【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百三十五  越路太夫芸談(中)(下巻317頁)(上にもどる

 故越路太夫(注・竹本越路大夫)は浄瑠璃の巧者であったほかに、一流の大将株にもなれるような頭のよく働いた男だった。本領の芸術に対しても、ふだん自覚しているところが、ありふれた世間の芸人とはかなり趣を異にしていた。彼が滔々として話し去り、話し来たる芸談の中には、さらに次のような一節もあった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「私の師匠、摂津大掾(注・竹本せっつだいじょう)は、明治十年に没した、春太夫(注・竹本はるたゆう)と申す有名な太夫の弟子であります。春太夫も近代の名人で、その語り口には学ぶべきところが多々ありまし。摂津大掾は、御承知のごとく非常な美声でありまして、中将姫(注・近松作「当麻中将姫」)、新口村(注・にのくちむら。「冥途の飛脚」その改作「傾城恋飛脚」などの最終段)、先代萩(注・伽羅(めいぼく)先代萩。原文では「千代萩」)の三つを得意とし、これは到底、他人の追従を許しませぬが、その声のよいだけに、梅川や忠兵衛(注・冥途の飛脚の恋仲の二人)はよく語っても、孫右衛門(注・忠兵衛の父親)の方は晩年まで不得意でありました。
 ところが年寄って、例の美声が出なくなってから、はじめて孫右衛門が上手に語れるようになったので、とかく、老人物は老人が語るべきもので、真似事では妙所に入ることができなかろうと思われます。
 ゆえに、芸はただ、師匠をまねるのみでは、いわゆる底力がありませんから、人を感動せしむることができません。鍛錬に鍛錬を加えて、自然に腹の中から出てくる芸でなければ、奥ゆかしい光が出てこないのであります。
 つまり、師匠のよいところを習い覚え、それに自身の工夫を加えて、自身のものにして語る間に、だんだんと苔が生えたり、寂が付いたりして、師匠は師匠、自分は自分と、変わった浄瑠璃ができるのであります。
 私は来月、文楽(注・文楽座)で紙治(注・かみじ。紙屋治兵衛(かみやじへえ)の略。浄瑠璃「心中天の網島」の通称)を語ろうと思いますが、紙治は、御承知のとおり、近松門左衛門の作でありまして、その後、近松半二が書き直し、また、後になっていろいろ改作が加わり、例の炬燵の段などが出てきたのでありますが、私は今度、近松書き下ろしの紙治を語ってみようと思います。
 そこで義太夫は、人情を人に聞かせるものでありますから、文句のわかることが大切であります。いかに上手に語っても、文句がわからんでは、意味が通じませぬから、非常にその効果を減ずるものであります。私の方のことわざに、「語れ語るな心素直に」と申してありますが、文句が十分にわかって、無理のないように語るには、心素直に語ることがもっとも必要でありまして、義太夫を語るときには、心にわだかまりのないことが必要であります。
 ところで、私などは、少しく自分勝手であるかもしれませぬが、浄瑠璃を語る前に、何か気に障るようなことでも起こると、必ず思うように語れませぬから、家内などにも、申し聞け、浄瑠璃語りの女房は、亭主の機嫌を取るのが必要で、演芸の前には、別して(注・特に)亭主の機嫌のよいようにするのが、その義務である、と申しておりますが、むしゃくしゃした時には、決して素直に語れるものではありませぬ。
 例えば、先刻お聞きに達しました太功記十段目でも、はじめの「一間に入りにけり」と申す一句の出がうまくまいりませぬと、全曲を通じて工合が悪く、到底途中でこれを取り返すことはできないのであります。
 私は昨今、別して、のどの工合がよくなりまして、滅多に声を痛めることがないようになりましたが、義太夫語りは、のどが身上で、声が悪くては、どうにもこうにもなりませぬ。そこで、私が近頃のどの工合がよくなったのは、演芸中に湯を呑むことをやめたのが、ひとつの原因だろうと思います。私も近頃まで、一段の浄瑠璃を語るのに、十回くらい湯を呑んだのであります。

 もっとも、この湯を呑むと申しますのは、がぶがぶと呑むのではなく、ただ唇を湿すがために呑むのでありますが、私は、あるとき、素人の方が、なにげなく語って居らるる話を聞いて、大いに感ずるところがあって、湯を呑むことをやめたのであります。
 その話と申すのは、先々代の片岡仁左衛門だと思いますが、大阪にまだ蔵屋敷のあったころ、伊勢音頭の貢十人斬り(注・「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)三段目で主人公の福岡貢が十人の人を斬る)を演じました、五人目まで斬るのを、蔵屋敷の御贔屓の旦那が桟敷で見て居って、いちいち、よく斬れたと申して、手を叩いておられましたが、六番目の、衝立の陰に隠れておって、そこへ出て参った女中を斬ったときに、それでは斬れぬと申して、不興の体で引き取られたと聞いて、仁左衛門は、すぐにその旦那の宅に参って、今日御見物の六番目中の人が斬れなかったと仰せられたそうでありますが、私も少し考える(ところ)がありますから、明日是非とも御見直しを願いたいと頼んでおいて、翌日よりさらに工夫を凝らしたそうでありますが、その旦那は、翌日も、翌々日も参らず、二、三日隔てて、しかも人の目に立たぬところに参って見ておられましたが、十人斬りが、十人までことごとくよく斬れたと申して、満足して帰られたということであります。」(注・次回につづく)
 


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ