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二百二十九   赤星家蔵器処分(下巻294頁)

 赤星鉄馬氏が、大正六(1917)年から三回にわたり先代の弥之助氏の遺品の入札売却を決行したのは、近世の道具移動史上、特筆大書すべき事件であった。
 その入札は、第一回が三百九十万円、第二回が八十九万円で、第三回とあわせて約五百十万円に達した。空前だったのは無論のこと、以後十数年を経て昭和時代にいたってもなお、その半額に達したものがなかったことを見れば、あるいは絶後といってもよいかもしれない。
 この入札がなされた事情について、赤星氏は次のように告白している。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「拙者が今回、所蔵品を売却すべく決心したのは、ほかでもない、亡父弥之助は在世中、道具の取り扱いを厳重にし、老母のほかには、なんびとにも手を触れしめなかったので、老母も非常に苦心していたが、父の没後も、あいかわらず自身一手で取り扱って居るので、かかる骨折りが、いつまで続くべきものでもないと思い、近来、しきりにその処分法を考えてみたが、拙者は道具についてまったく無趣味である。しかし、刀剣だけは愛好するので、ここに、つくづく思い合わさるるのは、心なき者が、刀剣を取り扱って居るのを見ると、拙者は往々、ハラハラして、肝を冷やすことがあるが、道具を愛好する者より見れば、拙者等がこれを取り扱うのは、定めて同様に思わるるであろう。されば、刀剣なり、道具なり、兎角、数寄者に任するにしかず、亡父の遺品も、このうえ長く老母の手を煩わさず、断然これを売却して、世間愛好者の手に渡すのが宜かろうと決心したのである。」
 赤星鉄馬氏は、このような決心をし、親戚であり親友でもあった、樺山愛助のち伯爵君に相談のうえ、三井合名会社理事長の団琢磨男爵に、この道具処分の一切の指揮を委託することになった。しかし団男爵は業務多忙のため、じっさいにその指揮に当たることができないので、私にその宰領の全権を委託されたのである。

 さては私は、このころから「大正名器鑑」の材料の蒐集をしていたので、名器の調査上きわめて好都合であると思い、すぐにその依頼に応じ、東都および京阪の道具商から十三名の札元を選び、前後三回にわたって名品揃いの入札会を挙行した。
 なんといっても、成金景気が勃興しつつあった時期のこと、人気はいやがうえにも引き立ち、仙台伊達家の入札会のときよりさらに一層めぼしい好況を示し、入札価格が八万円以上だったものが、実に次に挙げる十二点に達したのである。

     梁楷筆雪中山水       金二十一万円
     馬鱗筆布袋双福       金十三万一千円
     元信筆全身龍        金十万五千円
     名物猿若茶入        金十万円
     東山御物玉澗筆蘭      金八万七千八百円
     利休尺八花入        金八六千円
     金岡筆那智滝        金八万五千六百円  (注・この現根津美術館蔵の国宝「那智滝図」は、現在は13~14世紀の作品と考えられているが、当時は9世紀の巨勢金岡筆と考えられていた)

     砧青磁管耳花入       金八万三千三百三十六円
     俊頼古今和歌集一巻     金八万二千円
     青井戸茶碗銘こたま     金八万二千円
     行成卿和漢朗詠集二巻    金八万円
     玳玻盞天目茶碗       金八万円

 さて、この赤星家蔵品入札は、いわゆる成金時期の中間で、景気はまだ絶頂に達していなかったが、前途春海のような希望に満ちているときだった。そのため競争の結果、意外な高価を出したものも多く、このときの落札品で、その後入札市場に出て、値段が二、三割方低落したものさえもある。相場の絶頂期ではなかったにせよ、この入札会などは、赤星家にとってはもっともよい時機を得たものであったと思われる。
 この入札会では、稀世の名品を目の前にし、それを争奪しようとする虚々実々の駆け引きが行われ、のちの語り草になるような奇談も少なくない。
 私なども、ザコの魚まじりをしてこの渦中に身を投じ、年来めがけていた猿若茶入を今度こそ買い取り、一生この茶入一品で押し通そう、などという途方もない願望を抱き、京都の土橋、大阪の春海に依頼し、六万円まで入札するようにと申し付けておいた。なのに彼らは、上景気に浮かされて、私に相談もせずに、とうとう九万八千円まで入札してしまった。ところが幸いに、十万円の札があったので、わずか二千円違いで私はかろうじて虎口を免れたのである。(注・このときの落札者は益田鈍翁)
 この茶入であるが、大寂びの茶入で、私の二番札に接近するものはなく、三番札は三万八千円だったというから、私がもし入札しなかったら、この高値には達しなかったはずである。だから、六万円は私のお陰ですよ、と、赤星氏に語って、大笑いしたようなことだった。
 赤星家は、先代弥之助氏が明治二十五(1892)年ごろから名器を買い入れはじめ、ほどなく東都名器収蔵家の巨頭(原文「巨擘(きょはく」)となりすましたのである。買収の時機がよかったので、実のところ安く買って高く売ったという結果になった。
 鉄馬氏は、この入札後、百万円を割いて啓明会というものを組織した。これは毎年の収得を、学芸方面の事業奨励費に利用するというものである。家のためにも世のためにも、いわゆる一挙両得であり、道具処分において、まことによく有終の美をなしたものではないかと思う。


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