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二百三十四   越路太夫芸談(上)(下巻314頁)

 大正六(1917)年二月二十三日大阪に滞在中だった私は、文楽座において越路太夫(注・竹本越路太夫)の太功記十段目と津太夫(注・竹本津太夫)のお駒才三が、近来めずらしい大入りだということをきいて、同地の磯野良吉、金沢仁兵衛の両氏と午後二時ごろから文楽座に赴いた。
 まず越路のを聴いたが、彼は近来、老熟の域に達したばかりでなく、のどの具合が非常によく、健実な語り口の中に巧妙なる変化を交え、相当にきれいな美音も出ており、「浄瑠璃にかけては、彼の師匠である摂津大掾よりも一段巧者なり」という評判さえあって、この日もまた申し分のない出来栄えだった。
 ところで、磯野、金沢両氏は越路太夫の贔屓客なので、同夕、彼と津太夫を南地富田屋に招き、夕食をともにしながら彼らの芸術談を聴聞することになった。
 聴く方の私たちが熱心なので、語る彼らも興に乗り、越路の雄弁は滔々として三時間にわたった。その話には、私たちを啓発する内容が少なくなかったので、そのなかで、私の耳にとどまっているいくつかを抜摘して、彼の芸風の一斑を、同好者に伝えることにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「私は摂津大掾(注・二代目竹本摂津大掾せっつだいじょう)の弟子で、初名を文字太夫と申しました。私の修業盛りは、今日とは時勢も違って居りまして、師匠が表に出る時は、その人力車を後押しするような始末で、今日の若い者などには、とても辛抱ができぬことであります。近来浄瑠璃を習いにくる弟子どもは、少しく浄瑠璃が分かってくると、すぐに三味線の方を習って、未熟ながらに弟子を取って、まず銭を儲ける算段をいたしますから、到底、本当の浄瑠璃語りにはなれぬのであります。そこで私は大阪の旦那衆に頼み、大阪名物のこの浄瑠璃を根絶させぬよう、学校のようなものをつくり、寄宿舎に弟子を集めて、ここを卒業した者は、むやみに弟子取りをなさず、何年間かの義務年限を定めて、文楽座に出勤せしむる方法を立ててやる、そのかわり、十年か十五年は、彼らを養成してやるということにしたらば、中には物になる太夫ができるだろうと思って、近頃、折角(注・なんとか)これを旦那衆に頼みこもうと思っております。
 私は三十まで、師匠の供をして、師匠が浄瑠璃を語るときには、必ず湯を汲んで出したものであります。この湯をくんで居る間に、師匠が一生懸命になって語るのを聞き覚えるのが、第一の修業であります。近頃の若い者は、この懸命の師匠の語り口を本気になって聞いていないので、本当の芸を覚えることができないのであります。
 私はただ名人の語り口を聞くばかりでなく、素人旦那方の芸をも、よろこんで聞いておりますが、その語りぶりには人さまざまな特長があって、素人の芸でも、その中に私共の到底真似のできぬものがあります。先般、津太夫が、熊谷陣屋を語ったとき、土居通夫の旦那が、津太夫の熊谷よりも、乃公(注・おれ)のほうがうまいと申されましたが、熊谷その人になって居るという方から申せば、土居の旦那の方が津太夫よりも、確かに優って居るのであります。
 浄瑠璃は他の芸と違い、人情を語り分くるものでありますから、物によっては、相当の年配になって、段々経験を積まなくては、その妙所に達し得ぬもので、五十と六十との間が、本当の浄瑠璃を語れる時代であります。
 さてその経験を積むには、何事にも注意して、思いやりの深いということが肝腎で、往来を歩くにも、うかうかと歩くものではありません。老人子供、人さまざまの風体に気をつけ、他日これを言動に表わすことを工夫しなければなりませぬ。
 私の弟子があるとき、朝顔日記(注・「生写(しょううつし)朝顔日記」)の、かの笑い薬を売るところを語るのに、どんなふうに語ったら宜かろうかと申しますから、私は御霊神社(注・ごりょうじんじゃ)に行って、夜店の物売る声をよく聞いてこいと申したことがあります。朝顔日記のは、かの秋葉より、浜松辺に出てくる薬売りでありますが、御霊辺の夜店で物を売って居るのと、よく似通ったところがありますので、かようなことを、平常注意しておけば、必ず芸道に利用することができるものであります。
 また、弟子の中には、声自慢で、声さえよければ、それで宜いと言う者がありますが、声を自慢するようでは、浄瑠璃を語り得るものではありませぬ。浄瑠璃道においては、「下手に語れ、上手に語るな」と申すことがありまして、ピカピカと声を光らすような者では、まだまだ修業が足らぬのであります。」
 


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