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二百四十七  往生極楽院山門(下巻360頁)

 私には庭園趣味があり(原文「平素林泉の癖あり」)、ことに京都の名勝を愛して、ほとんどの庭を訪れたことがあるほどである。あるとき大原の三千院に行ったとき、その境内が幽寂なことや、堂宇(注・堂の建物)が古雅であることが気に入り、機会があればまた参詣したいと思っていた。
 大正六(1917)年五月のある日、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老が上京して私の伽藍洞にやってきた。そのときたままた話が三千院のことに及ぶと、同院の門跡、梅谷孝永上人が、境内阿弥陀堂の庭園の門塀が見る影もなく荒廃しているのを嘆き補修したいという長年の願いを持っているが、場所が山間の僻地であることもあって篤志者の参詣も非常に少なく、補修を援助してくれる人がいないので非常に当惑しているという話をしてくれた。
 私はすぐに、かつて三千院に遊んだときのことを思い浮かべ、庭園の補修については少しばかり思う仔細もあったので、微力ながらも助力することにやぶさかではない(原文「敢て一臂(いっぴ)を吝(おし)まざるべし」)と口約しておいた。
 ところがその後ほどなくして他用で京都に赴く(原文「入洛」)機会があったので、ある日植治を同伴して自動車を大原に走らせた。
 京都から約五十分ほどで三千院に到着すると、かねて申し入れてあったことであったので、すぐに本坊の上段の間に通された。そして待つ間もなく、梶井三千院門跡(注・梶井門跡は三千院の旧称、門跡とは格式ある寺院の位階、またはその住職のこと)である権大僧正梅谷孝永上人が立ち現れた。
 上人は、五十の坂を四つ、五つ上がった年の頃で、やや小づくりの身体に紫衣をまとい、梶井門跡に特有の、有名な萌黄の地に金菊の紋がついた幅の狭い袈裟を掛けており、愛想のよい応対をされた。
 ではご案内しましょうということで、われわれは本坊の庭前におり立った。庭は、中央の池のまわりに一面のつつじが花盛りであった。その間を通り抜け、つづいて一段高い平面地に登ってゆくと、そこに恵心僧都(注・源信。10世紀の天台僧)の遺構と言い伝えられている阿弥陀堂の建物(原文「一宇」)がある。すなわちこれが、往生極楽院である。
 これは藤原時代の宸殿(注・しんでん=門跡寺院に特有の建物)式仏堂で、ひさしの先が深く垂れ、優美、古雅で、比類のないものであったが、周囲の門塀や庭園が見る影もなく荒廃し、すでに一日たりとも捨て置けないような状況になっていた。とりあえず、これを修築することが梅谷上人の宿願だということで、この日上人は、私たちに往生極楽院の内外の実状を見せてくれた。
 当院は、七、八間四方(注・約14メートル四方)の仏堂で、回り縁の周囲には高欄がめぐらされている。階段を登って内陣にはいると、中央正面に丈六(注・じょうろく=身長一丈六尺、約4.8メートル)の阿弥陀如来像があり、その両側に蓮坐を捧げて端座する来迎仏が純然日本式に座っているが、ほかではあまり見ない一種風変りな座り方に見える。
 製作したのは恵心僧都という伝来であるが、その面相を観察すると藤原末期の作ではないかとも思われる。今からおよそ二百年前に、本尊があまりにも燻って(注・くすぶって=すすけて)しまったので、心ない僧侶の発議で、新たに金箔を塗り立てそうだが、それはまことに無惨な結果になっている。
 さてこの仏像の背面は、これも恵心僧都の筆だということで、胎、金両部の曼陀羅(注・胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅)を書き詰めた木版を張りまわしてある。藤原時代の建造物で、壁画がこのようにはっきりと現存しているのは、宇治の平等院、日野の法界寺、醍醐の五重塔以外には、ほとんど例を見ない国宝であるから、好古家ならば一度は必ず見ておくべきものだろうと思われた。
 そもそもこの三千院は、大覚寺、仁和寺、青蓮院、妙法院とともに叡山五門跡の随一で、伝教大師が平安王城鎮護のために勅命を奉じて延暦寺を建設しようとしたときに、その常住坊として比叡山に建造したもので、最初は三千院円融坊と称していた。
 当院は、今生天皇からさかのぼる五代前の天皇、皇后のご冥福を奉修する御懺法講(注・おせんぼうこう)というものを行うしきたりになっている(注・御懺法講じたいは平安末期から断続的に続く皇室行事)。それには、奥行き十間(注・一間は約1.8メートル)、幅十三間の、荘厳な宸殿が必要なため、後年、山上から現在の場所に移築したものである。
 しかし維新後の旧物破壊の暴風は当院にも激しく襲来し、今ではその宸殿の影さえも見られない状態になってしまった。
 けれども御懺法講は、こと、皇室に関する大法要であるので、一日も早くその宸殿を復旧することが当院第一の急務なのだということだ。
 しかしこの問題はまずおくとして、当面の問題として、往生極楽院の荒廃した様を見苦しくないように補修したいというのが梅谷上人の希望なので、私は植治に命じてまず庭園の掃除に当たらせ、往生極楽院周囲の門塀については、将来に適当な山門が建設されるまで、仮設の意味で、僭越ながら私が、小さな山門を寄進すると申し出た。すると梅谷上人は非常に喜んでこれを受納されたので、これも植治に任せて、それぞれの職人に申し付けることにした。
 最初は、屋根を檜皮葺にしたところ、その後十数年たって、山中の湿気のために、だいぶ破損を生じたというので、永久保存のために、さらに銅瓦で葺き替えを行ったのである。
 このような縁で、梅谷上人はその後、私を伽藍洞に訪問されたこともあった。上人は天台宗における偉才で、ほどなく妙法院門跡になり、さらに進んで、今は比叡山延暦寺の門主大僧正になられたそうである。
 上人はまた、非常に文藻(注・詩をつくる才能)にも富み、故杉聴雨(注・杉孫七郎)、福原周峰らと、しばしば唱酬したこともあったということである。そこで私はこの時、上人に謝する(原文「道謝する」)ために、次の七絶一首を贈呈した。

      訪小原三千院賦呈梅谷上人
   花木禅房苔径深 清談半日快吾心 澄潭応有魚龍聴 出定高僧得意吟


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