二百四十五 古稀庵の石と竹(下巻353頁)
山県含雪(注・山県有朋)公は性来、多方面に多趣味で、文学方面における和歌では専門家を凌駕する力量があった。またさらに趣味は工芸方面にもわたり、嶄然(注・ざんぜん=ひときわ)群を抜いていたのは、公爵がもっとも得意とした築庭術であった。
公爵には、奇兵隊時代に長州において、すでに小庭園を造られたという経験がある。また明治初年には目白台に椿山荘を設計し、次いで京都の無隣庵を造った。この間に、小規模ながら、小石川水道町に新々【さらさら】亭を設け(注・134・「和歌修行の端緒」を参照のこと)、最後に小田原古稀庵を構築されたのである。いずれの庭園においても、水なき庭はその趣をなさず、という一貫した理想を実行に移された。
古稀庵の構築から数年たって、庭園の中にこれ以上新しい施設を作ってみる場所が皆無になってしまうと次第に腕がうずき(原文「髀肉(ひにく)の嘆を催し」)、同庵の崖下に五百坪余りの空き地があるのを買い取って、そこに新しい庭園を築造することになった。
さて公爵の築庭術は、水に一番の重きを置くものである。椿山荘においては、荘内にある池辺の天然湧水を利用し、無隣庵においては東山疎水(注・琵琶湖疎水)の分流を引き入れ、古稀庵においては鉄管で箱根山中の渓流を取り入れ、いわゆる「智者は水を楽しむ(注・「論語」から。知者は水の流れのように物事を円滑に行う)」の能事(注・やりとげるべきこと)を尽くされた。
築庭の要素である樹木と石類については水に対するほどの執心はなかったようで、公爵の愛顧を受けた植木屋の勝五郎老人なども、この点に関しては時々、公爵と所見を異にする場合があったらしい。もっとも、公爵が庭石についてまったく無関心でなかったことは、京都無隣庵築庭の際に、醍醐山の山奥に豊太閤(注・豊臣秀吉)が桃山築城の時に取り残したという大石があることを耳にして、ある日みずから踏査にゆき、兜型をした巨石に目をつけ数頭の牛でもって引き出したという一例からもうかがえるのである。この巨石は途中に幾多の障害があったにもかかわらず、ついには無隣庵に運び込まれ庭の主人公となったという経歴がある。
また古稀庵の庭前にも頼朝の馬蹄石というものを配置されたことがあったので、私は公爵の今回の新庭に使ってもらおうと、そのころ庭石として使い始めていた筑波山の山石の中から、もっとも雅趣のある大石三個を贈呈した。
そのときの礼状には、
「曽て(注・かつて)御話し有之候佳石三個、御恵贈を忝(注・かたじけの)うし、深謝不啻(注・ただならず)候、一昨夕草庵に罷越(注・まかりこ)し、直(注・すぐ)に一覧候処、頗(注・すこぶ)る美事なる良石にして、古色を帯び、恰好尤も宜敷(注・よろしく)、激流の尽処(注・つきるところ)に配置可致と楽居候、余而願置候庭上に建設すべき草亭之図、数葉拝見、其第三図に取極め可申含に候云々」
とあった。
このとき公爵は、高橋がせっかく佳石を贈ってくれたのだから、彼が一言もなく感服すべきところに配置しなくてならないということで、編み竹で石の模型を作って、その上に新聞紙を張りどこにでも簡単に運べるようにし、樹下へ、池辺へと据えてみて、遠近から熟覧したうえではじめてその位置を決定されたのだそうだ。
この新庭の完成後、私が公爵を訪問したとき、公爵みずからが私を案内してくださり、その苦心を語られ、大石を庭前に据え付けるにはこれが一番の方法だろうと言われた。私が、竹籠の張り抜きはいかにも新しい工夫だが、益田無為庵(注・益田克徳)は、茶席の露地に飛石を按配するときに、石型に切り抜いた新聞紙を、そこここに置き合わせていたことがありました、と言うと、それでは立体と平面の違いはあっても、吾輩より前にそんな工夫をした者があったのかねと非常に満足そうだった。
またこれより以前に、公爵が古稀庵の南端に一棟の離れ家を建設されたとき、私はその周囲に植えてくださるようにと、昔、皆川淇薗が長崎から京都に初めて輸入したと言い伝えられる苦竹を数十幹、京都から取り寄せ、「真鶴が岬に向へる園の中に千代をちぎりて茂れ若竹」という一首を添えて公爵に贈呈したことがあったが、そのときの公爵の礼状は次のとおりだった。
「御清康慶賀の至りに候、扨て嘗て御約諾致し置き候まま、過ぐる三日植木職を古稀庵に差出し候処、御恵贈被下候苦竹持参の植木屋と行き違ひに相成、昨夜植木屋帰京、芳翰落手(注・お手紙を受け取り)、猶事情細縷伝承候に付き、早速電話にて御挨拶申陳為置候、苦竹に付ては遠国より御取寄せ、不容易高配を忝うし、芳情深謝、且高詠感吟不啻、取敢へずおかへしの心を
窓近く君がおくりし竹うゑて こもれる千代のなかにすまばや
供一覧、余事拝青を期、御礼可申上候、草々拝復
七月五日朝 椿山荘朋頓首
高橋賢兄侍史
この書簡中の「窓近く君がおくりし竹うゑて」の一首は、椿山歌集編集者もその歌集の中に加えられたほどで、公爵の詠歌の中でも傑作の部類に属するものだろうと思うが、その後この竹がおおいに繁茂して公爵の清節をしのぶべく古稀庵の庭前の眺めとなっていることは、私にとってまことにこの上ない思い出なのである。
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