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二百二十七  松方公財政談(下巻286頁)

 大正五(1916)年九月二十八日、私は鎌倉で死去した三井物産会社専務、渡辺専次郎氏の別荘を訪問し夫人に弔辞を述べた帰途、同地に滞留中の松方老公(注・松方正義)を訪問した。
 老公は折よく在荘で、さっそく私を客間に通してくださった。老公はこのとき八十四歳(注・1835年生まれなので、実際には数え年で82歳、満81歳)で、前頭は禿げ上がり、頭髪、口ひげともに純白だった。
 例の、大柄な頑丈づくりの体格を揺らしながら満面に愛嬌をたたえて出てこられ、薩摩弁丸出しで音吐朗々と語るところは、九十以上の高齢を保たれた特別製の健康体であると思われたものだ。
 私は、このほど公爵が私のために「嬉森庵」(注・向島の水戸徳川邸の茶室の名。277「嬉森庵の命拾ひ」を参照のこと)という扁額を揮毫してくださった好意に感謝し、室内飾り付けの書画や仏像について、ひとわたり問答をしたあと、話題はすぐに明治時代の経済政策についてに転じた。
 このとき公爵がじゅんじゅんと語られた談話の中には、このような一節があった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「明治九(1876)年、自分は大蔵次官であったが、三井の三野村利左衛門が、進取的の気性を備えた人物ではあるが、とかく仕事にしめくくりがないやり方なのを見て、かくては三井がながく繁栄を保つの道にあらずと思い、ここに三井一家の銀行を作らせ、この銀行に財力を集中して、家政のしめくくりをなさしむにしかず、と考えついたから、それとなく三野村に説いて、ついに三百万円の三井銀行を創立せしめたが、そのころ三井では、横浜の外国商館より百万円ほどの借金をしていたようなわけで、実際それだけの金を所有していたわけではない。
 しかるに翌十年、三野村が死去するや養子の利助がこれに代わったが、この男は気の小さいほうで、利左衛門の尻くくりをなすにはまことに適当な男なので、幸いに破たんをきたさず明治十五年に及んだが、自分はその前年、大隈に代わって大蔵大臣となり、大隈の発行した不換紙幣を整理するの必要を感じた。
 ところで米国その他各国の前例を見るに、不換紙幣を兌換状態に引き戻すには、一時経済界に非常なる緊迫をきたし、世間一般の不景気を招くのおそれあり、現に米国のごとき南北戦争後、不換紙幣の始末については非常に苦い経験をなめたことがある。
 この時、かの大財政家シャーマン(注・財務長官ジョン・シャーマン。原文では「シェルマン」)が、その局に当たって紙幣整理の事業を始めたが、果せるかな物論沸騰して、ほとんどこれを中止せざるべからざるに至った。

 それを、グラント(原文「グランド」)大統領は教書を発して、蹶然(注・けつぜん。きっぱりと)シャーマンの政策を支持し、みずから保障してこれを実行せしめたので、ついに有名なる不換紙幣の始末を完了することを得たのである。(注・シャーマンが財務長官だったのはヘイズ大統領時代なので、松方公の記憶違いか)
 自分はこの事情を熟知して居るから、明治十四年、いよいよ紙幣兌換政策を樹てんとするに当たり、三条(注・三条実美)、岩倉(注・岩倉具視)両公に談じ、不換紙幣始末は、かくかくの径路を辿らなくてはならぬ、もし、その終局に達する前に、両公の御決心が動揺すれは、到底その目的を達することを得ぬが、この儀、果して如何、と言いたるに、岩倉公は、慨然として、わが不換紙幣を今日のとくして経過せば、ついにエジプト(原文「埃及」)、トルコ(原文「土耳古」)のごとき状態に陥るべければ、断乎として、君の自説を実行すべしとて、大いに賛成の意を表された。
 しかし自分は、なお安心することを得ず、明治天皇陛下に謁見して、陛下の勅裁を得ざるべからずとて、岩倉、三条、両公らに伺候して、細々と(注・詳細に)紙幣償却の方法を説明し、かくのごとくせざれば、ついに国家を危うするべし、陛下は明治初年において、太政官紙幣を明治十三年に兌換すべしと宣言せられながら、今日これを引き換え給わざるは、すでに綸言(注・りんげん。君主のことば)にたがわせらるるものにて、聖代の汚点、これより甚だしきはなし。されば、いかにしても、この紙幣の整理を実行せざるべからず、と述べたるに、陛下は、汝が申すごとく実行せよ、他日、なにようのことありとも、決して異議あるべからず、と誓わせられたので、自分はこれより、紙幣整理に取り掛かり、明治二十年、銀紙の平均を得るにいたるまで、非常なる苦境に立ち、伊藤(注・伊藤博文)、井上(注・井上馨)その他の諸公さえ、松方には困るとて、なかなか攻撃論があったが、自分は陛下の御誓言を得て居るので、断然これを決行して、ついにその目的を達したのである。
 そのとき自分は、

   銀の世となりてなほ思ふかな 黄金花さく春を見るべく

と詠じて、いつかは日本を金貨本位国となし、はじめて世界一等国の伍伴(注・仲間)に列すべく希望したが、日清戦争後、かの賠償金を得たのを幸い、これまた非常の論戦難関を切り抜けて目的通り金貨本位の制度を立て、爾来、日本の外国貿易上に、銀貨時代のごとき動揺を見ざるようになったので、自ら顧みて、いささか国家に微功を効したかと、ひそかに満足して居る次第である。」


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