいにお世辞をふりまかれた。
 私が角田氏に、新年のお作は、ときくと、今朝の口吟であります、といって、


  初風呂や番茶をのめば日が上る


という一句を示されたので、では新年の御題の海辺の松のほうは、と言うと、どれも駄作でありますと断ったうえで、次の三首を示された。


  左ればここより年はたちなむ千松島


  松に漁火にまづ年あけし日ざしかな


  枝ぶりやわかざりかけん磯馴松


 このとき私は角田氏に、貴下はかつて沼間守一らと嚶鳴社で政談演説を試み、法律家、政治家として政客の群に出入りし、今や東京株式取引所の理事として、塵俗なる(注・けがれた俗世の)商業社会に奔走しているにもかかわらず、当代一流の宗匠として俳名が世間に知れわたっている(原文「喧(かまびす)しい」)のは両極端なはなしで、ずいぶんと変化に富んだご身分でありますな、と言うと、イヤ、拙者のような雅俗両性動物は、世間にその例がすくないほうだろう、拙者は静岡県人で、父も伯父も発句(注・俳句)が好きだったので、少年時代から見よう見まねでこれを学び、明治七(1873)年、岩倉右大臣が熱海に来浴(注・温泉を訪問)されたとき、図らずも右大臣に拝謁し、そのころはまだ黄吻(注・くちばしが黄色い=若くて経験がない)の少年だったが、「うごきなき巌ありての清水かな」という即吟を御覧に入れたところ、右大臣はすこぶるこれを奇(注・すぐれている)とせられたと同時に、あるいはあらかじめ詠み置いてあったものではないかと思われた様子で、ほかにも即席の題を出して試みられたが、いかなる題でも、とにかく即座に詠み出でるので、右大臣も、自分を詞才のある小童と思われたものであろう、とにかく東京に出て来いと言われたので、その後ほどなく上京して、一時、岩倉家の厄介になっていたが、もしこのときから右大臣家を離れず、その系統を追って、伊藤(注・博文)公などに接近していたならば、自分と同年の伊東巳代治子爵のち伯爵らと同じく、伊藤系統の役人連中にはいって、今は、男爵か子爵の仲間入りができたであろうが、しかし自分はわがまま者で、窮屈なことが大嫌いなため、ほどなく岩倉家を辞して静岡に帰り、二度目に東京に出てきた時、図らず河野敏鎌、沼間守一らに接近する機会を得て、ついに彼らの仲間にはいり、民間政論家となって今日までもこのように俗界に奔走している次第である、しかし発句は性来の嗜好なので、かつてこれをやめたることなく、いかなる俗間にあっても胸中より発句を取り去ったことなく、日常道路を歩いていても、あるいは室内に寝ころんでいても、目前に横たわる器物の取り合わせを見ても、すべて発句道より調和を得ているや否やを思い起こすのは、われながら不思議な気がする。たとえば今朝この部屋にはいってきて、床に「紅爐一點雲」の五字一行がかかっているのを見れは、この前にはなるべく、銀の花入などを置きたくないな、と思うのは、発句道より出てくるところの自分の癇癖であろうが、思うに、貴下の好まるる茶事なども、やはりこれと同様ではあるまいか、本来、発句は字数が少ないので、古人がことごとく詠み尽くしているから、たとえば梅の句を詠もうとするのに、句中に梅という字を使うと、たいてい古人と衝突することになるから、自分は弟子どもに、梅を詠もうとしたら、梅を詠むな、と教え、何か他字をもって、梅の心を詠み出すように心がけないと、決して新しい句を作ることはできぬぞ、と申して居る。かくて発句には、往々にして暗合(注・偶然に一致すること)するものがあるが、その場合が違えば、必ずしもこれを咎めるに及ばない。たとえば、加賀の千代が、夫の死んだときに詠んだ句に、有名な「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」というのがあるが、京都島原の八橋太夫にも同じ句があって、その前書きに、「まろうどの来まさぬ宵に」と書いてある。今、この二つの場合を比較すれば、同句ながら、八橋のほうが、ことに風情が多いように思われるのである」など、竹冷宗匠の俳談は、滾々(注・こんこん)と、尽きるところがなかった。

 彼もまた、明治から大正にかけて存在した、いわゆる雅俗両性動物中の一奇物といってよいだろう。


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