二百四十九 白頭宰相原敬氏(下巻367頁)
故政友会総裁元首相の原敬氏は、年齢の割に早くから白髪となったので、白頭宰相の異称を得るにいたった。
あるとき私が西園寺公爵と雑談しているとき、公爵は次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「自分が明治十(1876)年前後パリに滞在中、原氏も来たって同地に在留していたが、そのころ原氏も青年時代で、頭髪は無論、真っ黒であったが、ただ頭の真ん中に、一筋細く白髪が通っていたので非常に早白髪だと思っていた。ところがこのころ、パリの劇場にて興行中の演劇に、ある貴族家の相続争いを仕組んだものがあって、その家の財産を相続する実子が早くより所在をくらましていたので、実父が逝去したとき、その正統なりと名乗って出ても、なんびともこれを承認しなかったが、この家の血統には、青年時代より頭の真ん中に白髪の一筋があったのに、今度実子と名乗って出た若者は、正しくこの特徴を備えていたので、とうとう相続者と認定せらるることに至るという筋合いであったから、自分は原氏に向かって、君もフランス人なれば、かの家の相続人になられるであろうにと、からかったところが、原氏は迷惑そうに苦笑していたから、自分はとんだことを口走ったなと思って、匆々(注・そうそう=早々に)その話を打ち切ったことがある云々」ということであった。つまりそうすると、原氏は青年時代から、後年白髪になる特徴を備えていたということだろう。
私は、あるとき、白髪という和歌の兼題(注・あらかじめ出された題)で、
黒髪にまじる白髪の一すぢは 老に入るべきさかひなりけり
と詠んだことがあったが、何やら先ほどの談話に符号するように思われたので、われながら不思議に思ったものだった。
原氏は、頭は白髪であったが、身長が高く、顔の血色がよく、面貌の道具がよく揃っており(注・顔立ちが整っており)、盛岡出身ということで奥州弁ながら言語明晰で、いかにもきびきびとした政治家であった。
私はいつからだったか記憶していないものの、新聞記者だったころからの馴染みで、その後仕事の方面が違ってしまったため、あまりひんぱんに会談する機会もなかったが、大正七(1918)年一月に、原氏が夫人同伴で腰越(注・鎌倉)の別荘に避寒中に偶然にも雑談する機会を得た。
ちょうどそのころ、佐竹侯爵家の入札会に出た、信実筆三十六歌仙巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる佐竹本三十六歌仙絵巻)を切断する問題があったので、そのことから国宝保存のことに話が及び、私はかねてからの持論として、わが国に国宝を今日のように神社仏閣の保管に任せて心なき者に取り扱わせておくと、今後五十年しないうちに、その真価の半分が失われることになるであろう、だから、今日もしも真の経世家(注・政治、経済、社会の指導者、政治家)がいるならば、日本に国立美術館を作り、継続事業として年々国家から若干の金を支出し、全国の神社仏閣の所蔵する信仰に関わるもの以外の国宝を、その美術館が買い取り、完全に保護するという方法を講じなくてはならないのではないか、と述べた。
すると原氏も非常に同感で、さきごろ山陰道に赴いたとき、かの応挙寺(注・兵庫県の大乗寺)を一覧したとき、寺内のふすま絵はすべて応挙とその門下の筆になり、すでに国宝になっているものなのに、住持(注・住職)が心ない人らしく、ねずみが襖に穴をあけてその穴から出入りしているのに一向頓着していない様子なのは、国宝保存上のはなはだしい欠陥だと感じた、と言われたところを見れば、原氏もこの点については、なかなか話せる人物だと思ったのであった。
なお、そのときの雑談の中には、次のような話もあった。
「自分は一向無風流で、何事にも趣味がないから、暇さえあれば読書をするのが関の山である。
かつて国技館の角力見物に招かれて、よんどころなく出かけたとき、事務員が出迎えて、さまざまに説明してくれたが、ただ負けるか勝つかを繰り返すのみで、自分には更に(注・いっこうに)面白みを感じなかった。
また芝居に招かれたこともあるが、これは筋書きが変化していくだけ、角力よりははるかに面白いとは思ったが、しかし自身でわざわざ見物するほどの嗜好はない。
義太夫は、大阪滞在の節、宴席の余興としてしばしば聴かされたことがあるので、例の文楽へは行かなかったが、語り手が上手なれば、それほど迷惑せぬという程度である。
茶の湯はもちろん承知せぬばかりでなく、狭苦しき茶室に出入りすることは、自分にとっては大禁物である。しかし茶の喫(注・の)み方だけは稽古しておきたいと思ったのは、ほかでもない、田舎地方に遊説に出かけて、諸方(注・しょほう=あちこち)の家に招かれたとき、なんらの予告もなく、その娘さんたちが正装して、目八分に茶碗を捧げて持ち出さるることがあるが、まさかに無下に突き返すこともできず、このときばかりは、平常茶の喫み方を心得て居ればよかったと思うことが度々ある。
往時、太閤時代には、不作法なる武人までが茶室入りをしたということであるが、これは彼らが京大阪に上って、人と交際をなすに当たり、なるべくお里が知れないように、おおいに苦心する結果であろう。今日の成金連が、金を儲けるとすぐに衣食の贅沢を覚え、それより立派な家屋を造り、書画や骨董が欲しくなるまではまだよいが、その上さらに、爵位が欲しくなるというのが成り上がり者の通過する径路で、この点に至っては古今一徹といってもよかろうと思う云々」
以上の原氏の雑談を聞けば、彼が爵位を有することを好まず、一生、平民宰相でおわったのは、みずから確乎たる信念があったからということがわかる。彼が、わが国の政治の世界で異彩を放っていたのは、ただ、その白頭だけではなかったのである。
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