箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十八  梅幸の人形(下巻363頁)

 大正九(1920)年のことだった。当時、船成金の巨魁として相州(注・現神奈川県)小田原に対潮閣という広壮な別邸を控えていた山下亀三郎君は、その人となり豪放磊落で茶目っ気に富み、みずから脱仙居士、またときには紺足袋生などと名乗り、時の大官長者に対しても無邪気、無遠慮にふるまうのが山下式として名高かった。 
 彼はそのころ、梅幸という楳茂都(注・うめもと。原文「梅茂都」)流の舞踏に堪能な神戸の美人を贔屓にしており、彼女の妙芸である踊りが東京の芸道数寄者に知られていないことを遺憾の至りだと考えた。そこでまず、そのいわゆる数寄者なるものを選考することにし、同じ小田原提灯村(注・当時小田原に名士の邸宅や別荘が多数点在していたのを、小田原名産の提灯のあかりがともっている様子にたとえたものか)の古稀庵に高臥されている山県含雪(注・山県有朋)公に白羽の矢を立てた。次いで、装束付きで時雨西行を踊ったことがあるという素人舞踏の大天狗、益田紅艶(注・益田英作)、を指名した。そのほか提灯村在籍の、田健次郎、木村清四郎、野崎広太らを招待して梅幸の艶姿と舞型とを紹介することになったのである。
 余もまた、その寵招(注・特別な招待)をいただいたのであるが、当日間際になって含雪公が急に風邪に冒されたのでやむなく延期となった。

 ところが脱仙君は、そこでたちまち例の茶目っ気を出し、京都を物色して梅幸に生き写しの京人形を取り寄せ、病気御見舞いとしてこれを古稀庵に贈り届けた。
 ここで、その人形を届けた使者が山下家の運転手で、これが美貌の青年だったため、「梅幸人形をお届け申し上げます」と言ったその口上を取次の書生が聞き間違え、運転手を役者の梅幸と思い込んで人形を公爵の枕元に持参し、「ただいま、役者の梅幸がこの品物を持参いたしました」と取り次いでしまった。
 そのとき公爵はもちろん臥床中、貞子夫人は上京して不在なので、何が何だかさっぱりわからないままに、とにかく面会するのを断ったとき、貞子夫人が帰庵され、梅幸と梅幸の間違いを発見したため、公爵もおおいに笑われて山下氏に次のような礼状を送られた。

 先夜は老人病気御尋問を辱うせし耳(注・のみ)ならず、京都土産祇園名物の舞妓人形を御恵贈被下、直に床頭に侍らせ日夜看護相勤めさせ候、御一笑即左に、


  すすみ行く世にもかはらぬかみ園の 舞子のすがた見るぞうれしき


忽ち五十年前の壮雄を憶起し、快感不堪、此に謝意を表し候、老生風気は減退致候へ共、于今医戒を守り、対客を謝絶し、静養罷在候、御省念是祈候、不日万可期面晤候、草々不一
             古稀庵老朋

  山下賢兄梧下

 こうして、梅幸の舞踏見物はしばらく中止になっていたが、含雪公の病気全快とともにいよいよ開催することになり、三月二十一日の午後、小田原の山下別荘に前記の顔ぶれを招集すると、一同は楽しみにやってきた。
 すると、さきほどの含雪公の書簡(原文「手簡」)が、時代物の匹田に鹿の子絞りの打掛模様裂で表装され寄付の床に掛けられていた。
 やがて、善美を尽くした大広間に通されると、ほどなくして梅幸の舞踏の開演となった。
 梅幸は関西美人に似ず、意気な(注・粋な)細面で、目元に無限の愛嬌をたたえ、年は三十四、五歳だそうだが、見たところ二十五、六歳のようだ。扇を手にしてスラリと立ち上がっただけで、すでに平凡な踊り手とは違った姿勢を見せていた。
 こうして当夜は、神戸の老妓、政子と小浜が地方(注・じかた=音楽演奏者)になって、「新縁の綱」「常磐津松島」「からくり的(注・まと)」の三番が舞われたが、とくに最後の「からくり的」で、その妙技が発揮された。
 「からくり的」は、関東で行われている傀儡師に類するもので、その文句は次のようなものである。
 「おもしろや、人の往来のけしきにて、世は皆花の盛りとも、的のちかはぬ星兜、先駈したる武者一騎、仰々しくもほだばかり、そりやうごかぬは、曳けやとて、彼の念仏にあらはれし、例の鍾巻道成寺、祈らぬものの、ふはふはと、なんばうをかし物語、それは娘気、これは又廓をぬけた頬冠、おやまのあとの色男、立ち止りては、あぶなもの、見つけられたら、淡雪の、浮名も消えて、元の水、流れ汲む身にあらねども、かはる勤めの大鳥毛、台傘、立傘、挟箱、皆一様に振り出す、列を乱さぬ張肘のかたいは、実にも作りつけ、さて其次は、鬼の手のぬつと出したは、見る人の笠つかむかと思はるる、それを笑ひの手拍子に、切狂言は下り蛛、うらよしひよし、道しるべ、よいことばかりえ」

 「からくり的」の舞は、扇を楊弓(注・ようきゅう=遊び用の小弓)を擬して、一回矢を放つごとに、種々の人形が現れ出て、それぞれの身振りをするという趣向で、梅幸の、人物をあらわす姿勢の優美さと、もともとの容姿の秀麗さで、観ている者を実に魅了したのである。
 さて梅幸の踊りが済むと、待っていました、とばかりに、益田紅艶が装束付きで保名狂乱を踊り出したのには、一同驚き唖然とするしかなかった(原文「喫驚の外なかつた」)。紅艶が、二十貫(注・約75キログラム)という丸々と太った図体で、近眼眼鏡の上に紫鉢巻を締めたところを含雪公がつくづくと見て、「初荷の飾り牛のようだね」と評されたのは、あまりにその通りで文句なし(原文「評し得て寸分動かぬ所」)だと、しばらくは鳴りもやまなかった。
 これで、関西楳茂都流の達人梅幸と、関東藤間流の名手紅艶との舞踏競技の展覧会が開かれたわけだが、その妙技のいかんは知らず、舞踏の終わったあとの喝采は紅艶のほうがはるかに大きかったのは、時にとっての一興で(注・その時とても盛り上がり)、当時のことを思い出すと、その光景が今でも眼前に浮かぶようである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ