二百五十 山県元帥の対支観(下巻371頁)
清国(原文「支那」)が中華民国となってから、自国の統一や改善を二の次にして、ひたすらに対外的な威信を高めようとすることに熱中するあまり、しゃにむに排外思想を激発して、相手が下手に出れば出るほど、つけあがって和協の道をふさぎ、伝統的な、「夷をもって夷を制する(注・敵を利用して他の敵を制し自分は戦わずに利益を得る)」の策略をめぐらし、諸外国に種々の利権口実を与え、のちのちに取り返しのつかぬようなはめに陥りつつあることは、まことに気の毒な次第である。
このことは、ただシナ(原文「支那」)一国の不利であるばかりでなく、対岸に位置して、もっとも頻繁な交渉のある日本のためにも、はなはだ迷惑千万な事態であるといえる。
山県元帥は、ひごろからこの点を気にかけ、日支関係を改善したいと願い、シナの政治家、孫逸仙(注・そんいっせん。孫文)、梁士詒(注・りょうしい)、唐紹儀らの来日(原文「渡日」)に際し、親しく面陳(注・面前で陳述)された。そのたびに、私は公爵からその談話の概略を聴聞する光栄を得たが、今日から振り返ってみると、先見というのだろうか、達識というのだろうか、とにかく、私たちが今日シナに対して言いたいと思うところを直言されているのである。
わが国の経世家の対支観は今でも当時とほとんど違いがない。そこで私は、大正六(1917)年十二月十七日に五番町の新椿山荘において公爵から聴取した、シナの政治家、梁士詒との会談の要旨をここに掲げることにする。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「自分は今日、梁士詒と会見したが、彼は袁世凱の幕僚として、もっとも有力な人だったということだから、最初より率直に所懐を陳述すべく前提して談話を進め、貴国が南北朝和せずして、比年(注・年々)紛々擾々(注・ふんぷんじょうじょう=ごたごたしていること)の間にあるのは、まことに痛嘆の至りであるが、その南北の主張なるものを聞くに、一国の利害よりも、むしろ各自の手前勝手が多いようである。
顧みて世界の大勢を見れば、今や支那はかかる内争に没頭するときではない。少しも早く挙国一致して、第一に強固(原文「鞏固」)なる政府を作り、第二に財政を確立して国防を充実しなくてはならぬ。聞くがごとくんば(注・聞くところによると)、貴下は北京政治家中にて、もっとも声望実力ある人なりといえば、同志を糾合して、紛擾を一掃し、一死もって国家百年の大計を樹立しなくてはなるまいとて、ことにその一死というところに力をこめて、通訳にこれを繰り返させたが、梁はこの談話中に、二度までも、お説ごもっともなり、と明言した。
それより自分は一歩進め、数年前、孫逸仙(注・孫文)が自分と会談したとき、日本は近年武力をもって発展したる国なりと言われたから、自分はこれを聞きとがめ、ただいま貴下は、日本が武力をもって発展したる国なりと言われたが、かくては日本がアジア中に侵略主義を実行する国なるがごとくに聞こえて、はなはだ穏やかならぬと思う。そもそも貴下は、日露戦争をなんと見らるるや、露国は極東に向かって、侵略の矛先を向け、すでに満州を圧して北京に迫り、明らかに支那併呑の下地をなしたのではないか、このときにあたり、もし日本が手をむなしうして(注・何もせず)傍観したならば、支那は露国の配下となり、日本は露国と接壤(注・境界を接する)せざるを得ぬのである。
今やアジア州において、もっとも重要なる位地に立つ者は、日本と支那の二国なるに、今、支那が滅亡するにおいては、日本ひとり安閑たるを得ぬ、すなわち日本が一国の興廃を賭して、やむをえず剣を抜いて立ったゆえんで、その危険困難は、実に名状すべからざるほどであったが、一国千年の安危にはかえられず、万やむを得ずしてこの挙に出でたのである。
しかして、幸いにも露国の矛先をくじき、日本とともに貴国も、かの爪牙をまぬがれた次第で、その成績よりみれば、あるいは日本が武力をもって発展したりと言わるるかも知らぬが、日本がこの決心をなしたのは、領土を広げんがためなどの野心にあらず、真に自国の安危、東洋の安危を双肩に担うて、万々やむを得ずして立ったのである。
全体、アジア人はアジアに棲まざるべからずというのが、自分の主義だが、このアジア州において、もっとも重要なる位地にある日本と支那とのうち、いずれか一国が滅亡するにおいては、他の一国もまた独立しあたわざるは火を見るよりも明らかである。
すなわち、自分が支那に対して、平常、親善云々を大声疾呼するのは、まったくこれがためにほかならぬのである。これは、先年自分が孫逸仙に語ったところであるが、その趣意は十年一日のごとく、かつて変わるところなく、自分の対支政策は、この主義より割り出して、親善を眼目とするものなれば、貴下もこの意を諒して、両国提携もって極東の危急を救うべく、尽力せられたい、と述べたところが、梁もしきりに感謝の意を表していたから、支那の要人連に、充分この意見を徹底するに至らば、まことにしあわせなことだと思って居る云々」
以上、山県元帥の対支観は、今日といえども、否、百年千年ののちであっても、まさに適切不動のものであろうと思うが、シナの政治家が、いったいいつになったらこのことをよく理解するのか。それを理解したときには、すでに手遅れだったということがなければ、まことに幸い(原文「僥倖」)であると思うのである。
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