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二百四十一  蛙の行列(下巻339頁)


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 大正七(1918)年の成金現象としては道具入札市場も空前の盛況を示した。書画、什器はもちろんのこと、金具、根付、緒締(注・印籠と根付などを結ぶ二本の紐を通し、印籠などの蓋があかないようにする留め玉)などの、いわゆる袋物の類も値段が倍化した。その名品にいたっては、娘一人に婿八人の引く手あまたのありさまだった。
 平岡吟舟翁は、長年袋物を取集する趣味(原文「癖」)を持ち、この世界の珍品という珍品はたいてい翁の手中に納まっていたため、袋物商は日々翁のもとに詰めかけ、さかんにお払い下げを嘆願していた。
 そのころ大流行していた加納夏雄の作品の中で天下一品とされていた「蛙の行列」は、細長い金具の表に十五匹の蛙が彫られ、裏座に御婆子(注・オオバコ。別名ガエルッパ、ゲーロッパ、オンバコ。弱ったカエルをこの葉陰におくと元気になるという俗説からカエルバともいう)の葉をあしらい、裏座止めに一匹の蛙を置き、全部で十六匹の蛙が大名行列をなすという図案である。
 夏雄はその意匠を、鳥羽僧正の動物絵巻物(注・鳥獣戯画)から借りてきたものとおぼしく、オオバコの葉で作られた駕籠に乗っている親蛙を中心にして、タンポポ(原文「蒲公英」)、オオバコなど、さまざまな草花を、槍や馬印(注・うまじるし。武将のいる場所を示すための装飾物をつけた棹など)とした同勢が、ぞろぞろと練りゆく姿を、赤銅や、素銅、金銀、四分一(注・しぶいち。銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金)などのさまざまな金属材に彫刻してある彩色配合の妙は得も言われないもので、夏雄がこれを製作したときには、いかに苦心を費やしただろうかということがよくわかる。つまりは、夏雄作の金具のうちの白眉といえるものであるから、たとえほうぼうから懇望されたからといって、翁は簡単に手放すことはなかったのだった。
 しかし、京都の道具商である林新兵衛の子、政次郎が、近江八幡の大家である浅見氏(注・実業家浅見又造の子孫か)の依頼を受け、一万円でぜひともこれを譲り受けたいという申し込みがあったとき、父の代からの出入りの道具商でもあり、またこの青年のために花を持たせてやろうという思いやりもあって、翁もついにこれを手放すことを決心したのである。
 この金具はまさに天下一品の品であったので、いたるところで大手を振って、なんびとにも土下座をさせなくてはいけない、ということで、紙片に即座に書きつけて渡された端唄は、次のようなものだった。

    天下御免の行列が、お江戸を立って、上方へ、行く先々は、下に居ろ。

 こうして、政次郎はこの蛙の行列を得て、同業の先輩さえも舌を巻いた光栄を祝うために、新旧の所有主をはじめ、その他の袋物を趣味とする連中を招いて、一夕、この金具披露会を催すことにした。それにあたり、私に「蛙の行列」という歌詞を注文されたので、私は、吟舟翁の次のような端唄を土台にして、さっそく新曲を物した。その文句の中では、蛙の言い分として、

  わしがししをば、何と見た、おありがたやのお婆さん、蓮のうてなにころげ出た、釈迦の涙と手を合す。

という一節があるので、その披露会を釈迦降誕の四月八日(注・翌年の大正8年)に決め、蛙に縁のある三十間堀の某旗亭(注・料理屋。会場は「蜂龍」だった。)を会場とし、会の名を観蛙会と名づけた。そして新旧の所有主のほかに、岡田雨香、今村繁蔵、戸田音一、伊丹揚山ほか、袋物屋連中の数名を加え、行列の蛙の数と同じく、来客を十六人にとした。 さて当夜は、会場の床には、潅仏会(注・かんぶつえ。釈迦の誕生日に甘茶などを釈迦仏像の頭頂から注ぐ法会)の花見堂が安置され、中に、かの蛙の行列金具を陳列し、鳥羽僧正の蛙の合戦絵巻の一部を写した献立書には、蛙に縁のある川や池に産した料理の献立が列記された。水菓子に蛙卵とあるのは何かと思えば、葡萄の実をひとつもぎとって、これをおたまじゃくしに見立てるなど、ずいぶん奇抜な意匠のものもあった。
 さて、この観蛙会の余興は食前食後にわたり珍芸がいろいろあったが、真っ先にあったのは柳家小さんの素人芝居と、蛙が青大将に恐れ入る落語の一席で、次は、猫八(注・江戸家猫八)の物まね鳥獣虫類の声色で、各種の蛙の鳴き分けから多数の蛙合戦の喧騒乱雑の状態を活写する頃には、一座は蛙気分に包まれた。
 こうして余興が進むうちに、つぎの間に掛け渡されていた踊り舞台の引幕が両側に開かれた。すると当夜の主人である政次郎が常磐津地語の首席に座り、老妓連中をワキ、ツレにして、「忍夜孝事寄」(注・しのびよるこうにことよせ)、すなわち平親王将門の娘、滝夜叉の一曲を語り出し、まず来客の度肝を抜いた。
 光国(注・朝廷から滝夜叉姫の成敗を命じられた大宅太郎光国)と滝夜叉の大立ち回りになったとき、張り子の大蝦蟇が舞台に飛び出し、相馬錦の旗を両人で引っ張るという見得を切ると、その旗には一万両の文字がありありと現れるという趣向などは、さすがに凝りに凝った思い付きであった。
 さてその次は、いよいよ新曲の蛙踊りだった。雛妓十五人が子蛙になり、親蛙一匹がその中央に立って統率するというものだ。髪は天平式の双髻(注・そうけい。髻=もとどりがふたつある)で、衣服も天平時代のもので、上に色衣詰袖の服を着け、下に袴をはいていた。五彩燦爛の(注・色彩豊かであでやかな)、見目麗しい(原文「辺り目映き」)十六人の蛙姫が、まず舞台に平伏し、いっせいにヒョコヒョコと這い出し、四人一組、八人一組、文句に応じてさまざまな手振りをする。そして最後には十六匹がいっせいに総踊りをして幕となるという面白さで、まったくのところ、春宵一刻値千金(注・蘇軾「春夜詩」から)ともいうべき朧月夜に、粋客が一堂に会したこの会のことを今日振り返ってみると、ほとんど隔世の感を覚えざるを得ない。
 畢竟(注・つまるところ)、成金時代の好景気を反映する一喜劇として、当時の世相を知る一端ともなると思われるので、ナンセンスな蛙物語を、くどくど書き連ねた次第だ。




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