二百三十六 越路太夫芸談(下)(下巻320頁)(上へもどる・中へもどる)
越路太夫が浄瑠璃一段を語る間に、従来、十回くらい湯を呑んでいたのを全廃して、万一の用心のために湯飲みだけは備えておくが大曲を一段語るのにほとんど一滴も湯を呑まなかったことは、彼の晩年の浄瑠璃を聞いた人々はみな知っていることだが、彼がその演芸中に湯を呑まないことにした動機について、さらに語ったことは次のようなものであった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた)
「片岡仁左衛門は伊勢音頭の貢を演じ、五人目までは人がよく斬れたが、六人目に至りて、うまく斬れなかったと評されたので、おおいに工夫を凝らしたそうでありますが、彼が六人目で斬り損ないを致したのは、五人まで斬って息が続かぬところより、衝立の陰にかくれて出てくる人を待つようなふりをして、内々湯を取り寄せて、一口飲んで再び立ち上がって六人目を斬ったのであるが、その湯を呑んでいる間に張り切った気が抜け去って本当の気合が掛からなかったがため、その失態を演じたのだということであります。
ところで私はこの話をきいて、おおいに感ずるところがありましたので、一段の浄瑠璃を語るのに、たとえ声がかすれようが、のどが疲れようが、湯を呑まずに語れぬことはない、途中で湯を呑んでいると自然に気合が抜けるであろうと考えまして、最初舞台へ出る前に充分に用意しておいて、あとは一切湯を呑まずに語り出したところが、慣れて参る間に、これがかえって語りよく、のどぐあいも非常によくなってまいりましたのは、実に不思議のようであります。
昨年東京に参ったときにも、私は湯を呑まなかったので、あるお客さんが、越路は一段の間に湯を呑まぬ、いや、そんなはずはないと申して、賭けをなされたそうでありますが、私が湯を呑まなかったので、とうとう、一方のお客さんが、百円の損失をこうむったとて、その後私に対しておおいに小言を言われたことがありました。
大阪の名物、文楽座は、私共の芸術道場でありますから、損益問題を別にして、真の稽古場として、是非ともこれを保存したいと思います。この道場がなくては、弟子を養成することもできず、またここで、ふだん声を出しておりませぬと、東京などへ参って広い場所で語りこなすことができませぬ。
東京で一番語りよいのは、新富座であります。これは、一番古い舞台でありますので、語り宜くできております。次が歌舞伎座【焼失前】で、一番語り苦いのは帝国劇場であります。
帝国劇場は、声が正面に打突かるところがないためか、三階のほうへ抜けてしまって、高いところで聞く方が、かえってよく聴き取れるそうでありますが、語る者のためには、まことに工合が悪いようであります。
文楽(注・文楽座)は、専門の舞台としては甚だ工合が悪くできておりますが、私共の座って居る演台の下には甕二つを埋めてありますので、どうやら語っていくことができるのであります。
兎角、芸道は、下へ下へと下がっていくような心地がいたしまして、私共のほうも、前申すごとくでありますが、人形使いのほうもまた、旧のごとくには参りませぬ。
先代の玉造(注・吉田玉造)などは、八十まで人形を使っておりましたが、これは大人形を片手に持って、高い下駄をはいて、しかも、今日のごとく人形の足を下に下げずに、自分の頭が隠れるようにできていたので、これを補助する二人の者が、常に引き上げらるるようになっておりましたが、これは多年の熟練で、十分腰に力がなくては、なかなか支え切れるものではありませぬ。
現今では、黒頭巾をかぶらずに人形を使う者もありますが、これは見物の方から見て、人形の顔と重なり合い、まことに見苦しいものでありますので、私は次回、紙治を演ずる時には、是非とも黒頭巾をかぶせて、使わせようと思っております。
人形使いもなかなか難儀な役でありまして、これもよほど保護しなければ、あとが絶えてしまいますから、大阪名物として、大阪紳士の力をもって、文楽だけは、是非とも保存していただきたいと希望しております。」
越路は、体格が頑丈な作りで、いつも活気あふれるような、野太い声で、滔々とよく談じるところから、一見して重鎮のひとりとしてふさわしい人物であると納得できるのであるが、その特徴は、のどが非常に太いということである。このような太筒の持ち主なので、上演の長い時間にわたって、あのような音声を継続することができるにちがいないと思われた。
さて、彼には隠し芸がある。それは、彼一流の舞踏で、相手さえいれば、徹夜も厭わないというほどの熱心さなので、かなりまいらされた人たちもあったようである。しかし、彼にしてみれば、本業の芸にとって、なんらか資するところがあったに違いない。
とにかく、近代の名人であることに間違いはなく、私は、彼がこの世界の最後を飾ることになる一人とならなければよいのだがと、心中はなはだ懸念をしている次第なのである。
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