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 二百三十九   
露国舞踏家スミルノワ
(下巻
331
頁)

 欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余響は、日本の財界、政界に予想外の反応を呈し、ものごとの多くの場面に「福徳の百年目(注・めったにおとずれない幸運)」とでもいうような吉祥をもたらしたが、芸術方面においてもまた思いがけない収穫があった。それは、英、仏、露、独、伊の諸大国が次第に持久戦に入ると、戦争関係以外の事物はほとんど世間から閑却されたので、ふだんのときなら簡単には外に出てこないような第一流の芸術家が、東洋の果てまで流れ流れて日本に来朝するという珍現象が起きたのである。その中で、もっとも私たちを感動させたのは、ロシアの舞踏家、スミルノワ嬢(注・エレナ・スミルノワ)と、イタリアの彫塑家ペシー(注・ペッチ)氏のふたりだった。
 よってまず、ロシアの舞踏家、スミルノワ嬢のことから語ることにしよう。

 エ・スミルノワ嬢は、ロシア帝室劇場(注・マリンスキー劇場)の第一等舞伎(注・プリンシパル)で、後年来朝したパブロワらとともに、ロシアでは最も著名な舞踏家であったという。
 大正五(1916)年、嬢は、補助オ・オブラコワ嬢(注・オリガ・オブラコワ。補助の意味はプリンシパルではないという意味か)、舞踏教師のべ・ロマノフ(注・ボリス・ロマノフ。実際には教師ではなく踊り手のようだ)、ピアニストのワンブルーのほかに一名の一座五人で、わが帝国劇場に出演することになった。
 公演の時間は三時間で十七曲が上演された。そのなかで、ロマノフの演じた「漂流民」についていうと、それは漂流の老人が路傍で憐れみを乞うても、だれも相手をせず、かえって嘲笑する者までいることに失望し、彼はついに反抗心を起こし憤然と立って世を罵るという筋書きだった。その表情の軽妙さに私たちは非常に感動したものだった。
 次はスミルノワ嬢の演じた「瀕死の白鳥」で、波静かな湖上に白鳥が悠々と遊んでいたところを猟夫に突然射られてその心臓を貫かれると、その白鳥は断末魔の苦悩を見せながら最後に静かなる眠りにつく、という一曲であった。これは、その後パプロワその他の舞踏家によって、またかというほどたびたび繰り返されたが、私は最初に見物したためか、その姿勢や表情が真に迫っており最も深い感動を与えたのはこの人ではないかと思った。
 スミルノワ嬢は当時二十六歳で、小柄で細面で、それほど美人というわけではないが、表情に限りない妙味があり、私としては、欧州諸国に大名をとどろかせた、あのパプロワなどよりも、かえって深い印象を感じたものだ。今一度見物したいものだと思っていたが、ついに再びやってくることはなかった。
 あのような舞踏家を日本にいながらにして見物する機会を持つことができたのは、すべて世界大戦の余といってもよいのではないかと思う。
 


伊国彫塑家ペシー氏(注・
Pecci
ペッチをペシーと読んでしまったものだろう)(下巻333頁)
 
 イタリアの彫塑家ペシー氏が、大正六(
1917
)年ごろ、しばらく日本に来遊し、山県元帥はじめとする数名の塑像を製作したのもまた、欧州大戦の結果、彼らの仕事が閑散になってしまったためであろう。

 ペシー氏は、イタリアの有名な彫塑家で、以前、イギリスのキッチナー元帥の肖像懸賞募集があったときに、その選に入ったこともある。
 これはよい機会であるということで、藤田平太郎男爵は、彼に山県元帥の胸像を製作してもらおうと、元帥にモデルになる同意を取り付けた。ペシーは、朝早くから、東京から小田原に出張し、三時間から四時間、塑像の製作に従事するということが約一週間にわたって行われたという。
 そのときの山県元帥の感想についての直話は、次のようなものである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「藤田より熱心に勧誘せられて、自分もとうとうペシーの望み通りモデルになることを承知したが、一、二度座ればよいというのが、一日三、四時間ずつ、一週間も継続したので、中ほどからたまらなくなって、御免蒙ると言い出したところが、枢密顧問官、安広伴一郎が監督かたがた出張してきて、仕掛けたからには、どうでも仕遂げなくてはならぬというので、とうとう辛抱して、このほどようやく期満免除となった、自分は最初椅子に倚(注・よ)って、謹直に控えていたが、あまり退屈なので、人と談話してもよいかと聞けば、更に(注・いっこうに)差し支えないというので、毎日安広を呼び出して、雑談をなしつつ退屈を忍んでいたが、だんだん彼の話をきいてみると、さすがに世界的の人らしく、およそ人の肖像を作るには、長時間これに接して、よくその精神を会得し、形似のほかに、気韻(注・品格、気品)を写し出さなくてはならぬので、自然、時日を要することとなるのだという。彼がある人に語ったというを聞くに、自分の頤の辺の骨格は、人の頭梁として部下を愛撫する骨相を備えており、また、目はドイツのカイゼル(注・ヴィルヘルム2世)、とすこぶる類似するところがあるとのことである。これはよいのか悪いのか自分には一向わからないが、世界的彫塑家となるには、骨相学上にも相当の心得がなくてはならぬのであろう云々」

 このペシー作の山県元帥塑像は、大正十二(1923)年の震火災(注・関東大震災)で焼失したが、ペシーは当時、同像を二個作り、一個は某氏が所蔵しているということを山県家が聞き込んで、その後この像を山県家が買収し、陸軍戸山学校に寄進されたそうである。
 とにかくペシーが日本にその作品を遺すことになったのは、欧州大戦の余といってもよいだろう。


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