二百二十六
波多野長者(下巻282頁)
大正五(1916)年下期は、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響がわが国の経済界に波及し、景気勃興、福運増長し、船、鉄、株の成金の萌芽がいたるところに現れはじめたころだった。
その時代相が、私等の友人の間にも反映して、ここにさまざまな喜劇が展開した。その一例として、まず波多野長者を紹介することにしよう。
大正五(1916)七月の初旬であった。波多野古渓【承五郎】は、少し前に時事新報で発表された五十万円以上の資産家の表に名前が掲載され、これをただ微苦笑するだけでうち過ごすのかと思いきや、いっぷう変わった古渓先生は、逆に自分から切って出て、「拙者儀此度、長者仲間に加へられたるに就き、自宅に於て一夕新長者祝を挙行すべければ、何卒奮って御参会を乞ふ」との案内状を同人の間に発送した。
そこで当日の夕刻、上二番町にある波多野邸に推参すると、寄付の床には三井華精(注・三井高保)翁筆の恵比寿釣鯛図を掛け、床脇には、打出の槌(注・つち)と、大黒の形をした盆石を置き合わせ、まずは来客に当夜の先容(注・案内、紹介)を示してあった。その下に千両箱を三個積み重ね、二個には、箱に金沢益田の烙印があり、もう一個には御納戸用という書付があるのは、おそらく幕府御納戸方から出てきたものだろう。
それから程なく運ばれてきた晩餐の献立は、いずれもが長者祝いに縁のある名前の材料を選んであり、その心入れが尋常でないことが示されていた。
なお、この日の余興は、次のようなものであった。
余興
狂言 奥村金之助
一、三人長者 小早川精太郎
藤江又喜
唄 吉住小三郎
吉住小三蔵
三味線 杵屋六四郎
長唄 杵屋長三郎
一、紀文大尽 笛 住田又兵衛
小鼓 望月太左吉
太鼓 望月長十郎
太鼓 望月長四郎
唄 吉住小三郎
同 吉住小三蔵
一、七福神 杵屋六四郎
杵屋長三郎
さらにこの席上を見回すと、ちりめん鹿の子絞りの鯛を青籠に入れ、金華山金の成る木、と染め出した古風な財布に長者通宝という新調の銅貨を入れた配り物を並べ、主人はもちろんのこと、長唄連中にも、長者通宝の紋を染め出した揃いの仕着せを着用させるなど、凝りに凝った物数寄ぶりであった。
この宴会は三回を重ねたとのことだが、私のときの同席者は、朝吹柴庵(注・英二)、団狸山(注・琢磨)、藤山雨田(注・雷太)、岩原謙庵(注・謙三)ら十五、六名で、時代を反映したその異風な饗応には、来客一同あっと感嘆し、長者の豪勢ぶりを謳歌しない者はなかった。
藤原の紙成(下巻284頁)
これも時代を反映する喜劇的茶事の一幕であったが、その主人公としてここに紹介しようとするのは、王子製紙会社専務の、藤原の紙成【銀次郎】君である。
君は、明治四十四(1911)年より同専務となり、足かけ六年間、拮据(注・忙しく働くこと)経営の甲斐あり、また時局もその成功を助けて社運隆々となったので、近頃続出する船成、株成、鉄成の名称にちなみ、同人たちは君を「紙成」と呼んだ。
一夕、築地明石町の某亭に招待したところで、その趣向と言っぱ(注・言うのは)、寄付に雷公起雲図を掛け、雷を紙成に響かせ、本席には信実(注・藤原信実)筆の猿丸太夫に、平業兼が「奥山にもみぢふみわけなく鹿の」の歌を書きつけた一幅を掛けて、業兼(注・なりかね)を成金に通じさせる。茶碗は仁清作の金銀筋大小二ツ組を用い、道具から懐石献立にいたるまで、すべて紙成の意匠をこらしてあった。そのうえ、席の隅に祝賀帖を備え置き、参会者に随意に楽書きを乞うたので、昔の歌人の苗字らしき藤原を連想して、駄句の数々ができ上ったのである。
その中には、次のようなものもあった。
紙の本の人〇
ほのぼのと明石の町の夕ぎりに 金まうけゆく紙をしぞ思ふ
詠人知らず
千早振る紙のめぐみにしろかねも こがねとなりて花さきにけり
権化
此度はぬしに取あへず手向山 もみぢのにしき紙のまにまに
藤原の定価狂
銀が金になる世なりけり 紙無月どの手すぢよりまうけそめけん
このような、千早振る神代も聞かぬ名歌が、続々と書き連ねられたので、藤原君もそのままには捨て置かれず、このほど、ようやく出来上がった麻布新網町の茶席開きを兼ねて一趣向をこらすことになった。伊達家入札会にて落札した、兆殿司筆の緋衣達磨の一幅を掛け、道具、懐石にもそれぞれに応酬の深意を寓し、本来無一物といった悟り顔をしながら、悪友どもの鋭鋒を避けきった実業的手腕は、紙成大尽の初陣の大成功に終わり、目出度かりける次第であった。
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