二百二十八 秋山真之将軍(下巻290頁)
日露戦争のとき東郷司令官の幕僚として、三笠艦上で、あの「舷々相摩す」の名文報告を作り、その名がたちまちにして当代に響き渡った秋山真之将軍は伊予松山の出身で、兄に好古将軍がいる。
頭脳明晰で、武略とともに文才を兼ね、第一艦隊付きの参謀としての画策がよく図に当たり対露軍略において貢献するところが非常に多かったことは、後年、当時の参謀官であった島村速雄将軍が極力賞揚しておられた証言を見ても、その一端を知ることができる。
私は秋山将軍と、二、三度対話したことがあるが、その最初は交詢社で初見の際に、「僕は茶のことは一切分からぬが、文章が面白いので君の茶会記は始終愛読して居るよ」と言われたときで、私はその知己の言葉に感激したものだった。
さて大正五(1916)年十二月、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の戦況視察を終えて帰国された将軍が同気倶楽部(注・築地にあった会館か)で行った視察談は、単に当時の戦況を正視していたばかりでなく、その後の形勢をも予断していた。滞りなく肯綮にあたり(注・こうけいにあたり。本質をついていること)、今日から振りかえって、その先見に感服することが多々あるので、ここにその一節を示したい。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「ドイツが今度の戦争を惹起したのは、近時、かの国の哲学者が、しきりに自我主義を唱え出したのを、カイゼルはじめ、ドイツ国民が共鳴して、ドイツは世界を統一する使命を帯びたる者なりと慢心したのが、その一原因である。
また今ひとつは、近頃ドイツの人心がようやく浮誇安逸に傾かんとするので、これを真面目にするには戦争を行うにしかずという一種の高等政策が、その動機となったのだともいう。
ところでドイツが、平押しに進んで手もなくパリを陥落し得れば当初の目的を達し得るのであるが、そううまくは問屋が卸さず、たちまち周囲の障害に出遭って時日が予想外に遷延したのは、全くドイツの失敗であった。
しかしてこの当初の失敗は、結局、最終の失敗となるであろう。されば、独、墺(注・オーストリア)両軍は今や兵数の減少をきたし、物資、金融ともに極度の窮乏を告げ、今後一年くらいは、あるいは支え得べしとするも、それ以上に持続するあたわざるは数字において明白である。
ゆえに今後、連合国側において、単独講和などの変態が起これば格別、もし連合が強硬なるにおいては、遠からず独、墺屈服の時機が到来するのは万々疑いなきところである。
また仏国は建国以来、今日ほど国民の真面目になったことがないが、この国は一種不思議の国柄で、いざという場合には、軍人にも、政治家にも、経済家にも、非凡の天才が現れ出でて、狂瀾(注・手のほどこしようのない情勢)を、まさに倒れんとするにまわした例が少なくない。
しかして今や、仏国は興国の機運が隆々として居るから、自分はある仏国人に向かい、今日になって君らが真面目になるのは、すでに遅い。なぜ今日の覚悟をもって、戦争以前より内輪喧嘩を罷(注・や)め、軍備を整え、人口減少の弊を防ぎ、ドイツをして、これに乗ずるの機会を得ざらしめなかったか、と直言してやった。仏国人はこの点において、まことによく日本人に類似し、ことあれば真面目になり、ことなければ目前の利害に眩惑して、永遠の謀(注・はかりごと)を忘却するの弊あり、殷鑑遠からず(注・戒めは身近にある)、日本は最も、今日の仏国に鑑戒(注・戒めとすること)するところなかるべからず云々。」
秋山将軍は明治元年生まれで、大正七(1918)年、五十一歳で鬼籍にのぼられたので、無論、欧州大戦の結末を見るに及ばなかったが、前記の演説などには、ほとんど後世を透視したかのような趣がある。私は当時を回想し、いまさらながら将軍の達観に感服せざるを得ないのである。
聞くところによると、将軍は大学予備門時代、正岡子規と莫逆の親友で、時に俳句を吐かれたこともあるそうだが、和歌は本格的に学ばれたので、青年時代からおりにふれて数々の詠吟がある。そのなかで、歌人らしい句調を帯びたものに次のようなものがある。
漁村夕
風の音も身にしむ秋の夕暮に さびしくかへる海士の釣舟
また、ときどき画筆を弄んだこともあるようだが、なんといっても文章が最も得意なので、意図せずしてかの名文ができ上ったのであろう。
私は前述のように将軍とは深い交際もないので、特にその遺事を記述するつもりもなかったが、昭和八(1933)年二月十六日、山下亀三郎君から「秋山真之」と題する将軍の伝記を寄贈されたので、とりあえずその中に掲げられていた、将軍から山下君に送られた二通の書簡を通読し、将軍にいかによく人を見るの明があり、またよく事に処する断があったかということをつまびらかにし、帝国海軍のためにこのような才能ある人が早逝したことを悼み、かつ世間でまだよく将軍を知らない人たちのためにここに神龍の片鱗を示そうと、いささか古くなった記憶を呼び起こしてこの一篇を綴った次第である。
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