二百四十六 岩原謙庵の空中水指割(下巻356頁)
岩原謙庵【謙三】君は、実業家としては日常事務の上で綿密すぎるほどだと言われているにもかかわらず、いったん茶事方面に乗り出すと、益田鈍翁が彼に「素骨【粗忽】庵」の尊称を贈ったほどの愛嬌家で、故意【わざ】とでなく、自然に椿談(注・珍談)を生み出す特徴を持ち、謙庵茶会を催すときは必ずなんらかの語り草を残すと言われている。
謙庵の茶事は大正初年から始まったのであるが、あるとき自庵に茶客を招いたときのことである。帰宅が遅くなってしまい、急いで帽子をかぶりながら飛び込んできて、挨拶も半ばにそのことに気づき、イヤこれは失敬、と、その帽子を脱ごうとしたのを、正客の三井松籟(注・三井南家、八郎次郎高弘)翁が、からかい半分で、そのまま、そのまま、と差し止めたので、どうしたものかと思い惑って、帽子に手をかけながら引き下がったという椿事がある。
またあるときは、大阪の磯野良吉氏が正客となり、今や主人に相対して、お辞儀を交換しているところに、令閨(注・令夫人)がかわいがっていた愛犬の狆が、主人のうしろから現れて正客の頭に飛びつき、ひどく驚かせてしまったということがあり、一時は、謙庵を狆庵に改称すべきであるという動議が起こったこともあった。
またあるときは、茶会の劈頭(注・一番最初)に初心者である素人茶客を招いて、試験的にやってみるという目的で、後藤新平、杉山茂丸、金杉英五郎などという豪傑連を案内したことがあったのだが、その前日に、ある人が、明日から茶会が始まるそうですね、と質問すると、謙庵は鼻であしらいつつ、「明日の連中などは茶客と言うべき者ではない、彼らには、ただ物を食わせてやるだけだ」と放言した。その放言が、いつしか、かの豪傑連に嗅ぎ出されてしまったから、ことはいよいよ面倒になり、とうとうお詫び茶会が開かれることになり、芭蕉翁の、「物言へば唇寒し秋の風」の一軸を掛けて、かろうじて口禍の難関を切り抜けたなどということもあった。
これらの数々の椿事を編集したならば、たちまちにして謙庵奇談集が一部できあがるであろうが、ここに、謙庵の失策の中でも、もっとも有名になった話を紹介しよう。
大正七(1918)年の四月下旬、益田鈍翁が御殿山為楽庵で催した茶会のことである。本阿弥空中(注・光悦の孫、光甫)作の水指を拝見中、お供【そなえ】形の撮【つま】みのある共蓋を取り上げて見回している間に、例の粗忽で、その蓋を、水指の中に滑り落としてしまった。その瞬間、カーンという響きを立てて(原文「かつ然として響きあり」)蓋は二、三片に割れてしまったので、今の今までは大得意に角を伸ばしていたカタツムリが、何かに触れてにわかに縮こまったように、これは、これは、と恐れ入るという、開いた口がふさがらないような笑止のありさまなのであった。
相客の益田紅艶は、拙者の働きはこのような時にこそ必要であろう、と言わんばかりに、ひと膝乗り出し、ここで、次のようなお詫びのための一案を提出したのである。
この茶会の前に、私の旧蔵の松花堂(注・松花堂昭乗)筆の長恨歌の一巻の市場入札があった。そのとき、鈍翁と謙庵が偶然にも競争して、首尾よく謙庵の手に落ちたので、釣り落とした魚を惜しむように鈍翁がしきりに残念がっているという時だったので、今回の不調法のお詫びのために、その長恨歌の一巻を、入札原価そのままで、謙庵から鈍翁に譲り渡してはどうか、というのである。
ここにおいて、謙庵もこれを拒み得ず、不平の気持ちを押さえて、その提議に応じることになったので、事件はすらすらと解決したのであった。
このとき紅艶は、
空中でテツペンかけたほととぎす
と詠み出でた。時も時、名に負う(注・有名な)「目に青葉、山ほととぎす」の時節に、空中作の水指蓋のてっぺんが欠けたのを、巧みに言い表した面白さに、主人の鈍翁も、やがて下の句に、
ながき恨みの夢やさむらぬ
とつけたのは、恋しと思っていた長恨歌の一巻が、夢のごとくに我が手に落ちてきたためだったろう。(注・蛇足でつけくわえれば、ほととぎすの鳴き声はテッペンカケタカと言い慣わす)
ところが、その後ほどなく、益田鈍翁の御殿山幽月亭で催された初風炉(注・しょぶろ)茶会で、三井華精(注・室町三井家、高保)男爵、馬越化生、加藤正義、根津青山の諸氏という、いずれも悪口達者の連中だけを招いた中に、謙庵をはさんだのは、鈍翁の胸に一物あったのであろう。やがて濃茶手前になり、例の空中水指が道具畳に現れたのを見ると、最近では土物の破損修復が上達して、たいていの疵物は、玄人でも見分けがつかないほどうまく繕えるようになっているので、先夜謙庵が打ちこぼした破損の痕跡など、どこを見ても見つけられないほどの手際で直されているのだった。その精妙さに驚くと同時に、この水指がここまで修繕されうるものだったのなら、何を苦しみ、せっかく手に入れた長恨歌の巻物を投げ出した上に、平身低頭して自分の粗忽を詫びる必要があったのかと、謙庵はにわかに不平の色を浮かべた。その反対に、鈍翁は得意の微笑を洩らし、空中水指蓋割りの一件から、いったんは競争に負けた長恨歌巻を、まんまと我が手に分捕った次第を、その後、一座の悪口連中に披露したので、そのことはたちまちにして、東都(注・東京)の同人連に知れ渡り、さらに全国の茶人仲間にも喧伝されることになったのである。
そのおかげで、この水指は、図らずも一種の名物となり、その後鈍翁がこれを鷹峯の光悦会に出品したときには、今述べてきたような歴史的水指として、大勢の来客の注目を引くに至ったのである。大正茶番劇の圧巻ともいうべき、空中水指割りの一埒(注・いちらつ=一部始終)、ここにあらあら、かくのごとし。
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