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二百四十四  決闘実験談(下)(下巻349頁)(注・上へもどる

 高田君の決闘実験談はいよいよ劇的場面にはいって興味津々たるものがあったが、つづいて要所のみ叙述することにしよう。
 「今度の決闘は、双方、形式だけに止め、弾丸を空中に放って散会しよう、と申し込まれたので、私はこれに感じて、短銃を手にし、まず先方の様子を見ると、もはや決闘を実行する決心がないので、先方の銃先が当方に向かっていることだけは見えても、相手の身体がちらちらして、はっきり私に見えなかったのは、かかる場合に度胸の据わらぬためでありましょう。
 さて号令がかかったので、私は約束通り、空中に向かって打ち放したところが、相手は真剣に私を狙ったものとみえ、弾丸が私のかぶっていた高帽子を打ち貫いて、はるか後ろに射飛ばしたのであります。そこでその帽子を取り上げてみると、弾丸が私の頭より五分(注・一分は約3ミリ)ばかり上をかすっていたので、まことに危険なことでありましたが、私の方の立会人は非常にこれを憤慨し、かかる場合には、こちらから決闘を取り消すことができるが、いかにしたものだろうかと私に尋ねますから、私はまだ弾丸が二回分残っているから、最後まで試みることにしようとて、今度は私も狙いをつけて打ちましたが、私の弾丸は外れて当たらず、かつ、私がまだ決闘に慣れず、左の手を広げていたため、相手の弾丸が私の腕を打ち貫きましたが、幸い骨に掛からなかったので、格別の傷ではなかったのであります。
 よって、さっそくその傷を包帯して、第三回目の勝負となりました。
 私はすでに二回まで、危ないところを打たれておりますので、この度は十分覚悟をしたものとみえ、先方の姿が分明に見えて、さらに(注・全く)怖るる心がなかったのはいよいよ度胸が据わったのでありましょう。
 しかして最後の仕合は、先方の弾丸は私に当たらず、私の弾丸は見事に先方の肺部を打ち貫いたのであります。
 このとき、先方が真倒【まっさかさま】にひっくり返ったの見て、私もまた、後ろにどうと倒れて腰が抜けたというのでありましょうか、いかにしても立つことができませぬ。また手にした短銃を自分で離そうと思っても指が利かず、これを離すことができませぬので、介添え人が私の指を揉んで短銃を離し、腰が抜けて歩けないので二人に助けられて現場を引き上げたという始末で、実にお恥ずかしい話でありますが、これは実際の話であります。
 しかるに、先方のオルフという男が、私に面会したいというので、彼が倒れて居るところに行ってみますと、肺部より泡が立って、呼吸するごとに、血がブクブクと流れ出るので、まことに気の毒に感じました。そのとき彼は、この度のことは、私がまことに悪いのであるから、学校やその他の人々には何卒秘密にしてもらいたいと言わるるので、私は、日本人はさような卑怯なことは致さぬ、決して他言は致さぬ、と言って引き取りましたが、この噂が他の人々から洩れたとみえ新聞などに書きたてられたので、彼は即日学校より免職せられ、二週間ばかりたって傷所も癒えたとか言って、アメリカに渡ろうとしたその船中で吐血して死んだということであります。
 同時に先方の立会人二人も卑怯の振る舞いをしたという評判が立ってドイツにいることができず、やはりアメリカへ逃げ出したということであります。
 ドイツの政府では決闘を禁じておりますが、その実は内々奨励して居るので、決闘した者は形式上、五日間牢に入れられますが、皇帝がさっそく特赦するという慣例で、ドイツでは士気を鼓舞するという方法としてこの決闘を奨励するのであります。
 そこで私は牢に入るべきところでありましたが、この時の日本公使は子爵青木周蔵氏で、私が決闘したというので、日本人はかくのごときものであるとして、しきりにドイツ人に自慢したような次第で、公使より皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に申し上げて牢にも入らずに済みましたが、その後私はドイツにおいて非常な尊敬を受け、上級の学生でも私に会えば帽子を脱いで挨拶するというありさまでした。
 ドイツ人の決闘は、多くは長くて薄っぺらな剣をもって闘い、決闘倶楽部というものが諸処(注・しょしょ=あちらこちら)にあって、申し合わせて決闘をなし、面部に数か所の疵を受けて居る者が婦人連にもてはやさるるという始末である。ドイツは、かくのごとき蛮的武勇を奨励して戦争の準備をなしたわけでありますが、今後この種の武勇奨励が、ながくドイツ国に継続すべしや否やは未知数であります。」


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