二百二十五 伊達家道具入札会(下巻278頁)
私は大正元(1912)年から、日本全国の名物茶碗を調査して名器鑑を編成しようという志を持っており、当時もっとも多くの名器を所蔵していた旧国持ちの大名家に手づるを求めて、その調査を進めつつあった。
その一方で茶会記を執筆し新聞紙上に掲載していたので、大正時代から昭和時代に及ぶまで、大きな道具入札会の世話人を依頼されることは何度あったかわからない。しかしながら、それが名器を調査するうえでの非常な便宜となったので、その都度すこしばかりの労を厭わなかったので、この間の道具移動に関しては耳にはいってくることがきわめて多かった。その件に関しては、昭和四(1929)年に私が編纂した「近代道具移動史」に詳述したので、「箒のあと」においては、このことにあまり多くは触れようと思わない。その中で、もっとも特色のあった三つの大道具入札会のことだけを紹介しようと思う。
さて、この三大入札会とは、まず大正五(1916)年に行われた仙台伊達家の道具入札会であり、これが旧国持ち大大名家の道具入札の先駆けである。
二番目は、同六年に行われた赤星家の入札会で、その売り上げ総額が五百万円を突破したという空前の巨額入札である。
三番目が、同十二(1923)年に行われた若狭酒井家の入札会で、品数わずかに百二十点で二百四十円あまりに達したという無類の名品ぞろいの入札であった。
まずは、伊達家の入札会から話を始めよう。
大正五年五月十六日に第一回、同七月五日に第二回が挙行された仙台伊達家の道具入札会は、維新後に大大名が堂々と名乗りを挙げて、その蔵品を入札市場に送り出した最初のものだった。これは、他の道具持ちの大名家に対し非常に有力な勧誘作用を果たし、また、その模範にもなった。
そもそも、徳川時代を通じ、日本で個人が所有する名器は、十中七、八は国持ち大名の手中にあり、残る二、三が、民間の富豪と、公卿名家の所蔵だった。
旧国持ち大名は、明治初年の版籍奉還に次ぎ、廃藩置県に遭遇し、所持する財産のほかには新たに収入の道がないので、いわゆる「ジリ貧(原文「ぢりぢり貧乏」)」で、だんだんと窮迫に陥ったが、「古池に水絶えず」のたとえに洩れず、何とか食いつないで、簡単には先祖伝来の道具を売却するには至らなかった。中には多少売却した者もなかったわけではないが、さすがに名門の家名を惜しみ、公然と名乗って道具を入札市場に出す者はなかったのである。
そこへ仙台伊達家のような大名家が、大っぴらに名乗って道具入札会を開いたので、これを見聞した諸大名家は、伊達家すらが、すでにかくのごとしである、われらも決して遠慮するに及ばない、ということで、このときから諸大名家が続々と道具を売却し始めた。
その折も折、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響で、世間に続出した成金が、さかんに道具を欲しがり求めたので、ここに売り手と買い手の双方が出現して出会い、古今未曾有の道具大移動が発生したのである。
かくして、伊達家の入札会は、東都(注・東京)、京阪の道具商の十五名が札元になり両国美術倶楽部で開かれた。
これぞ、維新後における道具入札のレコード破りで、第一回の売り上げは百万円を突破し、第二回とあわせて、総額百五十万円に達した。
そのうちで、三万円以上だったのは、次のものであった。
名物唐物福原茄子茶入 金五万七千円
名物唐物岩城文琳茶入 金五万六千円
牧谿筆朝陽 金五万五千円
青磁東福寺香炉 金五万千円
黒地有明蒔絵硯箱 金三万六千円
砂張淡路屋船花入 金三万三千五百円
元信筆真山水 金三万円
名物此世香炉 金三万円
元信筆中布袋左右松柏猿猴三幅対
金三万円
以上の入札が行われた大正五年は道具相場がまだ絶頂に達していない時期で、この落札価格の多くがレコード破りとなった。大正四年に京都で行われた、雁半こと中村氏(注・京都の織物商、中村氏雁金屋半兵衛のことと思われるが詳細不明)の入札道具の相場が高価で、これを雁半相場と呼んでいたのに、今度はそれを凌駕したので、新たに、伊達相場という熟語が流行することになった。
伊達家は、人も知る国持ち大名の白眉で、政宗以来、家格に相応した多数の名器を受け継いだうえに、四代綱村が茶事を好み、おおいに名器を蒐集し、石州流の清水道閑のような茶博士を招聘してさかんに茶道を奨励したので、同家には多くの収蔵品があった。
以前には大阪の炭彦こと白井家に入質後に岩崎弥之助男爵の手に移った数々の名器もあったし、この入札の数年前に伊達伯爵家から明治天皇に奉献された公任卿朗詠の二巻(注・伝藤原公任筆和漢朗詠集)のようなものもあった。このような名品が、実に山のようにあったため、同藩出身の富田鐵之助氏らの献策で、このままこれらの品々を保存することは覚束ないので、このへんで処分し、天下の数寄者たちに分配するのが名器所有者の取るべき道であろうということになり、その処分が馬越恭平氏に委嘱された。
馬越氏は、先年三井家を離れたときに、富田氏から有力な後援を得たことに恩義を感じ快くこの委嘱を引き受け、一生懸命に周旋の労を取ったばかりでなく、自身もまた入札の大手筋(注・大口入札者)になり、おおいに景気をつけたので、それぞれの品目ごとにレコード破りが続出した。
大正八(1919)年ごろの成金爛熟期に比べれば、まだなお絶頂に達しておらず、あるいは七、八合目の相場だったかもしれないが、とにかく、大名道具移動の先駆になったもので、大正年代における道具入札のうちで、もっとも意義あるものであろうと思う。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント