二百四十二 水国飛将軍(下巻342頁)
高田釜吉君が、ドイツじこみの狩猟に堪能で、空を翔ける鳥や地を走る獣、水を泳ぐ魚を、小銃、半弓、投槍、手裏剣、投網、銛などで狙撃すると百発百中の腕前であると聞き、大正八(1919)年四月十三日に君の国分寺別荘でその技量を実見した。(注・240「超人的手裏剣」を参照のこと)すると、それが聞きしにまさる腕前なので、私は君に、「大正養由基(注・養由基は楚国の弓の名手)」の称号を奉り、無上の敬意を表した。
それからわずか一か月後の同年五月十七日に、君は、三井養之助君を荒川の鯉猟に案内され、私にも同遊を勧めてくれたので、私にとってはまさに願ったり叶ったりで大喜びでその日を待ち受けた。
当日の待合に決めてあった向島の香浮園に出向くと、当園の女将は、かつて新橋の花柳国におり、わが国開闢以来の指折りの名妓と謳われた清香の、成れの果てと言っては失敬かもしれないが、当時は伊井容峰の恋女房となって香浮園の経営にあたっているのは彼女であったので、この待合の並々ならぬ飾り付けには高田君も非常に苦心したようで、床に掛けてある文晁(注・谷文晁)と抱一(注・酒井抱一)の合作の一軸は、文晁の庵室のかたわらに一本柳を描き、その柳の枝にぶらさげてある短冊に、抱一が、
傘【からかさ】に柳をわくる庵かな
という一句をしたためたものだった。これは、生粋の江戸趣味を発揮したのもので、憎らしいまでに、よくこの待合に当てはまっているのだった。
こうして、午後三時くらいかと思われるころ、香浮園の裏手の繋船場に出て、屋形船一艘と曳舟用のモーターボートそして網船の各一艘に乗り移り、曳舟はポッポッと音を立てて上流にさかのぼった。千住の大橋の下を潜り、十数丁(注・一丁=一町は約109メートル)上手にいたると、右岸は蒹葭菰蒲(注・水辺の植物)が一帯に生い茂り、左岸は榛(注・はしばみ。カバノキ科)の林が空を覆い、見渡す限りの新緑が入り交じり、水国の風光は清快限りなかった。流れの上手から下手に向かって、約千尺(注・約300メートル。一尺は約30センチ)ほどの麻糸に五、六尺ずつの間隔で、高田流一子相伝の香餌をつけた釣り針を垂らしておいたものを上流から順番に手繰って調べてみると、二、三寸から、大きいものでは五寸ほどの鯉がその釣り針に掛かって水際で溌剌として跳ね回っているのを手網ですくい取っていく。そして、千尺の糸を引き上げ終わったときには、十六匹の鯉が掛かっていた。
そこまではそれほど驚くほどでもなかったが、さてそれからが高田君の離れ技を見せてくれるところで、今度は銛で水中の魚を刺すところ御覧にいれよう、ということになった。長さ四尺(注・約120センチ)ほどの樫棒の下の端に、長い菅糸(注・すがいと。生糸を練る前の状態の一本のままの糸)をつけた銛をはめて、蓋と底の両方にガラスを張った、縦が七、八寸で横一尺ほどの長方形の箱の半分を水中に入れ、そのガラスごしに川底を覗き込むのだが、この日は雨のあとで河の水がやや濁っており、私たちには一尺以下でさえ見分けられないのに、君のそのガラス箱をとおして八尺くらいの水底をはっきりと見ることができるそうで、左手にこの箱を持ち、右手で銛の柄を持ちながら、舷(注・げん。船の側面)に寄ってしばらく水底を眺めていたが、やがて狙いを定めて銛を突きさすと、はたして手応えがあったようだった。まず銛から外れて浮き上がってきた樫棒を納め、刺した魚を菅糸で手繰りあげると、獲物はすこぶる大きな魚だった。簡単には引き上げられないのを徐々に引き寄せて、手綱ですくい上げてみると、銛が五寸ほどの大鯉の背中を斜めに突き通しているという手練れの見事さなのであった。手裏剣で飛び立つ鶉をしとめるのと同様に人間業とは思われず、私たちは驚嘆のあまり、そのみごとな命中をヤンヤと賞嘆してやまなかった。
高田君の演技は、この離れ技でもまだあきたらないもののようで、今度はその一番得意だという投網の実演を私たちに見せてくれることになった。
投網に取り掛かろうとして、洋服の上に黒いゴム(原文「護謨」)製の筒袖着を着け、下にはやはりゴム製の茶色いズボンをはいて、海水浴用の大編み笠をあみだ(注・前をあげて阿弥陀の後光のように)にかぶり、投網を持って船の舳(注・へさき)に立っている武者ぶりを、三井養之助君は、例の諧謔によって曾我廼家(注・曾我廼家五郎か)の太田道灌に見立てたが、敵ながらあっぱれ、と言いたいくらいの適評であった。
投網の打ち方については高田君一流の工夫があって、普通より少し高めに網を上げて、腰の呼吸でエイヤッと投げ入れる。その網は、あらん限りに広く四角く広がって水中に落ちていったが、これは長年の手練れで、当日高田君の幕僚として船中に同伴していた築地の網屋藤兵衛、すなわち網藤老人も、ただいまの網は、まことによく打てましたな、と感嘆の声を発したほどだった。
こうして水国の余興が続く間に、暮色は蒼然として川面をおおい、腹には北山時雨(注・きたやましぐれ。空腹のこと)を催してきた。すると水国の飛将軍は、たちまち船中の大膳頭(注・料理長)となって、鯉こく、すっぽん汁、手長海老の天ぷらなどが、所狭しと運び出され、近来無類の御馳走となった。
折柄、旧暦の十八日の月も昇ってきて、江上は一層の眺めになり、舳艫相ふくんで(注・じぐろあいふくんで=多くの船が続いて進むこと)そろそろと川をくだった。
やがて香浮園に帰り着くと、ここにもまた、茶目っ気あふれる主人の風流が現れて、床に掛けられた頼山陽の半切には、
打魚航去入菰蒲 昏黒帰来網不虚 溌剌満籃飛不定 挙灯難弁是何魚
という七絶があった。
今日の趣向も、どうやらこの一軸から割り出されたのではないかとさえ感じられたものだから、私は帰宅後に、それに和韻して、礼状とともに次の一首を高田君に贈ったのである。
風弄軽柔入緑蒲 我心縹渺欲凌虚 依稀移得泰准景 画舫掲簾観打魚
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「箒のあと」242 水国飛将軍
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