二百三十八 虎肉試食会(下巻328頁)
大正中期に、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余波で雨後のたけのこのように続出した成金連中には、「槿花一日の栄(注・きんかいちじつのえい。栄華がはかないこと」)というように一盛一衰が激しく、得意の頂点から失意のどん底に落ち込んだ者も少なくない。「貨悖(注・もと)って入る者は、また悖って出ず(注・道にはずれて手に入れた財貨は、また道にそむいて出ていくものだ。「大学」より)の諺にたがわず、栄枯があまりにも急激であり、ほとんど滑稽というしかない者もなくはなかったのである。
中でも、一時は「虎大尽」の異名を取って有名になった船成金の山本唯三郎氏などは、そのもっともよい見本というべきだろう。
山本氏は、風雲の会(注・龍が風と雲を得て天に昇るように英雄が願望をかなえる好機)に乗じて成金大尽の急先鋒となるや、征虎隊を組織して朝鮮に押し渡り、咸鏡道(注・かんきょうどう)その他の地方において、さかんに虎狩りを催した。
また、その獲物をはく製にして持ち帰っただけでなく、世にも珍しい虎肉試食会なるものを帝国ホテルで開き、朝野知名の紳士を招待したのである。
当夜の来会者は、約二百人で、田逓相(注・田健治郎逓信大臣)、仲小路農相(注・仲小路廉なかしょうじれん農務大臣、原文「中小路」)、清浦、末松両枢密顧問官、神尾大将(注・神尾光臣陸軍大将)、その他の実業家、新聞記者などであった。
待合室から食堂に通じる廊下を竹やぶにして、岩石の間から猛虎が踊り出さんという演出にし、獲物である猛獣のはく製を陳列してあった。それは、全羅道の水虎、咸鏡道の岳羊、弥巴里【やはり】の獐(注・のろ)、永起の豹、金剛山の熊などであったが、食堂の正面に余興の舞台を造り、その両側に、片側には利原の虎、もう片側にはタンシンの虎と北青の豺(注・ぬくで)を飾られた。
そのぬくでなるものは、大きさも形も狐に類し、眼光は金のようにピカピカで、口は耳まで裂けて、犀利な(注・鋭い)相貌で、性質もまたとても獰猛だということだ。
当夜の晩餐の献立は、次のとおり。
咸南虎冷肉ニコミ、トマトケチヤツプ、マリ子(注・マリネ)
永興鷹スープ
釜山鯛洋酒むし 注汁
北青岳羊油煎 野菜添
高原猪肉ロース、クランベリーソース、サラダ
アイスクリーム 小菓子
果物 コーヒー
虎肉は、今夕の目玉の御馳走だったが、その肉は固くぼろぼろとして、日にちが経っていたためか、または本来の特性のためか臭気がきつく、もちろん賞美できるものではなく、ただ珍しいから試しに一口というだけだった。
こうして食事が終わると、山本隊長が猛虎のごとき大声で挨拶された。そのなかに、「昔は虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということでありますが、今度私等が組織した征虎隊は、山中を狩り歩いたばかりで、しかも幾頭の虎親を獲たので、まことに幸運でありました。なお、この虎狩中にひとつの処世訓を得たのは、虎を獲んとするには、武器よりも何よりも胆力が一番必要なることである。虎が堂々と進み来たるところを待ち受けて、その目を睨み詰め、間近に近寄りたる時、発砲するのが虎狩の秘伝で、もしこの胆力がなくして、虎を見て狼狽するようなことがあれば、虎の乗ずるところとなって、たちまち失敗に終わるのであるが、人事においてもまた、これに類するものがあろうと思う。また加藤清正の虎退治時代には、日本より外国に出かけて、外国の虎を打ちとめたのであるが、今や朝鮮も日本の版図に帰して、私はわが領土内において虎狩をしたのであるから、昔より虎伏す野辺と云いし、その野辺も、自国の領土なるかと思い、自ずから大国人となったような気分を生じ、進取の念が勃念と湧き起こってきましたから、今後は一層、向上発展するつもりであります」などと述べられた。
そのとき、座中の大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)男爵が、ここで一吟なかるべからずとばかりに、高らかに次のような歌を詠みあげた。
虎の肉賞玩のひと二人あり 曽我の十郎富士の山本
このとき末松謙澄子爵は
「ただ今、大倉男のお説では、虎肉賞玩者は古来天下唯二人なりということであるが、今晩は主人の好意により、われわれ一同みなその賞玩者の仲間となりたれば、
誰も彼も皆な祐成(注・すけなり。曽我十郎のこと)となりすまし 試しにけりな虎の初味
というべきであろうと思うが如何」と披露したので、一座はいよいよ悦に入り、喝采鳴りやまなかった。
こうして、最後に田逓相が来賓を代表して、「加藤清正の虎狩は、三百年後の今日まで錦絵となり講談となり、わが同胞に勇壮なる教訓を与えているから、今度山本氏の征虎隊も、古人の遺烈を継承して、大いに現代の惰眠を覚醒することであろう。また初物を食べれば、七十五日くらいは生きのびるであろう」など、諧謔まじりの挨拶を述べ、前代未聞の虎肉試食会を終わったのであった。
この会なども、成金時代の一挿話として後代の語り草として残るにちがいないものだ。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント