二百三十 薪寺の一夜(下巻298頁)
大正五(1916)年九月二十日私は、その前月に、ある人の紹介で突然私の四谷天馬軒を訪問された城州(注・山城=現在の京都府南部)薪寺の客僧(注・修行で旅をしている僧)、月江僧正の勧誘にしたがい、奈良の道具商の柳生彦蔵を帯同して薪寺を訪問し、その夜、方丈に一泊した。はからずも禅寺の閑寂を味わうことができたことは、私の一生にとり、きわめて物珍しい思い出であるので、ここにその大略を記述することにしよう。
薪寺は、城州綴喜【つづき】郡田辺村字薪(注・たきぎ)にあるので、この名がある。亀山天皇の文永年間(注・13世紀後半の鎌倉時代)に円通大応国師がこの地に建立された霊瑞山妙勝禅寺が、元弘の乱(注・後醍醐天皇を中心とする1330年代の鎌倉幕府倒幕運動)の兵燹(注・へいせん。戦争による火災)で烏有に帰してから、しばらく廃墟となっていたが、国師の法孫である一休和尚が、その遺恩に報いるために開山堂と酬恩庵を建てた。そして和尚が八十二歳のときに、境内に寿塔(注・生前に建てておく塔婆)を造り、軒のひさしに「慈揚」の二字を掲げ、遷化のあとに遺骨をその塔下に埋めたことから世間では一休寺とも呼ばれている。
全体としてこぢんまりした寺院であり、きわめて気の利いた構造であるが、その特色というべき点は、方丈の前の庭園に十六羅漢遊行の形を表した巨巌(注・大きな石)や珍石が羅列されて奇観をなしているところである。
聞くところによると、この庭園は寛永のころ、この地に退隠して黙々庵を結び、茶事風流をもって残年を送った淀藩士、佐河田喜六昌俊が、その雅友であった松花堂昭乗、石山丈山の二人に相談して構築したものだという。ややもすれば俗悪に流れ易い築庭の趣向が、まったくそのような感じを起こさせないところに、布置結構(注・配置のデザイン)の妙があるのだろうと思われた。
さて、九月二十日、奈良から汽車で木津に赴き、そこから大阪桜ノ宮に通じる片町線に乗り換えて田辺駅で下車すると、月江和尚が停車場に出迎えてくださったので、そこから寺までの村道八丁(注・一丁は約109メートル)を歩き山門の入口に到着した。
その突き当りの石階段の上には、一休和尚の手植えといわれる、うっそうと茂る杉の老木が三本ある。甘南備【かみなび】山のふもとということで位置はそれほど高くないが、森閑たる境内は、おのずから人の心神を澄みやかにさせるものがある。
石階段を上りつめて右折すると、その正面が本堂で、むかって右手には一休和尚の墳墓と、元は京都東山にあった虎丘という禅堂があった。
そして、酬恩庵は左手の一段低いところにあったが、庵主は田辺宗晋といって、年の頃は六十五、六歳と思われ、見るからに寡黙で朴実な老僧であった。
私たちは、この日、境内を一覧したのち奈良まで引き返すつもりだったが、宋晋、月江両和尚が、しきりに一宿を勧めてくれるので、生まれてこのかた経験したことのない禅寺の雲水となるのも面白かろうと思い、ついにはその好意を受けることにした。しかしもともと一泊の用意をしていなかったので、柳生とともに老和尚の浴衣を借り受け入浴後に運ばれてきた食膳に向かうと、精進料理の納豆汁、椎茸、油揚げなど、都人(注・みやこびと。都会の人間)には、十にひとつも、のどを通らない御馳走だが、これもまた得難いひとつの経験だった。
夕食後、私たちは宗晋、月江両和尚と夜更けまで対話をしたが、談話の雄は月江和尚であった。和尚は、奇警(注・発想、行動が奇抜)で飄逸であり、しばしば人の頤を解く(注・人を大笑いさせる)ところがあった。ここでそのひとつ、ふたつを紹介するならば、「過日、ある夫人から、禅とはどういうものですかと質問されたので、禅は自分の向かうところに居るものである、と答えた。すると、ならばこれに近づくことはできるのか、というので、そうだ、自分の向かうところに、どこまでも向かっていけは、必ずその禅に近づくことができる、と答えた。禅は無門関(注・無門関は、禅の公案集のことだが、ここでは文字通り門のない関所の意味だろう)である。四通八達、筒抜けにして、当意即妙であり、行くところはどこでも行けないところはない。ある人が、ンとミと書いて、一休和尚に見せたとき、和尚は、そのかたわらに、『月と風と裸体になりて角力(注・すもう)かな』と書きつけられたということだ。」などというような、奇話を連発された。
夜がしんしんと更けてきたから、住職がどこからか借りてきたらしい、せんべい布団にくるまって、寝所にあてられた一室に横たわると、たちまちのうちに黒甜郷裡(注・こくてんきょうり。眠りの世界)の人となったが、このような山寺の気楽さは、障子一重のほかに雨戸も立てないことであり、四更(注・しこう。午前一、二時ごろ)の月あかりが射しこむのにフト目を覚まして廊下に出ると、酬恩庵のひさしのすみに、欠けた月が一痕(注・ひとつ)かかっているという物凄さは、得も言われぬ風情であった。私がもし禅坊主ででもあったならば、釈迦が暁天の明星を見て大悟したように、あるいは豁然(注・かつぜん。突然)として透徹したかも知れないなどと、脳裏に終生忘れ難い印象をとどめることになったので、またしても例の駄作を試みたのだった。
宿薪寺
残宵夢覚寂空廊 鬼気逼人杉樹荒 露冷陰蛩如有咒 一休墓畔月蒼涼
(注・蛩=こおろぎ、咒=まじない)
このほか、数々思い浮かべた拙句の中には、
夜もすがら蟲も経よむ薪寺
というのがあり、また、
古寺の簷端(注・のきば)にすがくささがに(注・蜘蛛)の 絲にかかれる有明の月
というのがあった。
そうこうする間に、夜が白々と明けて、本堂のほうに、かんかんと鳴り響く鉦の音につれ読誦(注・どくじゅ。経を読むこと)の声が、さやかに聞こえ渡ったので、私たちはいつになく早起きして盥嗽(注・かんそう。手を洗い口をすすぐこと)し終えると、すぐに方丈にむかい、一休和尚の木像の前にひざまずいた。
今日は九月二十一日で彼岸の中日にあたっており、また一休和尚の命日だというので、なにやら浅からぬ因縁があるように感じ、朝食後くまなく境内を見てまわり、また佐河田喜六の黙々庵にも立ち寄り、午前十時ごろに辞去した。
今回の所見を詳述しようとするとあまりに煩雑にわたってしまうので、ただ禅寺で一泊した感想だけにとどめることにする。
コメント